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小山氏
二つ頭右巴
(藤原氏秀郷流)


 下野の小山氏の場合”こやま”と読まず”おやま”と読む。下野押領使藤原秀郷の後裔で藤原姓を称している。その出自は、異説の多い他の戦国大名とは異なり、藤原秀郷の子孫として明確な系譜がたどれる数少ない武家である。
 系図によれば、秀郷九世の孫太田行政の子政光が下野大掾となり、下野国都賀郡小山庄に居住して小山四郎を称したのが始まりとある。小山庄というのは、都賀郡から寒川郡・結城郡にまでわたり上六十六郷・下三十六郷といわれる一万余町歩の広大な面積を持ち、そこを基盤にして成長した小山氏は東国きっての名族といえる。さらには、小山氏を秀郷流藤原氏の嫡流ではなかったかと推定する説もあるほどだ。

小山氏の台頭

 治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に際して、政光は大番役で京都で在京していたが、後妻の寒河尼は、いち早く実子七郎(朝光)を頼朝の許に遣わし源氏軍に従わせた。寒河尼は頼朝の乳母であった関係から七郎を挙兵に参加させたものである。まもなく、政光の嫡子朝政・二男宗政らも参陣してそれぞれ活躍した。さらに寿永二年(1183)には、常陸の志田義広の乱を鎮圧する大功をあげ、つづく平氏追討戦、文治五年(1189)の奥州征伐にも小山三兄弟は大活躍を示した。
 政光のあとは嫡男朝政が継ぎ、弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏の祖となり、さらに、長沼氏から皆川氏が分かれて出るなどし、小山氏はそれら一族の惣領として大勢力を誇った。とくに政光から分立した庶子家長沼氏・結城氏は、小山氏と合わせて小山三家の名で呼ばれた。
 鎌倉幕府成立後、朝政は下野守護をつとめ、大江広元らと並ぶ幕府宿老として幕府内に重きをなした。かれの事蹟は『吾妻鏡』の随所に見い出すことができる。小山氏は代々下野国権大介職および押領使を世襲し、朝政は下野国日向野郷の地頭職に補任され、下野守護は鎌倉時代を通じ一貫して小山氏だった。つまり、下野国司と守護を兼ね、さらに朝政は常陸・播磨にも地頭職を、正治元年(1199)には播磨守護職をも獲得している。朝政が幕府内に重きをなしたのは当然であった。
 小山長村の代になると、幕府執権である北条氏の専制化が進み、対立する有力御家人は次々と滅ぼされ、諸国には北条得宗領が拡大していった。こうした中で、長村は一時下野権大介職をとりあげられたこともあったが、おおむね北条氏とは良好な関係を維持した。
 ところで、承元三年(1209)、小山朝政は北条義時から下野守護補任の下文の提出を求められた。このとき、「藤原秀郷以来十三代数百年間、既に守護のような仕事はずっと行っています。ただ、頼朝公のときの建久年間に、亡父の政光が私にこの職を譲る際に、幕府から安堵の下文を賜っただけです。従って、新たに恩賞としていただいたものではありません」と答えたことが『吾妻鏡』に記されている。平安期以来よりの大豪族である小山氏の独立性の高さを示してあまりある挿話といえよう。

