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池田氏
横木瓜
(紀氏族/清和源氏ともいう)

 池田氏のはじめは、景行天皇の後裔が和泉の旧池田村に居住したことに始まるという。その地の豪族として朝廷から池田首の姓も受けていたが、大化の改新で豪族勢力が抑えられ、その後池田村は摂関家の荘園となり池田荘と呼ばれた。この池田首の末裔が美濃の荘官として赴任し、その地が美濃池田荘と呼ばれ、池田郡になったという。貞観のころ(859〜876)の領主は池田維将で、その娘が、中納言紀長谷雄の子淑望に嫁いだ。そのゆかりで淑望の次男維実が美濃池田に住み池田を号したので、これを紀姓池田氏という。
 維実より五代の奉貞の妹が源頼政の弟仲光に嫁ぎ、その四男泰政を奉貞が養子として迎え、ここから清和源氏池田氏となる。
 泰政は美濃池田と摂津豊島の地頭職を兼ね、京都滝口にあった武者所にも勤め、源平の争乱にも遭遇した。治承四年(1180)、兄頼政が以仁王を奉じて挙兵すると、池田泰政はその一族として義弟や子たちとともに頼政に加担して戦死した。その後の源平合戦において、源氏方が勝利したことによって、池田氏の安泰が約束された。すなわち泰政の子泰光は、美濃池田郡司薩摩守となり、孫の泰永は武者所に仕えて刑部丞になった。泰永は美濃池田郡と摂津豊島郡の兼務を分け、摂津には時景(女婿?)を、美濃は泰継に継がせている。
 時景より三代の孫にあたる教依が、いまの池田市城山町に城館を設けた。ときあたかも南北朝の戦乱期にあたり摂津守護は楠木正成で、のちに教依は足利尊氏から本領安堵をうけた。教依は楠木正成の嫡男正行の遺児教正を引き取って育て、のちに池田氏の惣領としている。ここに、池田氏は橘姓になったことになる。
 このように池田氏の系譜を見ると、古代豪族に発して紀氏、清和源氏、橘氏と変化し、ひとつの家とはいいいながら時代の流れによってさまざまに変貌している。このことは程度の差こそあれ、ほとんどの家に共通したことであり、本姓を議論することの無意味さを示したものともいえよう。

池田氏の勢力伸張

 南北朝の争乱も終わろうとする明徳二年(1391)、山名氏清が幕府に叛旗を翻した「明徳の乱」が起ると、池田佐正は室町幕府の命を受けて出陣し乱の鎮圧に活躍した。その功により、将軍義満から采地を賜るとともに、「三ッ木瓜紋」を拝領したと伝えられている。
 その後、室町時代に至って、充正のときに威勢がおおいにあがった。充正は幕府管領細川勝元に属し、その被官のなかでも有力な国衆であり、「嘉吉の乱(1441)」後、荘園の代官請負や高利貸によってたいへんな富を貯えた。一国人でありながら守護大名に匹敵する経済基盤を確立し、その繁栄ぶりは中央にまで聞こえ、貴族からも「富貴栄華の家」「富貴無双」などと称された。
 嘉吉三年(1443)には池田城を改築したが、当時としては珍しかった本丸の周辺に弓場や馬場を設けた。また高台地を屋敷町にし、常備の武士を城内に置いて非常に備えるなど、武士がそれぞれの領地に住している時代としては進歩的な試みをみせている。
 その後、応仁の乱が勃発しようとするとき、勝元麾下の有力国人として、馬上十二騎、野武士千人を従えて上洛したりした。そして、応仁の乱では勝元率いる東軍に属して、西軍方の大内氏と戦い、文明元年(1469)池田城を落された。しかし、ほどなく大内氏が撤退したことで池田城を奪回すると領地を拡大し、同十年には摂津国桜井郷の代官職を獲得した。
 充正はその一代において、大広寺の伽藍諸堂を再建して菩提寺とし、池田氏の基礎と財政基盤を築きあげ、摂津の有力国人としての地位を確立した。ところで、充正の弟恒元(恒正とも)が尾張に移住し、その子孫から織田信長の乳兄弟として重用される池田恒興が出たと伝えられている。
 応仁の乱は京都を中心に約十一年間続いて終息したが、その影響は全国におよび下剋上の横行する戦国時代となったのであった。
・家紋:三つ盛木瓜

