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大井氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)


 大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
 大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。
 行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。

南北朝内乱期の大井氏

 伴野氏が没落すると、小笠原惣領職は京都小笠原氏の長氏に移った。元弘の乱に際して、長氏の子宗長、その子貞宗らは、はじめ幕府軍に加わっていたが、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏の書状によって天皇方に加わった。建武二年(1334)信濃の諏訪氏を中心とする神氏一党が北条高時の遺児時行を擁し、鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」が起きると、小笠原貞宗は後醍醐天皇から信濃守護に任ぜられ、信濃国内の北条与党の討伐を命じられた。
 北条時行から鎌倉を奪回した足利尊氏は、天皇からの帰京命令に応じずそのまま鎌倉にとどまり、信濃守護の小笠原貞宗に勲功の賞として住吉荘など三ケ所を与えた。このような尊氏の態度に対し、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定し、新田義貞を大将に命じて東海・東山両道から大軍を発した。小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞らは尊氏方となって、信濃武士を率いて東山道軍を佐久郡大井荘大井城に迎え撃った。当時の大井荘の地頭は行光の子朝行で、同じ小笠原一族という関係からも信濃守護小笠原貞宗に従い、貞宗からもっとも信頼されていた。のちに、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が貞宗の子政長の守護代を勤めており、両者が固い結合をもっていたことがうかがわれる。
 さて、官軍に包囲された大井城は、一万余騎の敵を迎え撃ちよく戦った。足利直義の檄文を受けた小笠原貞宗・村上信貞らも兵をあわせて大井城を救援した。両軍、激しい戦いを展開したが大井城は落城した。大井城を落とした東山道軍は関東平野に出て、新田義貞の東海道軍と呼応して鎌倉へ攻め込もうとした。しかし、義貞軍は箱根竹ノ下の戦いに大敗して総崩れとなり京都に退却してしまった。尊氏軍は義貞軍を追って京都に攻め上り京都を占領した。これに対して後醍醐方の陸奥鎮守府の北畠顕家が攻め上って尊氏軍と戦い、尊氏を京都から追い落とした。敗れた尊氏は九州に落ち、九州南朝方の雄菊池軍と多々良浜に戦い、辛うじてこれを破って戦備を整え直した。そして、九州・四国・中国をその勢力下におさめ、ふたたび京都に兵を進めたのである。
 上洛する尊氏軍は、五月、迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍を兵庫に戦って、摂津湊川に正成を討ち取り義貞を敗走させた。この敗戦により、後醍醐天皇は京都を捨て、比叡山に逃れたが尊氏に降伏、ついには吉野に落ちていった。一方、尊氏は光巌天皇をたてて北朝を樹立し幕府をひらいた。以後、日本全土に南北朝の内乱が続くことになる。この間、大井城合戦に敗れた大井朝行は大井城の復旧をしながら、小笠原貞宗に属して、信濃国内の北条残党の討滅戦に参加していたようだ。
 その後、信濃には後醍醐天皇の皇子宗良親王が入部し、滋野一族らの支援によって宮方勢力の地盤を築いていた。一方、大井氏が割拠する佐久地方は、大井氏が武家方としてその勢力を保っていた。正平二十四年(1369)十月、信濃守護上杉朝房は鎌倉公方足利氏満の命を受けて、信濃に進発、宗良親王の籠る大河原城を攻めた。戦いそのものは目立った戦はなかったが、この行動によって、信濃では南朝方の組織的な反抗はやみ、文中三年(1374)親王も吉野に帰っていった。

