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北郷氏
●北郷十字
●島津氏庶流
 


 島津氏四代の忠宗には七男があり、家督は長男の貞久が襲いだ。次男忠氏は下野守を称して和泉氏を、三男忠光は三郎左衛門尉と称して佐多氏を、四男時久は近江守を称して新納氏を、五男資久は樺山氏を名乗った。そして、六男の資忠は尾張守を称して北郷氏の始祖となった。
 資忠が生きた時代は南北朝の争乱期にあたり、資忠は兄で宗家の家督貞久とともに足利尊氏に属してたびたび戦功をあげ、日向国諸県郡北郷三百町を与えられた。正平七年(1352)、資忠は古江川が小渓谷をなす天然の要害の地薩摩迫に居館を立て、地名をとって北郷と名乗ったのである。また、薩摩迫を安永権現にちなんで安永と呼んだ。
 正平十一年、宗家氏久が南朝方に転じたため、資忠もこれに従って南朝方についた。これを怒った尊氏は、資忠の領地をとりあげ球磨の相良氏に与えた。その後、正平十五年に至って、氏久はふたたび武家方に復したため、資忠もこれに従い北郷の地を復することができた。

都城に拠点を築く

 資忠のあとは嫡男の義久がつぎ、義久は天授元年(1375)に安永から南郷都島に移って、新たに城を築くと都城と呼ぶようになった。これが、現在の都城の地名の始まりである。北郷氏が新たな拠点とした都城は、要害とはいえ発展性にとぼしかった安永に比べて、北諸県一円の支配に格好の地であり、将来の発展にも申し分のないところであった。
 ところで、南北朝の争乱はおおむね北朝方が優勢であったが、九州では征西将軍宮懐良親王を奉じる菊池武光らの活躍で南朝方勢力が振るっていた。建徳二年(応安四年=1371)、幕府は九州探題に今川了俊を起用して頽勢挽回を図った。了俊は九州の諸勢力を懐柔、島津氏も了俊の下に従った。天授元年(永和元年=1375)、了俊は菊池氏の本拠隈府城を攻撃するため出陣、水島に陣営を構えると、島津氏久、大友親世、少弐冬資ら九州三人衆にも来援を求めた。
 この了俊の求めに島津氏、大友氏はただちに応じたが、ひとり少弐冬資のみが応じなかったため、了俊は島津氏久にたのんで冬資の来援をすすめさせた。氏久の呼びかけに応じて水島に来陣した冬資は、その本心を疑う了俊によって謀殺されてしまった。この了俊の行動に怒った氏久は、そのまま陣をはらって帰国した。
 一方、島津氏久の行動に対して了俊は、幕府に働きかけて島津氏の薩摩・大隅守護職を奪い、子の義範を日向に派遣した。日向諸将に来援を求めた義範は、島津氏の前衛ともいうべき北郷氏の守る都城に攻撃を開始した。都城が今川氏に攻撃されたことを知った氏久は、ただちに出撃すると天ヶ峯に布陣した。天授二年二月、氏久は新納実久を月一揆と称して左翼に、本田重親を杉一揆と称して右翼に、そしてみずからは小一揆と称して蓑原に向かって進発したのである。
 氏久の援軍をみた都城の義久も城兵を従えて出陣、今川軍と激戦となり、弟基忠・忠宣は戦死し、義久は重傷を負って城に退去した。北郷勢の奮戦を聞いた氏久は蓑原の敵陣に攻撃をかけたが、戦いに利なく本田重親ら多くの兵を失って敗退した。しかし、今川軍の損傷も大きく、義範は兵をまとめると下財部方面に退去していった。これが「蓑原の合戦」と呼ばれる戦いで、都城はなんとか落城を回避することができた。

