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斎藤氏
下り藤
(藤原姓)


 文治五年(1189)七月、源頼朝は奥州藤原氏を討つため、一千騎の将兵を率いて鎌倉を出陣した。そのなかに、中原親能、大友能直、宮六兼(人偏がつく)杖国平らが名を連ねている。中原親能は大友能直の養父であり、能直は奥州合戦が初陣であったため、親能は国平に能直の補佐を依頼したという。
 宮六兼杖国平は、平家方として活躍した斎藤別当実盛の妻の甥にあたる人物で、平家滅亡後は囚人として中原親能に預けられたが、武勇の誉れの高い国平を、親能が推挙し能直に付けられたのである。そして、この宮六兼杖国平が豊後の守護大名、戦国大名として北九州の雄に成長する大友氏の重臣として知られる斎藤氏の祖とされている。大友氏に仕えた斎藤氏は、お下り衆の一として海部郡丹生庄を本拠とした。
 とはいえ、大友氏の重臣としての斎藤氏が史料上に登場するのは、元弘三年(1333)であり、国平が斎藤氏の祖とすることを証明する史料はない。

歴史への登場

 元弘三年に登場した斎藤氏は沙弥(入道)遍正としてあらわれ、実名は伝わっていない。ついで、建武元年(1334)、北条氏の残党規矩高政、糸田貞義が起こした反乱征伐の恩賞として、大友貞載が肥前守護職を得、斎藤正遍が肥前守護代になったことが『歴代鎮西要略』にみえている。しかし、肥前守護職を得たのは元弘三年に鎮西探題攻略に功のあった大友貞宗であり、『深堀文書』によれば、代官職は斎藤遍正が指名されている。
 遍正、正遍についで名を見せるのは遍雄で、遍雄がもっとも肥前守護代として活躍した。建武二年、足利尊氏は豊後・肥前両守護の大友氏泰に対して、新田義貞追討のため一族の参戦を命じた。氏泰の名代貞載は肥前守護代にその旨を施行し、遍雄が深堀氏らに遵行状を発している。その後、尊氏が九州に落去し、ふたたび上洛の途につくが、その準備として必要な馬・鞍・弓・歩武者などの調達を遍雄は命じられた。
 このように、斎藤氏は南北朝初期に肥前守護代として活躍するが、それぞれ父子・兄弟と思われるもののその関係は明確にはできない。やがて、康永元年(1342)の史料を最後に、肥前守護職は大友氏の手から離れ、斎藤氏も肥前守護代ではなくなった。以後、斎藤氏の活動は、戦国時代に至るまでほとんど知られなくなるのである。

戦国争乱期の斎藤氏

 斎藤氏がふたたび姿を見せるようになるのは、明応十年(1501)以後のことである。すなわち、明応十年、大永四年(1524)に斎藤実治、永正六年(1506)の斎藤隆実、天文五年(1536)から同十九年まで斎藤長実、そして、天正年間に斎藤道楽(王遍がつく)が大友氏の加判衆として名を見せる。長実は大友氏の加判衆を勤め、天文三年には丹生氏らを率いて豊前・筑後に発向し、大内勢と戦った。
 長実は義鑑に仕え、津久見美作守・田口蔵人・小佐井大和守・入田丹後守と並ぶ重臣の地位にあった。ところが天文十九年(1550)、大友氏において政変が起こった。いわゆる大
 友氏の当主義鑑が家臣に殺害されるという、「二階崩れの変」とよばれる内訌であった。義鑑には嫡子義鎮があったが、義鑑は義鎮の性格が粗暴であり政治には不向きとして、末子の塩市丸への家督後継策を考えるようになっていた。このような義鑑の考えに対して、長実らの重臣五人は反対意見をもっていた。天文十九年二月、義鑑は斎藤播磨守・小佐井大和守を呼んで、塩市丸擁立のことを話したが二人は反対意見を述べて退出した。二人の意見に立腹した義鑑は、刺客を送って二人を殺害した。これを知った津久見美作守・田口蔵人は、自分らにも義鑑の討手がくることを予知し、逆に館を襲い義鑑をはじめ塩市丸、その母らを殺害したのである。
 事件を知った義鎮はただちに反対派を粛正し、大友氏の家督を継いだ。事件の背景には、さまざまな思惑があったようだが、大友義鎮の登場で一応の終息を見せたのである。斎藤長実の跡は嫡男の鎮実が、義鎮から一字を拝領して家督を安堵された。
 鎮実は勇将として知られ、永禄十年(1567)、筑紫広門征伐のため筑後の諸将士を率いて肥前へ出陣、翌十一年には高橋鑑種攻略、元亀元年(1570)には、龍造寺隆信を討伐するため、肥前・筑前を転戦している。そして、天正六年、大友宗麟の日向進攻に際して丹生庄衆を率いて参陣した。大友勢は島津家久の軍と戦ってこれを破り、さらに兵を高城に進めた。緒戦に勝利を得た大友軍には奢りがみえ、高城攻めは思うように行かなかった。そこへ、島津軍の主力軍があらわれ、大友軍は敗れ、さらに追撃を受け耳川の合戦において壊滅的敗北を喫した。鎮実もこの戦いにおいて奮戦したものの、結局、戦死を遂げてしまった。
 かくして、斎藤氏は没落の運命となった。そして、斎藤氏の史料も断片的なものしか残っていず、その歴史を明かにすることは困難な状態である。ともあれ、斎藤氏が大友氏の重臣として活躍したことだけは、まぎれもない歴史的事実である。

参考資料:大分の歴史/大友宗麟のすべて ほか】


■参考略系図
丹生庄の斎藤氏が見える初見は、永享八年(1436)のこと。
本庄新右衛門尉の跡十五貫分が斎藤著利に与えられた。
斎藤著利の一跡が子の綱実、矢野長門守跡内の十五貫分が綱実の子の光鬼繁実に与えられた。
永正十六年(1519)頃とみられる斎藤兵部少輔(長実)の知行
天文十九年(1550)の長実没後の鎮実の相続
天正十七年(1589)の斎藤猪介統実の知行

・斎藤氏の系図は不詳、ご存じの方はご連絡ください。  


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