信濃守護代大井氏

 その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定されるが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
 光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。
 合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。
 光矩のあとをうけたのが持光で、持光は芦田城の芦田下野守と争った。芦田氏は足利幕府の奉行人となり、評定衆に登用された者もあった。そして、南北朝争乱に際して依田川東岸に勢力を拡大して芦田方面に進出、芦田城を築いて芦田氏を名乗った。その結果、川西地方に勢力を拡大していた大井氏と衝突することになったのである。
 永享七年(1435)かねてより将軍職就任の野心をもっていた関東公方足利持氏と将軍義教との関係が険悪になってきた。幕府は上野国に通じる佐久郡の戦略的位置の高さを認めており、同地に割拠する大井氏と芦田氏の抗争の調停を守護小笠原政康に命じた。このとき「和睦がならなかったら芦田を滅ぼし、大井氏と一致して関東にあたれば心配はない」と戦略をさずけたという。しかし、両者の和睦は成立せず、関東の情勢は急となり、義教は小笠原政康に芦田征伐は延期して持氏への謀叛に備えるように命じた。
 持氏の謀叛は不発に終わったため、永享八年二月、幕府は政康に芦田征伐を命じた。しかし、埴科郡の村上頼清や東信の滋野三家や諏訪郡の諏訪氏らは守護に対する南北朝時代からの敵対意識もあり、また領土保全のために鎌倉府の足利持氏と結んでこれに対抗しようとした。すなわち、芦田氏を支持する立場を示したのである。政康は軍を発して千曲川を越え、小県郡祢津を攻め、別府・芝生田・南城を攻め落とした。ここに祢津・海野氏らは降伏し孤立した芦田氏も守護軍に降った。以後、依田氏は戦国時代に至るまで、大井氏の家臣となり執事職をつとめた。かくして大井氏は依田長窪に進出して長窪城を築いて依田支配の拠点とし、大井氏の勢力は佐久郡内に大きく伸張した。

鎌倉公方家の滅亡

 佐久の平賀郷は、鎌倉時代より平賀氏が支配し一族の所領が郡内に散在していた。文安三年(1446)の『諏訪大社上社文書』に「此年丙寅佐久平賀乱あり」とある。佐久平賀乱とは、文安三年、平賀氏と大井氏が戦い敗れた平賀氏が滅亡したことをいい、平賀郷は大井氏が支配するところとなった。さらに大井氏は、小諸氏領も支配下におさめるなど、佐久地方における大井氏の所領は飛躍的に拡大した。
 大井氏の全盛時代は大井持光のときであり、持光時代の所領は六万貫といわれ、伴野氏・望月氏等の超地を除く佐久郡のほとんどと小県郡の依田窪上城を支配し、上州・武州にも所領を有し京都参勤には一千騎を率いたといわれている。
 永享十年(1438)永享の乱が起こり、幕府群の攻撃を受けた鎌倉公方足利持氏は降伏したが許されず、翌年、自害して果て鎌倉府は滅亡した。このとき、足利持氏の遺児三人は鎌倉を脱出し、春王と安王は宇都宮に、永寿王は乳母に抱かれて岩村田の持光を頼ってきた。永享十二年、下総結城城主の結城氏朝が春王と安王を擁して幕府に対して兵を挙げた。これに岩村田の持光も応じ、かくまっていた永寿王を結城城に送りとどけた。
 幕府は上杉清方を総大将とする結城城攻略軍を発したため、持光は結城氏朝に応じるため碓氷峠を越えようとしたが、上杉勢によってさまたげられ果たせなかった。翌嘉吉元年(1441)結城城は陥落し、春王と安王は捕らえられ京都に送られる途中の美濃国で殺害された。永寿王丸は「足利系図」に「成氏、結城没落の時六歳、永寿王と号す。越前守持光信濃国にかくす」と記されているように、大井持光は永寿王を扶育しのちに永寿王は成氏を名乗って鎌倉公方家を再興したが、その実現には持氏の力が大きく寄与していたといえよう。
 持光のあとは刑部少輔政光が継承し、鎌倉公方成氏を支援して関東に出陣したり諏訪信満とともに甲斐へ侵攻するなど、大井氏の武威をあらわした。こうした政光の行動に関して、『四鄰譚薮』に「応仁元年(1467)村上氏が一万を率いて大井を攻め、大井城主大井原に敗れ、甲州に走る」。ついで、文明三年(1471)「大井城主甲州より入部云々」などと記している。しかし、これは甲州側の史料によって記述されたもので、誤りであることは明らかなものである。
 すなわち、大井氏は、文明元年四月、九月と二度にわたって甲州に乱入し、文明四年五月には信州大井殿が甲州花鳥山に侵入して武田勢と戦い、九月には信州勢が塩山向嶽庵を焼いたことが、『妙法寺記』などに記されている。これに対して甲州勢は、文明九年四月、信州に攻め入ったが、「アイキ中シウに討たれ」「同五月中シウ黒石にて討死」などとある。これらの記録から、大井氏らの信州勢が甲州武田氏と再々戦って、勝利をおさめたことは疑いない。