南北朝期の動向

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は笠置で討幕の兵を挙げた。これに応じて、河内国赤坂城で兵を挙げたのが楠木正成であった。幕府はこれらを討つため大軍を西上させたが、この中に小山貞朝の子秀朝が加わっていた。しかし、元弘三年(1333)、新田義貞の挙兵を機に天皇方となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加した。建武新政が成立すると、秀朝は下野国守護兼国司に任ぜられたようで、小山氏は平安期以来の権限を新政府からも認められたものと考えられる。
 建武二年(1335)、「中先代の乱」が起きると秀朝は足利直義に命じられて武蔵に出陣した。しかし、北条時行軍と戦って敗れ、秀朝は府中において一族・家人数百人とともに自害してしまった。このとき秀朝の嫡子の朝郷は十歳前後の幼児であり、実権はなく、小山氏は一族による集団指導体制とでもいうべき体制が成立したようだ。この年、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、南北朝の内乱が始まった。
 翌年になると、下野国内でも激しい戦闘が繰り返されるようになり、小山朝郷は尊氏方に属し北朝方守護・軍事指揮官として活躍した。翌建武四年、小山城は奥州の北畠顕家が率いる大軍の攻撃を受け、城は陥落して朝郷は捕らえられた。その後、南朝方の同族結城宗広の嘆願によって許され、二年後には下野守護として行動している。とはいえ、この時期の小山氏は常陸国に下向してきた北畠親房や奥州の顕家らの南朝勢力に取り囲まれて、身動きのとれない状況にあったようだ。
 親房は結城親朝らを通じて、さかんに朝郷を南朝方へ誘った。また、小山氏はこのころ惣領家内部で確執があったようで、幕府の派遣した高師冬との関係を悪化させていた。結局、朝郷は貞和二年(1346)にいたるまで不分明な態度を取り続けている。朝郷のあとは弟の氏政が家督を継ぐが、足利尊氏と直義との間の不和がこうじて観応二年(1351)「観応の擾乱」が勃発した。
 足利尊氏は東国の直義党を討つため京都を発し、十二月、尊氏軍と直義軍とが駿河薩タ峠で激突した。このとき、小山氏政は宇都宮朝綱らとともに尊氏軍に加わったが、下野国内の武士の多くは宇都宮朝綱に従っていた。これは、この時期の下野における小山・宇都宮両氏の威勢と幕府との関係が反映したものといえよう。この合戦以後も小山氏政は尊氏に属して活躍し、それらの忠勤によって所領を与えられ、宇都宮氏が台頭したとはいえ、小山氏の威勢が衰えたわけではなかった。

滅亡、そして再興

 氏政の死後、義政が家督を継ぎ、下野守護の地位にあった。応安元年(1368)、鎌倉府による新田義宗攻めに参加している。 
 康暦二年(1380)、義政は以前より対立していた宇都宮基綱と争い、鎌倉公方足利氏満から再三の制止を受けたが、それに従わず河内郡裳原の戦いで基綱を敗死させた。これは私闘とみなされ、鎌倉公方足利氏満から追討を受けた。これが、「小山義政の乱」である。この乱は、独立性の高い伝統的豪族である小山氏が、氏政以降、所領を拡大して勢力を強めたことが、東国における支配基盤を確立せんとしていた鎌倉府と衝突したものと考えられる。義政は鎌倉府軍に対して何度か抵抗を試みたが、ついに永徳二年(1382)櫃沢城で敗れた義政は落ちのびた糟尾山中で自殺して果てた。その子の若犬丸は奥州に逃れ、田村庄司の支援を得て鎌倉公方足利氏満と白河で戦ったが敗れて会津で自害したと伝えられている。平安期以来の小山氏嫡流はここで一旦断絶した。
 この段階で小山氏が滅んでいったのは、同族的結合があまり強固でなかったことを示している。つまり、義政攻伐に当たって、攻伐軍の上杉氏が白旗一揆・平一揆などの国人連合を有効に駆使しえたのに対して、小山氏はみずからを中心とする同族の国人領主クラスの連合を思うように進めることができなかったという点である。
 その後、足利氏満は関東の名族小山氏の滅亡を惜しみ、同族結城基光の次男泰朝を迎えて小山氏を継がせた。小山氏の名跡は立ったとはいえ、もはや鎌倉時代のような威勢は失われてしまった。以後、小山氏は結城氏の庇護の下、勢力の回復に努め、泰朝の子満泰は応永二十三年の「上杉禅秀の乱」に結城基光とともに公方持氏方として活躍し、同二十九年から三十年の小栗満重討伐にも参加した。このころ、東国武士を鎌倉府の定める秩序・格式に位置付ける体制が成立しつつあり、やがて「関東八屋形」が定められその一家に小山氏も列した。
 満泰の子持政の代になると、小山氏は結城氏から離れて独自の路線を歩き始め、幕府と鎌倉府とが対立した「永享の乱」では持氏寄りの結城氏に対して幕府方についた。乱で持氏が敗死したあと、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して結城城で幕府に対する兵を挙げた。このとき一族の多くは結城方として戦ったが、小山氏の惣領持政は幕府軍につき活躍した。この合戦は「結城合戦」と呼ばれ、結果は幕府軍の勝利に終わり結城氏は没落した。戦後、持政は下野守に任ぜられるなど結城氏から完全に自立を果たした。嘉吉元年(1441)には、義政以来の下野守護に返り咲き小山氏は再興後の絶頂期を迎えたのである。


・結城城跡(祇園城・鷲城・中久喜城)