北郷氏の勃興

 今川義範は都城の攻略に失敗したとはいえ、着々と大隅地方に勢力を伸長し、日薩隅、さらに肥後の武士たちは今川氏に従うようになった。ここに至って、島津氏もついに今川氏と和睦したが、その後も島津氏と今川氏の対立関係は是正されることはなかった。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀に渡った動乱に終止符が打たれた。島津氏も足利氏に従ったが、了俊との対立は続き、応永元年(1394)、了俊は末子貞兼を日向に派遣して島津氏に対抗した。翌年二月、貞兼は伊東氏、相良氏、北原氏らを動員して梶山城に攻め寄せた。北郷義久は嫡子久秀と四男の忠通を将として援軍を梶山城に送り、島津元久も援軍を率いて梶山に進んだ。戦いは島津方の敗北となり、久秀と忠通は討死し、梶山城は今川勢に攻略された。北郷氏としては痛恨の敗北を喫する結果となったが、それからほどなくして、今川了俊は九州探題職を解任され京都に帰っていった。
 かくして、探題として九州地方に辣腕を振るった了俊の勢力は一掃され、九州は新たな政治局面を迎えることになる。
 北郷氏は久秀・忠通らが戦死したため、義久の五男和久が家督を継承した。和久は島津元久の上洛に従って、将軍義持より中務少輔に任ぜられた。つぎの持久のとき、くじびきによって新将軍義教が誕生した。このとき、くじびきで義教に敗れた義昭が、日向に逃れて持久を頼った。持久は義昭を庇護したものの、幕府の追及も厳しく、ついには義昭らを櫛間院地頭の野辺盛仁のもとに送った。これを察知した幕府は島津忠国に義昭殺害を命じたため、忠国は持久らと協議して討手を送った。ついに万事窮した義昭は、櫛間神社の森において自害した。
 嘉吉元年(1441)、将軍義教が赤松満祐に殺害され(嘉吉の乱)、そのあとを継いだ義勝の早世を受けて新将軍となった義政は、義昭を討った人々を罰した。その結果、持久は都城より三俣院高城に移され、さらに薩摩迫に移されて失意のまま同地で死去した。持久のあとを継いだ敏久は、京都で応仁の乱が起った翌応仁二年(1468)、庄内瀬田ケ辻に安永城を築きこれに拠った。そして、文明八年(1476)に至って、島津忠昌の命によって都城に復帰することができた。持久が都城を出てより、二十三年目のことであった。

戦国時代への序章

 このころになると、世の中は下剋上が横行する戦国乱世となっていた。それは日薩隅も例外ではなく、島津一族、国人領主らがみずからの勢力拡大を企図して、守護島津氏に抗するようになっていた。文明十六年(1484)、櫛間の伊作久逸が伊東氏と結んで島津忠昌に叛き、飫肥の新納忠続を攻撃した。忠昌は新納氏を援けるため出陣、これに北郷敏久らも従って奮戦、島津勢は伊東祐国を討ちとり、久逸の反乱は平定された。戦後、新納忠続は志布志に移され、飫肥には島津忠廉が入って伊東氏に備えた。
 敏久のあとを継いだ数久は志布志の新納忠武とともに梅北城に島津忠明を攻め、梅北は忠武が領するところとなった。このときの北郷・新納氏の攻撃によって多くの神社仏閣が焼け、貴重な文化遺産が灰塵に帰した。乱世とはいえ、残念なことであった。
 さて、飫肥で戦死した祐国の子尹祐は、父の復仇を期して三俣院進出を企図していた。これをみた豊後の大友氏は島津氏と伊東氏の和睦をはかり、明応四年(1495)、忠昌は三俣院千町を割譲して両者の和議がなった。三俣を手中にした尹祐は永正元年(1504)、梶山城を攻撃し、さらに都城に兵を進めたが、北郷敏久は伊東勢を小鷹原に迎え撃ちよく撃退した。
 敏久は都城に拠って勢力を拡大する伊東氏と対峙し、その攻勢をよく防御した。この敏久のあとを継いだのが、名将として名高い北郷忠相である。永正十七年(1520)、忠相は三俣院に兵を進めて志和池、勝岡の両城を攻略した。対する伊東氏は荒武三省に命じて勝岡城を奪還、大永元年(1521)には、志和池城も奪い返した。この年、忠相は島津忠兼から庄内野々美谷城を与えられ、一族の北郷尚久を城主に命じてこれを守らせた。
 大永年代(1521〜27)における日向の状況をみると、都於郡を本拠とする伊東氏が一万六千という兵力を擁し、真幸院を本拠とする北原氏は一万余人の兵力を擁していた。それについで新納氏が八千余の兵力、さらに清水城の本田氏も侮れない勢力を有していた。これら諸勢力に対抗するかたちで北郷忠相が都城・安永の二城を擁して、その勢はおおいに揚がっていた。しかし、諸氏はややもすれば北郷氏の領地を脅かさんとする形勢にあり、北郷氏は飫肥の島津氏と盟約してこれらの敵に対峙していた。

