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税所氏
亀甲に花菱
(称藤原姓/檜前姓?)
●「税所一族史記」の「家紋」の項を参考にした。薩摩から出て明治政府の高官に出世した税所篤の家紋は「亀甲花崩し」であり、中世税所氏も亀甲を家紋としていたものと推察される。
 


 税所氏は奈良・平安から鎌倉時代にかけて、南九州の大隅国曽於郡・小河院を中心に勢力を振るった、いわゆる在地豪族である。
 税所とは国衙における役所名(職名)で、文字どおり税の徴収などにあたった。税所氏はこの職を世襲したことから、やがて名字とするようになった。藤原姓を称しているが、本来は檜前姓であったようだ。ちなみに、税所は「さいしょ」と読むが、「ぜいしょ」と呼ぶときもあるようだ
 税所氏のように職名を名字とした例としては、鎮西の少弐氏、常陸の大掾氏、安芸の田所氏などが知られる。

税所氏の出自と勢力拡大

 税所氏系図によると、治安元年(1021)光孝天皇八代の孫敦如が京都から大隅に下り、曽於郡に居を構えて「曽於殿」と呼ばれ、その子義篤は襲山村重久の「関の坂」に居を移して「坂ノ上殿」と呼ばれたことに始まるという。
 一方、『薩隅日地理纂考十七之巻』の「税所祀』には税所氏の出自について、「宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如が、後一条天皇の代に大隅国国府郷八幡宮と霧島神社との神職となり、治安元年に大隅国に下向し曽於郡に住した云々」とある。現在、霧島神宮の一角に税所神社が祀られているが、これは、税所氏が霧島神宮の神領の租税徴収に関わっていたいたことを裏付けるものであろう。
 いずれにしろ、税所氏は鎌倉時代において、大隅国在庁官人・国方御家人・曽於郡郡司・薩摩満家郡郡司・正八幡宮政所職・霧島神宮座主職などを有した、大隅における一大豪族であった。建久八年(1197)の図田帳によれば、税所篤用(茂)は曽野郡重富・重武・桑東郷松永に田地を所有し、大隅国衙の税所検校、押領使職をつかさどる国方御家人として「大隅国注進御家人交名等事」に名を連ねている。同じく長兄の篤守が曽野郡司として、次兄の篤真も重久の名主として名をつらねており、税所一族が繁衍していたことが知られる。
 税所篤用の子篤満は、和田義盛の乱(1213)に出陣し、義盛の子四郎左衛門以下三人を討ちとった。しかし、みずからも負傷して、三日後に死去した。篤満の弟祐満は兄の軍功により薩摩満家郡を与えられ、大隅国大介税所職・押領使職・曽野郡郡司職・止上大宮司職・厚地山座主職・薩摩満家郡郡司職となった。
 かくして、税所氏は曽於郡城(橘木城)を本拠に、姫木城、隈部城などを支城として、やがて大隅の有力国人領主に成長していったのである。

中世の動乱と税所氏

 税所氏は鎌倉時代を通じて在庁官人、国方御家人として大隅国一円に勢力を振るった。やがて、南北朝時代になると、日薩隅三州を舞台に島津氏と畠山氏とが熾烈な戦いを展開した。税所一族は畠山氏方に属して反島津党として行動したが、重久氏のように島津方につき、橘木城を守って肝付兼重と戦い勇名を馳せた一族もいる。また、文和二年(1353)の島津氏久注進の敵味方交名によると、反島津陣営の中に在所一族と姫木郡司一族の名がある。さらに、税所一族である姫木氏に対して、島津・畠山の両陣営から、恩賞をちらつかせた誘いの手がのびている。
 南北朝時代、税所氏はおおむね北朝方であったが、北朝方分裂のなかで惣領家は尊氏に近い畠山氏に属して行動した。しかし、一族のなかには惣領に従わず、独自な行動をとるものもあったようだ。ここに、南北朝時代の一特徴である惣領制の崩壊を税所氏にもみることができる。
 室町時代になると、薩摩・大隅の守護を兼帯する島津氏の動向に税所氏は左右されるようになった。文安四年(1447)、清水の本田信濃守重恒が島津忠国に叛し、忠国は姫木城に出陣してきた。本田信濃守は税所氏に救援を求め、税所氏はこれを受けて本田信濃守と合して姫木城を攻撃した。島津忠国は姫木城から出撃、激戦のすえに本田信濃守は討たれ、税所勢は敗走した。
 応仁元年(1467)、京都を中心として応仁の乱が起こると、世の中は戦国時代へと移行していった。そのようななかの文明八年(1476)、島津氏一族の国久・季久が本家で薩摩・大隅の守護である島津忠昌に叛旗を翻し、大隅宮内・敷根・清水等を攻撃した。このとき、税所氏は本田兼親とともに国久・季久の党に与して、守護島津氏に対立している。
 文明十五年、税所篤庸は島津忠廉の拠る帖佐城を襲撃した。対する忠廉は帖佐城から打って出て、戦いは篤庸の敗北となった。本拠に逃げかえろうとした篤庸は、忠廉の奇計により再び敗れ、ついに忠廉に降った。この敗戦により、曽於郡は忠廉の支配するところとなり、古代より栄えた税所氏も没落の運命となった。
 文亀二年(1502)、島津忠昌が足利義稙の使者を曽於郡城で引見した。曽於郡城は税所氏の本城であったもので、税所氏が十五世紀の末期において国人領主としての勢力をまったく失っていたことを示している。

その後の税所氏

 島津忠廉に敗れた敦庸のあとは敦重が継ぎ、そのあとは敦昌が継いだことが系図から知られる。敦昌のあとを継いだ篤秀は隈城で討死したため、弟の篤豊が家督を継ぎ、その子篤載は島津義久・家久に納戸役として仕えた。
 他方、敦昌の弟敦好(篤好)に始まる税所氏は、篤家、篤辰と続いて、篤辰は天文七年(1538)加世田の戦いで戦死した。篤辰の子篤和は天正八年(1580)ごろに先祖ゆかりの地である曽於郡の地頭となり、諸所の合戦に参加して軍功をあげている。
 その他、七代税所敦貞の次男敦弘に始まる税所氏の敦秀入道一和は笛の名手として知られ、篤好の弟とみられる税所但馬篤清は島津家久に仕えて使役を務め、琉球奉行・京都御蔵奉行などを務めた。他にも島津氏家中に多くの税所氏がみえ、独立した領主としての勢力こそ失ったが、大族税所氏の血脈は薩摩・大隅に健在であったといえよう。・2005年3月3日
・明治の男爵、税所篤の「亀甲花崩し」紋

【主な参考文献:国分郷土誌・姓氏家系大辞典・鹿児島県姓氏家系大辞典 など】


■参考略系図


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