東国の争乱

 鎌倉公方が滅亡したのちの東国は上杉氏の勢力が強大化し、これに不満を抱く勢力は幕府に鎌倉府再興を願い、足利持氏の遺子成氏が赦され鎌倉公方として下向した。ところが、新公方成氏と上杉氏との対立が表面化し、享徳三年(1454)、成氏は側近に命じて関東管領上杉憲忠を誅殺した。この事件は、上杉方の猛烈な反発を引き起こした。以後、関東は公方派と管領派に分裂し「享徳の大乱」とよばれる動乱状態となり、関東は確実に戦国時代へと推移していった。
 この乱において持政は一貫して成氏方として活動し、享徳四年には上杉方の宇都宮等綱と戦っている。公方成氏にとって、持政は背後にひかえる頼もしい存在として欠かせない存在であった。やがて、この関東争乱に幕府が積極的に介入してきたことで、鎌倉を失った成氏は古河に拠点を移して「古河公方」と呼ばれるようになる。古河の地は簗田・野田・佐々木氏ら公方奉公衆が近隣に存在していたことに加えて、小山持政や結城成朝らが背後に控えていたことが成氏に古河移座を決意させた大きな理由であった。
 こうして古河公方となった成氏は、小山・結城氏らの支援を得て上杉軍と対峙したのである。一方幕府は長禄元年(1457)、成氏に代わるべき鎌倉公方として、将軍義政の弟政知を関東へ下した。しかし、政知は成氏方の攻勢によって鎌倉へは入れず、伊豆掘越に居を構えて「堀越公方」と呼ばれるようになる。ここに乱は、成氏と幕府=上杉方の対立へと発展し、反幕府の態度を誇示する成氏は京都での改元に従わず、一貫して「享徳」の年号を使用しつづけのである。
 この享徳の大乱のさなかに持政は、嫡子氏郷と嫡孫虎犬丸をそれぞれ病気で失っている。そのため、老境に入った持政が小山氏の当主として成氏を助けて、各地で上杉方の軍勢と合戦を続けた。長享四年(1460)、そのような持政のところに将軍義政から幕府軍に帰順せよ、という命が伝えられてきた。ここに持政は大きな政治的決断を迫られることになったが、成氏支援の立場を貫いて将軍義政の命には応じなかった。これに対して義政は、寛正五年(1464)、文正元年(1466)と再三にわたって帰順の命を発し、文明三年(1471)には四度目の帰順命令が持政に伝えられた。
 持政は一貫して成氏方の立場を通してきたが、将軍義政からの度重なる帰順催促と、次第に強化されてくる上杉方の攻勢に、一族、重臣の間に離反・動揺する者あらわれ、ついに、持政は幕府の命令に応じることになった。持政の転向は嫡子氏郷と嫡孫虎犬丸の死去により、年老いた自らの行く末に不安を抱いたことがその最大の理由であったと思われる。持政の幕府帰順は、成氏方の諸将に動揺をよび、各地で幕府=上杉方の攻勢となった。その後、ほどなくして持政の動向は知れなくなる。おそらく、文明三年の末か翌年ごろにこの世を去ったものと思われる。継嗣のなかった持政は一族の山川氏から梅犬丸(のちの成長)を迎えて小山氏の家督を譲っていた。