周辺諸勢力との抗争

 大永二年(1522)四月、伊東祐梁が一万の兵をもって都城に押し寄せたが、北郷忠相はよくこれを防衛した。その一方で、山田城を北原氏に攻略されたが、翌大永三年四月、忠相は北原氏の支配下にある山田城を奪還した。ほどなく十一月に至って、伊東尹祐が北原久兼と連合して野々美谷城に攻め寄せた。城将の北郷尚久は防戦につとめ、力戦したが流矢にあたって戦死し、野々美谷城は落ちた。ところが、伊東尹祐がにわかに陣中に没し、さらに弟の祐梁までが急死するという事態となり、伊東勢は空しく兵を帰していった。
 その後、祐充が伊東氏を継ぐと、忠相は伊東氏と事を構える不利を悟り、祐充に野々美谷城を割譲し、女を祐充に与えて姻戚関係を結んだ。また、北原久兼とも和睦して山田城をを北原氏に返還した。こうして、対抗勢力の鉾先を交わす一方で、都城を大幅に増強するなどして、戦乱の時代を生き抜こうとした。そのようなおりの享禄元年(1528)、新納忠勝が伊東祐充と戦い、両者は忠相に支援を求めたが、忠相は祐充に味方して忠勝を敗戦に追い込んでいる。
 伊東氏の威勢はさらにあがり、三俣院には八外城が置かれ、その守兵は一万三千といわれた。伊東氏の隆盛は北郷忠相・島津忠朝らにとって心穏やかではなく、ひそかに三俣院の回復を企てた。そして、天文元年(1532)北原氏と盟約して、十一月、三連合軍は三俣院に兵を出した。島津忠朝の兵六千は高城に向かい、北郷忠相の兵四千は梶山に、北原兼孝の兵八千は野々美谷に向かった。二十七日、連合軍は並進して高城城下に迫った。伊東方の三俣八城の諸城は兵を挙げて高城の救援に駆け付け、両軍は不動寺馬場において大会戦となった。伊東方は防戦につとめ、ついには戦死者七百三十余人を出し、わずかに全滅は逃れたものの、三俣院を失う敗戦をこうむった。
 北郷氏が伊東氏と戦っている間、新納忠勝はひとり勢力を蓄えていたため、北郷忠相は島津忠朝と結んで忠勝攻略を企図した。この島津一族の抗争に際して伊東氏と北原氏は、それぞれ利を得ようと図った。天文四年八月、島津忠朝と北郷忠相が新納氏の領邑を攻めたとき、伊東・北原両氏は新納氏を援け、都城付近に兵を出して北郷氏を脅かした。忠相は兵を帰して北原氏に備え、十一月、兵を出して北原氏を攻撃した。翌天文五年、北原兼孝は安永に侵攻したが、忠相はこれを迎え撃って北原勢を撃退している。
 そうして天文七年、北郷・島津連合軍は新納氏の支城である財部城を攻略し、ついで大崎城、梅北城、安楽城を攻略、ついには忠勝の本拠である志布志城を攻める勢いを示した。ここに至って忠勝は降伏し、子の忠茂ら一族とともに伊東氏を頼って退去していった。戦後、忠朝は忠広を飫肥にとどめてみずからは志布志に移り、忠相も都城を嫡男忠親に譲って高城に移った。

