●池田氏の内訌
信長の麾下となった勝正は、池田勢を率いて各地を転戦することになる。永禄十一年には京都の市中警護に駆り出され、翌年には桂川の戦い、ついで但馬の山名祐豊攻め、播磨国浦上城攻撃等に従軍した。さらに、越前朝倉攻めにも従軍した。このとき、羽柴秀吉とともに越前金ヶ崎城で殿軍をつとめたとする説もある。
信長の越前攻めの失敗をみた三好三人衆らは、畿内への巻返しを企図し、それが池田氏にも影響を与えた。すなわち、池田氏の重臣である荒木村重・中川清秀らが、三好三人衆に通じる勝正の弟知正と結んでクーデターを起し、勝正は池田城から追放されてしまったのである。その後の池田城では、荒木村重らが勝正の子直正を池田家の新しい当主に迎えたが、ほどなく直正も父と同様に追放されたようだ。
この池田氏のクーデターは知正が中心人物であったと思われ、村重や清秀は知正に従ったようだ。そのことは、知正が池田城に入り、村重は池田氏勢力の最前線である茨木城に入っていることからもうかがわれる。
この池田氏の異変に対して、幕府は和田惟政・三淵藤秀・細川藤孝らを池田城周辺に出兵させている。間もなく、三好勢が阿波から兵庫津に上陸、伊丹氏を南北から挟撃する作戦を展開した。池田勢もこれに加わったが、伊丹氏の反撃によって三好勢は撃退され兵を引き上げていった。
一方、城を逐われた勝正は、織田・足利軍に付いて各地を転戦し、元亀二年(1571)、幕府から遣わされた細川藤孝とともに池田城攻撃に参加した。このとき、池田城は落ちず細川藤孝は兵を退き、勝正は原田城に入ったことが知られる。
知正を総領とする池田氏は三好三人衆方として、元亀二年、織田=幕府方の摂津守護和田惟政と戦ってこれを討ち取り、勢力を伸長させた。そして、茨木や吹田などを手中に収め、京都から西の織田=幕府方勢力を分断する形勢を作り上げた。やがて、三好三人衆勢と織田=幕府方の戦いは河内方面に移動し、一進一退の攻防が繰り広げられた。
●池田氏の終焉
元亀三年、織田=幕府方は北河内の交野へ出陣し、河内の織田=幕府方の中心である高屋城救援作戦を展開し、一応の成果をおさめて撤退した。この作戦に、池田勝正も従軍して活躍したようだ。織田=幕府方に対して、三好三人衆と結ぶ本願寺顕如が一揆を起させ、摂河泉において三好三人衆勢の活動が活発になった。
この転変する激動のなかで、池田氏は勝正と知正とに分裂してそれぞれの立場で時代に翻弄されていた。そのようなおり、将軍義昭と織田信長との対立が顕在化し、池田氏にも少なからぬ影響を及ぼした。そして、池田家中において荒木村重が頭角を現わし、知正は村重に政治・軍事の実権を握られ、事実上、主家と家臣の立場が逆転した。池田氏を掌握した村重は信長方に加担し、これまで、織田=幕府方として活動してきた勝正は将軍義昭方に付いてしまった。
以後、村重は信長の麾下として摂津の実力者となり、天正元年(1573)には信長から「摂津守」の官位を受けて摂津郡の統治委任(守護職)を受けるまでになった。勢いに乗った村重は、池田勢の掃討にかかり、原田城の勝正を攻め高野山へ追放、翌年には伊丹城を落して伊丹氏を滅ぼした。
村重は伊丹城に入り、池田城には信長の命によって村重の配下となった知正が入った。かたちの上では池田氏による池田城の回復といえるが、その内実は村重の与力という存在であった。のちに知正は信長のあとを継いだ豊臣秀吉から、摂津の豊島周辺に二千七百八十石の禄を受けている。秀吉没後、徳川家康に仕え、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦」では家康に味方して戦後五千石に加増された。しかし、慶長十九年、知正のあとを継いだ光重が官位と所領を没収され改易となり、池田氏は没落の運命となった。
一方、池田家を追放された勝正は細川藤孝に仕え、ついで摂津三田の有馬則頼に仕えたという。しかし、池田家中の内訌のとき、村重に殺害されたともいい、勝正の終焉については不明というしかないようだ。
【参考資料:池田市史/紀池田氏研究=池田輝海氏(歴史読本・S48.10) ほか】
■参考略系図
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