止むことのない関東の戦乱

 文明十年(1478)、成氏と上杉氏が和睦し、同十四年には成氏と幕府の和議も成立し、約三十年におよんだ享徳の大乱にも終止符がうたれた。享徳の大乱の終結で関東にも平穏が訪れたが、それも一時的なものに過ぎなかった。長享元年(1487)、上杉氏に内部分裂が起こったのである。すなわち、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で抗争が開始され、関東はふたたび動乱の渦中に巻き込まれることになった。
 この乱に古河公方政氏は扇谷方を支援したが、定正が死去すると山内方を支援するにいたった。ところが、永正三年(1506)、今度は古河公方政氏と嫡男の高基との間で激しい対立が始まった。父子の対立の原因は、古河公方家の勢威回復をめぐる考えの相違にあった。政氏は山内上杉氏との提携をもってそれを実現しようとし、高基は急速に勢力を拡大してきた小田原北条氏の力に活路を求めたのである。いいかえれば、政氏は守旧派であり、高基は改革派であったともいえようか。
 このころの小山氏は、一時、持政が成氏から離反したとはいえ、成長が家督を継ぐとともにふたたび古河公方家と親密な関係を取り戻していた。そして、公方家の内紛が開始されると、政氏は成氏を支援し政氏方の中心勢力として活躍することになる。永正九年、古河城を退去した政氏を小山祇園城に迎えている。
 永正十一年、成長は政氏の命を奉じて佐竹義舜・岩城由隆らとともに、宇都宮氏の宇都宮城や古河城を攻撃したが、宇都宮氏に援軍として結城政朝が出陣してきたため、小山・佐竹・岩城軍は撃退されてしまった。こうして政氏方は次第に劣勢に追い込まれ、高基は古河城に復帰し、政氏に代わって実質的な古河公方としての地位を掌握しつつあった。ついに永正十三年、小山氏も政氏方から高基方に転じることを余儀なくされたのである。この間、成長と子の政長との間に意見の対立があったようで、小山氏の高基方への転向は、政長の主導によってなされたものと思われる。そして、政長が父成長に代わって小山氏の実権を掌握するようになる。一方、小山氏の離反によって政氏は祇園城からの退去を余儀なくされ、武蔵岩槻に移り、その後、古河城に帰ったがただちに入道して、武蔵久喜の甘棠院に入って余生を送った。
 政長は三十歳前半くらいで死去したようでめぼしい事蹟を残していないが、古河公方家の内紛に際して高基方への帰順を決したことは、政氏とともに小山氏が没落することを防止したものといえよう。しかし、政長の時代に一族や家臣の対立が続き、小山氏の勢力は衰えをみせるようになっていった。しかも、小山氏を取り巻く周辺には、宇都宮氏や結城氏が虎視眈々と小山氏の隙をうかがっていたのである。

小山氏の内紛

 政長の死後、小山氏の家督は結城政朝の二男高朝が入って継いだというのが定説である。「小山系図」「結城系図」など、すべて高朝があとを継いだと記している。ところが、政長の子の世代に高朝とは明確に区別される小山小四郎なる人物が存在したことが発見された。小四郎は小山氏の嫡子が名乗る仮名であり、この人物は政長の家督を継承する立場にあったとみて間違いないだろう。
 政長には二人の娘がいたが、男子にはめぐまれていなかったようだ。ところが、享禄二年から天文三年(1529〜34)頃の足利高基とその子晴氏の書状から、小山小四郎という人物が政長の家督を継承していたことが確認されるのである。おそらく小四郎は政長の娘の婿養子として小山氏に入り、家督を継いだものであろう。持政のあとの小山氏は成長─政長と山川氏系が続き、男子のない政長も山川氏から婿を迎え、その人物こそ小四郎であったと想像される。
 ちょうどそのころ、古河公方家では高基と晴氏の父子が対立を始めており、小山氏内部でも高基支援派と晴氏支援派とに分裂していたのではないだろうか。そして、小四郎は高基支援の立場をとり、晴氏支援派と抗争することになった。それを裏付けるように、高基を晴氏方の軍勢が攻撃したとき、高基は小山小四郎に協力を依頼する書状を送っているのである。古河公方父子の抗争は、やがて和睦が成立し、高基が隠居して晴氏が古河公方となった。
 このとき、小山氏でも高基派の小四郎が隠居を余儀なくされ、結城氏から高朝を家督として迎えたのであろう。高基の背後には父結城政朝が控えていたことは明らかで、成長以来続いてきた山川氏系小山氏は排除され、代わって結城氏系小山氏が成立したのである。かくして高朝は結城氏の勢力を背景として家督を継いだだけに、その前途は厳しいものがあった。