打ち続く戦乱

 戦乱は旧勢力の衰退を促し、新興勢力の勃興をよんだ。幕府の威勢は衰え、守護大名らも分国内の国人勢力の台頭に悩まされ、ついには被官、国人らの下剋上によって没落するものも出た。さらに、将軍も時の権力者によって簡単にすげ替えられ、将軍の権威はまったく地におちたのである。

●丹波守護-細川氏系図


■ 細川氏の内訌年表

 細川勝元のあとを継いで幕府管領となった政元は、「半将軍」と呼ばれ幕府の実権を握り、明応二年(1493)クーデターによって将軍義稙を追放した。政元は生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、澄之・高国・澄元の三人を養子にしたことから分裂を起こした。永正四年(1507)、政元は澄之を擁する香西元長らに暗殺され、細川氏は血を血で洗う内訌のすえ、政元政権を受け継いだのは澄之であった。やがて、細川高国・同政賢、三好之長らの支援を得た澄元が澄之を倒して細川惣領家の家督を継いだ。
 政元が死去したことで、永正五年(1508)、政元に追われ周防に逃れていた前将軍義稙が大内義興に擁されて入京してきた。将軍義澄と細川澄元は近江に逃れ、義稙は高国の支持を得て将軍に返り咲いたのである。当然、義稙を担ぎ出した高国が管領となり、大内義興は管代となった。しかし、幕府内の権力闘争はその後もやまず、永正八年(1511)には対抗勢力の挙兵によって、義稙は高国とともに丹波に逃れるということもあった。
 この泥沼の争乱のなかで、充正の子貞正は澄元に与して戦った。永正五年、高国が差し向けた細川尹賢の大軍に池田城は包囲され、激しい攻防戦が展開された。やがて、一族の池田遠江守正盛が投降し、外堀を埋められ、貞正は降伏の決意を固めた。貞正は妻と息子らを数名の家臣とともに落ち延びさせたのち、城を自焼して大広寺に駆け込み、そこで、一族二十余人とともに自刃した。

渾沌をきわめる畿内の動乱

 落ち延びた貞正の子三郎五郎(のち久宗・信正)は有馬郡の下田中城に身を隠して、雌伏を余儀なくされた。やがて、永正十六年(1519)、阿波の三好之長が細川澄元を奉じて上洛、下田中城の三郎五郎もこれに同調して挙兵、敗れた高国は近江に逃れたが、このとき義稙は澄元に味方して京都にとどまった。対する高国は六角氏らの力を借りて逆襲し、三好之長は自害、澄元は阿波に奔った。
 以後、高国の専横は甚だしいものとなり、大永元年(1521)義稙は淡路に逃れた。高国は義稙に替えて、義晴を十二代将軍に擁立した。将軍の首もすげ替える幕府の実力者として権勢を振るった細川高国であったが、享録四年(1531)、細川晴元・三好元長らと摂津天王寺で戦い敗れ、捕らえられた高国は自害した。「大物崩れ」と呼ばれ、高国政権は崩壊した。
 こうして細川高国を倒した細川晴元であったが、今度は晴元と元長とが対立するようになった。晴元は河内北半国守護代の木沢長政を重用したが、享録五年、三好勢は木沢長政らを飯盛山城に囲んで猛攻撃を加えた。晴元は劣勢を挽回するため、本願寺に支援を頼み、本願寺証如は摂津・河内・和泉の門徒に檄を飛ばして細川晴元に加担するように伝えた。その数三万という大軍で、三好元長勢はたちまち蹴散らされて敗走し、元長は高屋城に逃げこんだが、結局本願寺宗徒によって滅ぼされてしまった。
 この一件によって、本願寺宗徒の一揆は暴走を始め、大和で一向一揆の蜂起があり、さらに摂津でも一揆が起り池田城が包囲された。一揆のあまりのすさまじさを見た晴元はこれを警戒するようになり、ついには本願寺とは敵対関係となったのである。その後、晴元は法華衆や在地勢力を糾合し、次第に一向宗勢を追いつめ、その本拠地である京都山科の本願寺を焼打ちにした。本願寺は大坂御坊に拠点を移し、その後も勢力を維持した。
 池田氏は晴元に属して本願寺勢と対立を続け、ときには伊丹氏と組んで、一向宗の拠点を焼き討ちしたり、晴元を池田城に迎えて西摂津の戦況を見守ったりした。