伊東氏との抗争

 このころの島津宗家の当主は勝久で、内政は治まらず、重臣は勝久を諌めたが用いられることは少なかった。勝久は妻の兄薩州家実久を重用していたが、やがて、実久が勝久を討たんとしたため、勝久は北原・肝付・祁答院の三氏に援を求めた。三氏は兵を出して勝久を救援したが、実久に加担する者が多く、祁答院氏は敗れ実久が鹿児島に入った。勝久は祁答院氏を頼り、のち真幸院に走り北原氏を頼った。その後、勝久は北郷氏を頼り、さらに豊後に赴き同地で死去した。そして、島津宗家の家督は実久を破った貴久(勝久の養子)が、父忠良の後援を得て継承した。
 他方、北郷氏は北原氏と戦いを繰り返し、天文十一年(1542)八月、伊東氏と連合した北原氏は北郷忠相の拠る高城を攻めた。忠相は子の忠親と図って連合軍を挟撃し、連合軍を打ち破った。この戦に敗れた北原氏は、白坂下総守・澁谷兵庫など重臣以下七百余人の将士を失った。
 翌天文十二年正月、北郷忠相は安永・都城の兵を率い北原氏の山田城を攻め、これを奪い、北郷忠茂に守らせた。以後、山田城は北郷氏の領有するところとなった。同年五月、忠相・忠親父子は大挙して北原氏の志和池城を攻めた。野々美谷城兵は忠親とともに柳川口に、安永・山田・財部の兵は幸祥寺口に、高城山之口の兵は羽田口に、勝山・勝岡の兵は今拵口に迫った。北郷軍がこの一戦をいかに重大視し、その全兵力を挙げて必勝を期したことが知られる。忠相はまず新城を陥れ、忠親は西囲を破った。ついに北原氏は志和池城も守ることができず、北郷氏に降伏するに至った。
 弘治二年(1556)、島津貴久・義久父子が蒲生攻めの軍を起こしたとき、島津忠平・歳久・忠将・忠辰、新納忠武・佐多忠孝らとならんで北郷讃岐守忠相が一家に列して出陣している。そして、飫肥をめぐる伊東氏との抗争が続く永禄二年(1559)、忠相は高城において死去した。そのあとは嫡孫の時久が継ぎ、同五年に貴久は北郷氏の多年にわたる軍功を賞して末吉・梅北を与えた。ここに至って都城盆地は、まったく北郷氏の支配するところとなったのである。
 一方、日向の最大勢力となった伊東義祐は、大隅高山の肝付兼続と結んで飫肥の島津忠広を攻撃した。忠相は島津貴久とともに飫肥を救援し、忠相の嫡男忠親は都城を嫡男の時久に譲ると忠広の養子となって飫肥の守備についた。以後、伊東氏との間で攻防が続いたが、永禄十一年(1568)、ついに飫肥城は伊東義祐の手に落ち、忠朝は子の朝久とともに都城に帰った。
 飫肥城を攻略した伊東義祐は真幸院を攻めるため、三ツ山に進出した。このころ真幸院には、北原氏に代わって島津義弘が飯野城主として伊東氏の侵攻に備えていた。元亀二年(1571)、島津貴久、北郷忠親らが死去すると、肝付氏が兵をあげた。この機に乗じた義祐は、一族祐安らに三千の兵を与えて三ツ山に進攻し、飯野城に対峙させた。これに対して島津義弘が率いる兵は三百という寡勢であったが、義弘は巧みな作戦をもって伊東氏の大軍を翻弄し、木崎原の戦いにおいて伊東軍を撃破した。このとき、北郷氏の兵は後詰めの役をはたしたようだ。木崎原の戦いに敗れた伊東氏は、以後、急速に勢力を失墜していくことになる。