結城氏との連合

 高朝の課題は、乱れていた小山氏一族および家臣団を統制することであった。そして、水谷氏等反抗的家臣に対しては武力で抑え、岩上・太田氏等の協力的家臣には所領安堵や加増、一字付与等を行って結束を固めさせた。こうして高朝は再整備した家臣団の軍事力を用いたり、平和的外交によって周辺の勢力によって奪われていた旧小山氏領を回復していくのである。
 天文十六年(1547)、結城政朝は死の床のなかで、政勝・小山高朝の兄弟に向って「もし私が死ねば、小田氏や宇都宮氏が小山・結城へ攻めてくるだろう。その時には兄弟二人力を合わせて小田・宇都宮の軍勢を討ち、その首を墓前に供えよ」と遺言した。政朝が死去すると、その死から五十日もたたないうちに宇都宮氏が小山へ攻めてきた。政勝は高朝を助けるためにただちに出陣し、武勇にすぐれた高朝は政勝の援軍をえて宇都宮軍と戦い、多数の首を討ち取った。そして、それらの首を政朝の遺言にしたがって墓前に供えた。という話が『結城家之記』に記されている。
 政勝と高朝兄弟が堅い絆で結ばれて、小山・結城氏の連合体制を形成して、周辺の宇都宮・小田・佐竹氏らと対峙しながら、その勢力の維持・拡大につとめていたことをうかがわせる挿話といえよう。このような小山・結城氏の関係によって、高朝の三男晴朝が政勝の養嗣子となって結城氏に入った。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、甥の晴朝を迎えて家督を譲ることにしたのである。これによって、小山・結城氏の関係はさらに強化され、その連合関係は永禄三年(1560)の上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣まで維持され続けるのである。
 このころ小山領の北方は、義政の乱後、宇都宮氏によって侵食されており、高朝は結城氏と連携して宇都宮興綱・俊綱父子と戦った。一方、宇都宮氏はその北方で那須氏と対立していた関係で、常陸の佐竹氏と結んだ。そのため那須氏は、小山・結城氏に接近していった。佐竹氏はまた小田氏とも結んでいたことから、ここに小山・結城・那須氏と、小田・佐竹・宇都宮氏という二つの勢力が抗争するという関係が成立した。さらに、小山領の西には壬生・皆川氏等の領主層が、また南方には古河公方の勢力が存在していた。高朝はこうした地域にも進出せんとした。

時代の変革

 このようにして、北関東は群雄が割拠する状態となっていた。一方で、北条早雲が小田原を本拠として以来、後北条氏が着々と勢力を拡大していた。そして、天文十四年(1545)十月、古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉氏らは連合して後北条氏の台頭を阻止せんとして、北条氏康軍と武蔵国内の河越において衝突した。「河越合戦」として名高いこの戦いに勝利を収めた氏康は、武蔵北部から下野・下総・常陸へとその勢力を伸ばし、公方晴氏はその強い影響下におかれることになった。
 晴氏には簗田氏を母とする藤氏・家国・藤政と、北条氏綱の娘を母とする義氏という四人の男子があった。晴氏はこのうち藤氏を後継者と考えていたようで、藤氏もまた天文十年前後から父晴氏とともに活動をしていた。それだけに、小山高朝はもとより結城政勝ら関東の領主層の多くは、次の古河公方は藤氏と考えていた。ところが天文二十一年(1552)、北条氏康は晴氏に圧力を加えて甥の義氏に家督を譲らせたのである。この古河公方交代劇は高朝・政勝兄弟だけでなく、関東中に大きな衝撃と動揺を与えた。さらに、氏康は義氏を公方に据えたことで、みずからを関東管領として立ち居振る舞うようになったのである。
 これまで、高朝や結城政勝、それに宇都宮・那須・佐竹・小田氏らは、後北条氏を関東へ侵入してきた他所者として扱い、そのように見てきた。しかし、公方を擁立し管領となった氏康をいつまでも他所者扱いしつづけることは困難となった。この時代の変化を敏感に感じとった結城政勝は、北条氏康と足利義氏に接近していく。しかし、小山高朝は引き続き晴氏を支持したため、必然として小山氏に対する後北条氏からの圧迫が強まることになった。
 こうして関東の戦国時代は大きな転換期をむかえ、それへの対応をめぐって小山・結城両氏の連合に緩みがみえるようになり、小山氏の内部でも高朝と秀綱父子との間に微妙な意見のずれが生じようとしていた。高朝と秀綱父子は、足利晴氏・藤氏父子と緊密な関係を結び、晴氏・藤氏父子から期待を寄せられ、高朝と秀綱父子もその期待に応えてきた。しかし、義氏が古河公方に着任したことで、それらの関係は大きく変化していった。すなわち、高朝は晴氏父子支持の立場を取り続け、秀綱は義氏支持の立場を次第に明確にしていったのである。秀綱が義氏支持へと傾いていった背景には伯父結城政勝の強い働きかけがあったようだ。政勝にしても弟や甥たちの行く末を案じていたとみて間違いないだろう。
 高朝・秀綱父子は対立したとはいえ、骨肉の争いにまで発展することはなく、小山氏の分裂・抗争、さらには破局へと突き進むことはなかった。それは、義氏にしても地位を追われたとはいえ晴氏・藤氏にしても「筋目」を通すべき存在と考え、両方を立てるため高朝・秀綱父子が分かれてそれぞれを支援する道を選び小山氏の安泰を図ったものと思われる。