時代の転換

 乱世が乱世をよび畿内は混乱を続けたが、天文二年(1533)、三好長慶が本願寺と幕府の調停役を果たし、一応の小康を迎えた。このとき、長慶は十二歳であったという。長慶は天才的な軍略、政治的才能を発揮し、細川家の内訌に主導的立場で臨み、ついには三好政権を発足させるのである。その間、池田氏も政争に巻き込まれながら、着実に強固な地位を築いていった。
 三好長慶は室町将軍義輝と争うまでになり、河内や和泉・大和なども次々と支配下におさめ、五畿内を含む近隣九ヶ国を治める大守に成り上がった。ときの池田氏の惣領長正は長慶麾下にあって各地を転戦、自領の拡大につとめ池田周辺に確固たる勢力を築き上げたのである。
 永禄五年(1562)、反長慶勢力の攻勢が開始され、長慶の弟義賢が岸和田で戦死し、ついで長慶の居城である河内飯盛山城が畠山高政の軍勢によって包囲された。これを救援するため、長慶の重臣である松永久秀が摂津など近隣の国人を率いて出陣、これに長正も参加した。久秀は見事に高政勢を敗退させ、長慶は畿内における政治的優位を保った。
 翌年、長正は病死し勝正が家督を相続し、勝正も三好長慶に属した。永禄七年、長慶が死去すると、三好家は松永久秀と三好三人衆が協力して政権を維持しようとた。しかし、松永久秀と三好三人衆とが対立して争乱状態となっていった。勝正は三好三人衆側に加担し、松永勢を次第に追い詰めていった。ところが、そこに一大転機が訪れる。
 永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛した尾張の織田信長が、摂津に侵攻してきた。他の国人や大名がいち早く降るなかで、池田勝正は池田城に籠って信長に敢然と抵抗したが、信長の圧倒的な軍事力の前に降服せざるを得なかった。信長は勝正を咎めることなく、所領安堵だけではなく加増まで行った。さらに伊丹氏・和田氏とともに、勝正を「摂津三守護」に任じる優遇を与えたのである。この時の池田家の所領高は『細川両家記』によれば二万石、『織田武鑑』では六万石というものであった。
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池田城址を訪ねる




鎌倉時代に築かれたのが始まりで、室町時代に池田充正が城の規模拡大を行い城下町池田が形成されたようだ。その後、興亡を繰り返し、池田勝正のとき信長に属したが、のちに家臣であった荒木村重の下剋上によって池田宗家は没落した。現在、発掘調査の結果に基づいて虎口・土塁・排水溝・井戸・枯山水の庭等が復元され、二層の模擬天守(櫓)と4ヶ所の城門(模擬)が設けられたが、これは意見の分かれるところであろう。とはいえ、南と西側が崖と谷を利用した要害となっていて、東側は空堀となっており、城の往時の姿に思いを馳せることができる。城址北方にある池田氏の菩提寺大広寺には、最後の池田城主池田知正の墓碑が静かに佇んでいる。