島津氏の九州統一

 大隅で島津氏に抵抗を続ける肝付氏は、水軍をもって鹿児島を襲撃するなどしたが、総じて劣勢状態に追い込まれつつあった。天正元年(1573)、肝付兼亮は、末吉に侵攻して橋野にまで兵を進めた。これを知った北郷時久は、子の相久・忠虎らとともに末吉の住吉原に出撃して肝付勢と激戦のすえにこれを撃退した。この敗戦によって、さしもの肝付氏も勢力が衰え、天正三年には本領高山を支配するばかりとなった。
 一方、伊東義祐も島津勢の攻撃にさらされ、ついに天正五年の暮れ、一族・近臣とともに佐土原城を出て豊後の大友宗麟を頼った。伊東氏を庇護した宗麟は、翌天正六年、日向を制圧するため出陣した。まず土持氏を滅ぼした大友軍は、高城において島津氏と戦ったが敗戦、島津勢は逃れる大友勢を追撃し耳川において壊滅的打撃を与えた。この敗戦によって、さしもの大友氏の勢力も一気に凋落していくことになる。
 かくして、島津氏の北上作戦が開始され、天正九年には肥後の相良氏を屈服させ、ついで天正十二年には肥前の龍造寺隆信を討ちとった。そして、天正十四年には大友氏の本拠豊後に攻め込む勢いをみせた。島津氏の攻勢に窮した大友宗麟は、上坂して豊臣秀吉に救援を請うた。秀吉はただちに九州出兵の陣ぶれをすると、天正十五年四月、みずから大軍を率いて九州に入ると、羽柴秀長を大将とする大軍を日向方面に進攻させた。
 島津方は高城地頭山田越前守有信を主将として籠城、よく秀長の軍を防いだ。一方、義久は義弘・家久らとともに二万余の兵を率いて、根白坂に戦ったが、島津忠隣をはじめ士卒三百余人を失う敗戦を蒙った。この合戦に、北郷時久・忠虎父子も一方の将として加わっていた。
 根白坂の合戦に敗れた義久は、上方軍の手強さを痛感した。そして、木食上人・安国寺恵瓊等の勧めにより、伊集院忠棟を質として秀長と講和した。しかし、時久は都城に拠って最後まで秀吉軍に抗戦した。秀吉は時久の武勇を賞でて諸候に列しようとしたが、時久はこれを辞退した。ついで、秀吉は時久の子忠虎に書を送って降伏を勧めたため、ついに忠虎は秀吉に降伏した。

北郷氏、近世へ

 天下統一を果たした豊臣秀吉は、文禄元年(1591)、朝鮮の役を起こした。この陣に島津氏も参加し、これに北郷忠虎も都城の兵を率いて出陣した。そして、朝鮮において奮戦したものの、病をえて異郷の地で死去した。
 一方、文禄三年(1594)には大閣検地が行われ、日向・大隅・薩摩も翌年にかけて行われた。そして、石田三成の主導によって、島津家中諸家の領地替が行われ、北郷氏は先祖以来住み慣れた都城から祁答院三万七千石に移され、時久は同年のうちに孫をともなって祁答院に移住した。北郷氏が去ったあとの都城には、伊集院氏が八万石をもって入部した。
 忠虎のあとは忠能が継いだが幼少だったため、叔父の三久が後見した。近世の北郷氏は、忠能の系、三久の系とに分かれ、いすれも島津氏の家臣として続いた。江戸時代初期、北郷久加、忠昭らが島津光久の家老をつとめたことが知られている。・2005年03月12日→07月07日

参考資料:小林市史/都城市史 ほか】

●島津氏の家紋─考察

■参考略系図


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