謙信の越山と関東の戦乱

 その後、永禄三年(1560)の長尾景虎(のちの上杉謙信)の関東出兵以降、関東の様相はさらに大きく変化する。
 関東管領上杉憲政を奉じて関東に出陣してきた景虎は、上野国の沼田・厩橋・那波城などの後北条方の諸城をたちまち制圧すると、翌四年には、参集してきた関東の諸将を率いて長駆小田原城に向って進撃した。そして、憲政から上杉の名字と重宝、関東管領職を譲られ、長尾景虎改め上杉政虎(その後輝虎、謙信と改名)と名乗った。このとき、謙信に味方した関東諸将の幕紋を記録した『関東幕注文』という史料が残されている。それには、後北条氏の支配する相模を除く関東七カ国の武将の名前とその幕紋が書き連ねられている。そのなかで、小山氏は「小山衆」として把握され、
小山秀綱
小山殿(秀綱) 二かしらのともへ 同大膳    同もん
同右馬亮   同紋
水野谷左衞門大夫 同もん
岩上大炊助  すハまニともへ
粟宮     丸之内ニ二ひきりやう
細井伊勢守  にほいかたくろ 一文字にかたはミ
妹尾平三郎  一文字ニかたはミ
山河弥三郎  三反之左ともへ
粟官羽嗜守  丸之内の二引りやう

らの名前と幕紋が記されている。謙信の関東出陣に際して、小山氏は一族・家臣をあげて帰属したことがうかがえる。
 また、永禄三年から四年にかけての時期に、小山氏の家督は高朝から秀綱に譲られたようだ。この家督交代は、謙信の関東出陣という重大な政治的出来事への小山氏の政治的対応であったと考えられる。すなわち、反後北条的立場の高朝が秀綱に謙信への協力を強く主張した。秀綱も政治状況の変化を感知し、父高朝の主張に同意して、父子一体となって謙信に味方するようになったのであろう。それを裏付けるように、永禄三年当時、秀綱は氏秀を名乗っていたが、家督を継ぐとともに秀綱に改名している。
 さらに、義氏=後北条方の立場にあった秀綱を謙信方に転向させたのは、謙信が関東管領に就任すると同時に足利藤氏を古河公方に推戴し、みずからを関東八カ国の正当な支配者であると主張した。秀綱は藤氏・謙信体制へ帰属することによって、義氏の支配下にあった古河公方御料所を奪取しえたのである。とはいえ、義氏・氏康体制も併存しており、秀綱の実弟で結城氏を継いだ晴朝は、養父政勝の路線を継承して義氏・氏康派にあった。こうして、勢力を拡大した秀綱は、後北条氏方の壬生領への侵攻を企てたが、間もなく、小山氏はさらに困難な状況に直面することになる。
 永禄三から四年にかけて関東を席巻した謙信は越後に帰り、同年九月、信州川中島で甲斐の武田信玄と大激戦を展開 した。信玄の行動は、甲斐・相模・駿河の三国同盟にもとづく氏康掩護作戦であり、この間に氏康は急速に態勢を 立て直したのである。以後、関東は上杉謙信・北条氏康という二人の関東管領がたがいに覇を競い合う場と 化したのである。 
………
・小山秀綱像(東京大学史料編纂所:肖像複製画DBより)


