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高田氏
●木瓜
●清和源氏政流
*木瓜紋は、美作守定祐が大友貞宗から賜ったものという。
 


 高田氏は伝えられる系図によれば、清和源氏ということになっている。『豊後国志』や『豊後国東半島史』などには、来縄郷高田村に高田氏が居城を築いた、と記されている。そして、高田氏の祖は源頼朝に仕えた高田掃部助重定で、建久七年(1196)、大友能直が豊後守護となって下向したとき、重定は富来氏の祖の永井石見守実貞らとともに能直に従って豊後に下り、高田村を与えられたのだという。
 しかし、高田城を築き、来縄郷の地頭だったという高田氏の名は『豊後国図田帳』にはまったくみえない。あるいは、図田帳の書き落としとも考えられるが不自然ではある。また、大友能直の豊後下向のことにも疑問が出されており、重定が能直について豊後に下ったという説も疑わしいものとなっている。
 ちなみに、『豊後国図田帳』が注進された弘安八年(1285)当時、来縄郷三百町のうち二百二十七町を「郷司来妙惟房、知恩寺院主栄範、神官、名主など」が分領していたとあり、他の二十九町は大友能泰が、五町は小田原頼景がそれぞれ地頭となっていて、高田氏の入り込む余地はなかった。あるいは高田氏は小田原氏の配下か、一族の者が高田に住して高田を称したとも考えられる。一方、『宇佐系図』をみると宇佐氏の庶流に「高田刑部」なる人物がみえ、高田氏は宇佐氏の一族だったのかも知れない。

大友氏麾下の武将として活躍

 高田定祐・為雄・定義の三代が、鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱の時代にあたった。定祐は大友貞宗に仕え、元弘三年(1333)の筑前博多合戦において戦死した。定祐の戦死により家督を継いだ為雄は、大友貞宗に従って鎮西探題北条英時攻めに加わり、軍功により足利尊氏から感状を得ている。建武三年(1336)には大友氏泰に従って上洛し、新田義貞との戦いに活躍した。正平十三年(1358)には、大友氏時に従って、征西将軍宮懐良親王の軍と玖珠郡八町辻で戦い、さらに高崎城に攻め寄せた菊池武光の軍と戦った。ついで、肥後の御船城を攻め隈庄および甲佐に転戦している。
 為雄のあとを継いだ定義も、為雄とともに大友氏に従って各地を転戦した。応安四年(1371)鎮西凶徒退治に活躍、同年八月、菊池武光の高崎城攻撃を防戦、さらに朽網攻めにも出陣するなどして活躍した。そして、至徳三年(1386)五十八歳で死去した。
 室町時代の当主隆定は、寛正六年(1465)大友親繁に従って豊前国城井右衛門佐、長野壱岐守攻めに参陣し、以後、奈多隆実とともに文明三年(1471)まで七カ年におよび豊前に在陣した。明応九年(1495)、大友政親が長門攻めを行うと、これに従って長門に渡り、長府において戦死した。

戦乱のなかで、代々の当主が討死

 隆定のあとを継いだ義治の代になると戦国時代となり、義治は大永三年(1523)大友義鑑に従って筑前・筑後に出陣、天文三年(1534)には「勢場ケ原の戦い」に出陣して戦死した。つぎの鑑将は義鎮に従い、天文二十年肥後国に出陣、ついで、弘治二年(1557)豊前国へ、翌年には山田氏の拠る馬岳城攻めに参加し、先陣をつとめて討死した。高田氏は大友氏に仕えて各地に出陣し、三代の当主が戦場の露となったのである。
 鑑将のあとは鎮孝が継ぎ、弘治二年より長禄四年(1561)まで、田原親堅に属して豊前国に在陣し、その功により義鎮から感状を賜っている。永禄八年、筑後の立花鑑載、原田親種らが大友氏に反旗を翻し、義鎮は田北民部を大将として討伐に当たらせたが、この陣に鎮孝も参加した。やがて、天正六年(1578)大友宗麟は日向侵攻を開始し、鎮孝も参陣した。しかし、大友軍は高城・耳川の戦いで島津軍に敗れ、鎮孝は耳川の戦いで戦死した。この日向における敗戦で、大友氏は次第に勢力を失うことになる。
 鎮孝の戦死で家督を継いだ正孝は、大友義統に仕えて天正八年の田原親貫退治に出陣、鞍掛城攻めに功があった。やがて、島津氏は肥前の龍造寺隆信を討ち取り、大友氏領への攻勢を激化してきた。島津氏の攻勢に窮した大友宗鱗は、ついに天正十四年、上坂して豊臣秀吉に援助を求めた。同年、島津軍は豊後に乱入した。このとき、正孝は木付鎮直、大神鎮勝、田染統基らとともに木付城に籠城、島津軍を悩まし結局国東半島に島津軍を入れなかった。翌十五年、豊臣正規軍の九州進攻により、島津氏は兵を引き上げていった。
 大友義統は豊臣大名として豊後を賜り、天正十八年の小田原攻めに参加し、これに正孝も従った。ついで、文禄二年(1593)朝鮮攻めが始まり大友義統も朝鮮に渡ったが、不手際によって秀吉の勘気を蒙り義統は所領没収となった。正孝も義統に従って朝鮮にあったが、大友氏改易により諸将とともに豊後に帰り、高田邑浜に蟄居し、慶長八年(1603)に死去したという。ここに、高田城主として戦国時代を生き抜いた高田氏は没落となったのである。

参考資料:豊後高田市誌 ほか】


■参考略系図
・高田市誌の記述から作成。定義は定祐の兄弟と思われるなど、それぞれの父子関係については明確でないところもある。


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