大井氏の盛衰

 享徳三年(1454)、鎌倉公方成氏は幕府寄りの管領上杉憲忠と対立してこれを討ち取ってしまった。「享徳の乱」の勃発であり、幕府は関東に乱を起こす者として成氏追討を命じた。以後、関東は公方方と管領上杉方の二派に分かれて大乱となった。
 政光は成氏を支援し関東に出陣したが、幕府に命じられた今川上総介が鎌倉を攻め落とし、成氏は下総古河に逃れた。以語、成氏は後古河公方と称され、上杉−幕府軍との対立姿勢を強めたため、関東の戦乱は止むことなく続いた。大井政光にとって成氏が古河への敗走したことは強力な後楯を失うことになり、関東の所領を維持することが困難となった。さらに、文明年間(1469〜86)に甲州へ兵を出したことで大井氏の勢力にも翳りが見えるようになった。
 文明十年(1478)持光のあとを継いだ政朝は、岩村田城主となって初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭を請けている。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めた。ところが、その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をするという大敗北を喫した。
 生け捕りとなった大井政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。この合戦において、伴野氏方には大井氏からたびたび侵略を受けていた甲斐の武田氏が、大井氏への報復として加担していたようだ。政朝は失意のうちに文明十五年(1483)若くして死去した。跡は弟の安房丸が継いで大井城主となった。
 この代替わりを狙って、坂城の村上政清が大挙して大井城を襲撃した。大井氏はすでにこれを撃退する力はなかった。そして、大井城は落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ二百六十余年、城は落ち、再びたたなかったと記録に残されている。ここに、大井宗家は滅びたが、岩尾・耳取・芦田・相木など、各地に居住する一門・家臣の所領はそのまま存続して、大井城主には、甲斐武田流の永窪大井氏の大井玄慶(系図によって安房丸の子政信ともある)が入って継ぐこととなった。

戦国時代の大井氏

 戦国時代の大井氏のなかでは、玄信(号で諱が伝わらない)が知られている。平賀城に居城していたことから、大井玄信というよりは平賀玄信の名で知られる。「信濃国平賀の城に住し、平賀玄信と号す。勇力人にすぐれ、常に長剣をこのむ。玄信戦場におもむくごとにさきがけとなり、退くときはかならず殿たり。部下の将士に栗一顆をあたへ、帰陣ののち戦功なきものの栗を奪いとる。この故に人々たたかひを励まずということなし。」と、古記にある。
 天文十五(1536)年十二月、甲斐の武田信虎は、平賀玄信(源心とも)の守る海ノ口城に来攻してきた。玄信は城を固く守って、甲斐勢を寄せつけなかった。攻防は一ヶ月になろうとし、信虎はひとまず甲府へひきあげることにした。このとき、信虎の嫡子で初陣の晴信(のちの信玄)は、殿軍を務めたいと信虎に申し出てその許しを得た。
 一方、武田軍が兵を引く様子を見た玄信は、兵を帰し、わずかに残った配下と酒を酌み合して武田氏との攻防戦の疲れを癒さんとしていた。まさに油断をしていた海ノ口城へ、晴信が二百名の兵を率いて襲撃してきたのである。玄信は七十人力といわれる剛の者であったが、不意をつかれたうえに守備兵も少なくついに討死した。後年、信玄その玄信の武勇を感じ、大門峠に石地蔵を建立し其霊を祀る」と「寛政重修諸家譜」にある。
 その後、玄信の孫政継は信濃国耳取城を攻め取り、そのあたりを知行していたため耳取大井氏とよばれていたらしい。その後を継いだのが政成で、武田信玄・勝頼に仕えたが、武田氏滅亡のとき、家康に降り、葦田(依田)信蕃の手に属して大井の惣領職および本領信濃国佐久郡耳取の地三千貫文を安堵されている。関ヶ原の合戦には東軍に属し、信濃の道案内として秀忠軍に属したが病気となり、代わりに子の政吉がその任を務めた。政吉は徳川忠長に属し、本領として信濃国佐久郡の内を与えられている。
 また、系図上で玄信の兄弟としてみえる岩村田城主貞隆が信玄に仕え、弟の貞清は勝頼に属して長篠の戦で戦死したことが知られている。

●武田氏の家紋─考察

■参考略系図


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