池田氏の内訌

 信長の麾下となった勝正は、池田勢を率いて各地を転戦することになる。永禄十一年には京都の市中警護に駆り出され、翌年には桂川の戦い、ついで但馬の山名祐豊攻め、播磨国浦上城攻撃等に従軍した。さらに、越前朝倉攻めにも従軍した。このとき、羽柴秀吉とともに越前金ヶ崎城で殿軍をつとめたとする説もある。
 信長の越前攻めの失敗をみた三好三人衆らは、畿内への巻返しを企図し、それが池田氏にも影響を与えた。すなわち、池田氏の重臣である荒木村重・中川清秀らが、三好三人衆に通じる勝正の弟知正と結んでクーデターを起し、勝正は池田城から追放されてしまったのである。その後の池田城では、荒木村重らが勝正の子直正を池田家の新しい当主に迎えたが、ほどなく直正も父と同様に追放されたようだ。
 この池田氏のクーデターは知正が中心人物であったと思われ、村重や清秀は知正に従ったようだ。そのことは、知正が池田城に入り、村重は池田氏勢力の最前線である茨木城に入っていることからもうかがわれる。
 この池田氏の異変に対して、幕府は和田惟政・三淵藤秀・細川藤孝らを池田城周辺に出兵させている。間もなく、三好勢が阿波から兵庫津に上陸、伊丹氏を南北から挟撃する作戦を展開した。池田勢もこれに加わったが、伊丹氏の反撃によって三好勢は撃退され兵を引き上げていった。
 一方、城を逐われた勝正は、織田・足利軍に付いて各地を転戦し、元亀二年(1571)、幕府から遣わされた細川藤孝とともに池田城攻撃に参加した。このとき、池田城は落ちず細川藤孝は兵を退き、勝正は原田城に入ったことが知られる。
 知正を総領とする池田氏は三好三人衆方として、元亀二年、織田=幕府方の摂津守護和田惟政と戦ってこれを討ち取り、勢力を伸長させた。そして、茨木や吹田などを手中に収め、京都から西の織田=幕府方勢力を分断する形勢を作り上げた。やがて、三好三人衆勢と織田=幕府方の戦いは河内方面に移動し、一進一退の攻防が繰り広げられた。

池田氏の終焉

 元亀三年、織田=幕府方は北河内の交野へ出陣し、河内の織田=幕府方の中心である高屋城救援作戦を展開し、一応の成果をおさめて撤退した。この作戦に、池田勝正も従軍して活躍したようだ。織田=幕府方に対して、三好三人衆と結ぶ本願寺顕如が一揆を起させ、摂河泉において三好三人衆勢の活動が活発になった。
 この転変する激動のなかで、池田氏は勝正と知正とに分裂してそれぞれの立場で時代に翻弄されていた。そのようなおり、将軍義昭と織田信長との対立が顕在化し、池田氏にも少なからぬ影響を及ぼした。そして、池田家中において荒木村重が頭角を現わし、知正は村重に政治・軍事の実権を握られ、事実上、主家と家臣の立場が逆転した。池田氏を掌握した村重は信長方に加担し、これまで、織田=幕府方として活動してきた勝正は将軍義昭方に付いてしまった。
 以後、村重は信長の麾下として摂津の実力者となり、天正元年(1573)には信長から「摂津守」の官位を受けて摂津郡の統治委任(守護職)を受けるまでになった。勢いに乗った村重は、池田勢の掃討にかかり、原田城の勝正を攻め高野山へ追放、翌年には伊丹城を落して伊丹氏を滅ぼした。
 村重は伊丹城に入り、池田城には信長の命によって村重の配下となった知正が入った。かたちの上では池田氏による池田城の回復といえるが、その内実は村重の与力という存在であった。のちに知正は信長のあとを継いだ豊臣秀吉から、摂津の豊島周辺に二千七百八十石の禄を受けている。秀吉没後、徳川家康に仕え、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦」では家康に味方して戦後五千石に加増された。しかし、慶長十九年、知正のあとを継いだ光重が官位と所領を没収され改易となり、池田氏は没落の運命となった。
 一方、池田家を追放された勝正は細川藤孝に仕え、ついで摂津三田の有馬則頼に仕えたという。しかし、池田家中の内訌のとき、村重に殺害されたともいい、勝正の終焉については不明というしかないようだ。

参考資料:池田市史/紀池田氏研究=池田輝海氏(歴史読本・S48.10) ほか】


■参考略系図


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