戦乱に翻弄される

 謙信が帰国したのちも秀綱は上杉方の立場にあったが、武田信玄と結んだ後北条氏の動きが活発化してくると、上杉方から離反する諸将も出てきた。永禄五年、藤氏の拠る古河城も危機にさらされたため、謙信は関東に出陣してきた。藤氏は秀綱にも出陣を命じ、秀綱はその命に従って出陣したものと思われる。翌年になると、氏康の攻勢は一段と激しいものとなり、太田資正の武蔵松山城が落ち、小山方面も危機にさらされるようになり、高朝と秀綱父子は義氏に赦しを乞い上杉方から離反した。
 これに激怒した謙信は、武蔵騎西城を落すと、佐竹義昭・宇都宮広綱らを従えて小山祇園城へ攻撃をかけてきた。祇園城はわずか二・三日の攻防で陥落し、秀綱は「人質相渡」してふたたび謙信に帰属した。しかし、永禄七年になると、後北条氏の圧力に屈した秀綱はまたもや謙信を離反し、氏康・氏政父子に属する結城晴朝・那須資胤・小田氏治らと親交を結んだ。ところが、その後三たび秀綱は謙信方へ走り、永禄八年、謙信から上野厩橋への出陣を求められ、翌九年正月の小田氏攻略に際して、秀綱は百騎、高朝は三十騎の出陣を要求されている。そして、後北条氏に敵対する構えを見せていたが、同年五月、またしても後北条方に下っている。
 こののちも、秀綱は、上杉謙信と北条氏康から圧迫され、去従は定まらなかった。この行為は、遠祖藤原秀郷以来の小山氏の歴史と家名を守るため、また独立した領主として存続するために秀綱が必死の努力を続けた結果であり、恥ずべき行為ではなかった。
 このように、小山氏が対外的危機にさらされていた永禄十二年、関東の政局はふたたび大きく動いた。その契機となったのは、上杉謙信と北条氏康との間に結ばれた「越相同盟」の成立であった。越相同盟の成立によって足利藤氏の死去が判明し、足利義氏がただ一人の古河公方として正式に承認されたのである。しかし、そのことは返って、古河公方の存在が後北条氏に擁立された、たんなる足利氏の名跡継承者に過ぎないことを関東の諸将に自覚させる結果となった。ここにおいて、関東諸将は中世的呪縛から解放され、独自な行動をとるようになったのである。

戦国時代の終焉

 かつて、上杉方・後北条方に分かれていた諸将たちは、結束して後北条氏の進出に対応しなければならなくなった。
 一方、越相同盟によって古河公方を自己権力のなかに包含した後北条氏は、これまでのような義氏を前面に立てた政策ではなく、武力による征服政策を推進するようになる。このような後北条氏の政策転換を実感した秀綱や結城晴朝・那須資晴らの義氏・氏康派ですら、これまで敵対していた佐竹義重・宇都宮広綱らとの結束を固め、後北条氏の北進策に徹底抗戦していくことになったのである。しかし、後北条氏は着実に勢力を拡大し、下総の古河・栗橋・関宿の諸城は後北条氏の支配するところとなり、北関東侵攻の最前線基地化した。そして、後北条氏は小山氏領に進攻し、結局、天正三年(1575)後北条氏の猛攻によって小山氏の居城祇園城は落城し、秀綱は常陸の佐竹義重のもとへ逃れた。
 小山氏領を掌握した後北条氏は、氏政の弟氏照をして常陸方面への進攻の拠点とするべく小山領の支配を強めていった。しかし、天正十年、甲斐の武田氏を滅ぼし中央で覇権を掌握した織田信長の臣滝川一益が上野国厩端城に入ると、祇園城は信長が後北条氏と交渉して秀綱に返還された。ただし、これは北条氏政が秀綱の小山支配を認めたというものではなく、反抗的な態度をとっていた旧小山家臣団の統制のために派遣された、という方が真実に近いであろう。その後、織田信長が本能寺の変で横死すると、厩橋城将滝川氏は後北条氏と戦って敗れ上方に逃げ帰っていった。かくして、小山氏はふたたび後北条氏の勢力下に入ることになった。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めに際して、後北条方として行動したため後北条氏の滅亡とともに所領を没収されてしまった。小山氏領は結城氏の領内に組み入れられ、戦国大名小山氏の歴史には終止符が打たれた。

小山氏のその後

 その後、秀綱とその子の秀広は結城晴朝のとりなしで晴朝の養子となって結城氏を継いだ秀康からわずかな知行地を与えられて、旧小山氏の所領内のいずこかに住んだものと考えられている。慶長七、八年(1602、3)頃に秀綱は死去し、ここに中世小山氏は完全な終焉を迎えた。子の秀広は既に死んでおり、孫の秀恒が家督となり、下総山川の水野忠善の客となった。さらに、寛文年間にいたって子の秀堅が水戸家客分として迎えられ、以後、水戸小山氏として続いた。
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・城の写真は無名城の写真館さんから転載させていただきました。深謝!

参考資料:小山町史/日本の名族/戦国大名系譜人名事典 ほか】


■参考略系図
 


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