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三田井氏
●左三つ巴
●大神氏族高千穂氏嫡流
 


 三田井氏の起りについて『高千穂古今治乱記』には、「抑も三田井の家系を尋ぬるに、地神鵜カヤ草葺不合尊の御子、太郎の尊の御後胤なり、(中略)六代目に男子なく御子孫是迄絶えざりしが、此の時に至って尊き御血脈絶えぬること惜しい哉。爰に豊後の国大神大太惟基の一男を貰いうけ、育て上げられ嫡男となし家系相続あって太郎政次とこそ申しける」と記されている。しかし、『高千穂古今治乱記』は江戸時代後期に書かれたもので、その内容を鵜のみにすることはできない。
 さて、三田井氏の祖という大神氏は『平家物語』によれば、大神氏の祖大太(惟基)は高知尾明神の神子となっている。一方、『大神氏系図』や『大友興廃記』などには、祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた神子となっている。しかし、これらの説は大神氏の始祖惟基の所生を神秘化したものにほかならない。豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった大神氏の一族で、「延喜式」にも「凡そ八幡神の宮司は大神・宇佐二氏」とみえている。
 大神大太惟基には五人の男子(九人とするものもある)があり、長男が高千穂太郎政次、次男が阿南次郎惟季、三男が植田七郎、四男が大野八郎政基、五男が臼杵九郎惟盛で、それぞれ豊後を中心にして豊前・肥前・日向に子孫が繁衍していった。治乱記には太郎政次が高千穂に迎えられたことになっているが、嫡男の身の政次が何故高千穂に入ったかは不明である。一説に高千穂は大神氏の侵略を受け、その支配下におかれたとするものもある。どういうかたちであれ、高千穂に入った太郎政次は高千穂一円を支配したものとみられる。そして、太郎が高千穂に入部したのは、平安時代中期の天慶年間から天暦年間(938〜956)のことと考えられている。

高千穂地頭、高千穂氏

 いずれにしろ三田井氏は大神惟基の長子高千穂惟政の後裔と伝えられ、名字の地三田井は臼杵郡五個瀬川の上流高千穂郷の一邑で、その中心であった。高千穂郷は、西は肥後国阿蘇郷、北は豊後の直入・大野両郡に接して、豊後との国境に聳える祖母山は緒方氏発祥の伝説地でもある。また三田井に高千穂神社、岩戸に天岩戸神社が鎮座し、「天孫降臨」など神話上の伝説地ともなっている。鎌倉時代以後は高千尾庄とも呼ばれ、室町時代になると庄内が分かれて岩門郷・三田井郷・田原郷などになった。
 鎌倉時代の初期に至って、同時代の史料上に高千穂氏の名があらわれてくる。源頼朝は平氏を滅ぼしたのち、弟の源義経と不和になり、平氏の残党や義経を追討するため、全国に守護・地頭を置くことを許された。このとき、日向の守護職は佐々木高綱が任じられ、高千穂の地頭職は高千穂の伝統的豪族である高千穂氏が任じられた。建長六年(1254)に高千穂地頭と熊野山別当とが争ったときの文書が残されているが、その文書中に「地頭高知尾三郎政重」とみえている。
 十三世紀のはじめ源家将軍が断絶し、執権北条氏の専制が始まったころ、高千穂の地頭高千穂政綱が、高千穂神社の神領を熊野神社の灯明料として熊野宮に寄進した。政綱の子政信は熊野別当に灯明料を納めていたが、孫の政重は世情の変化もあって灯明料を減らしてしまった。そのため、熊野社の雑掌が政重を幕府に訴えたのであった。
 熊野社と高千穂政重の争論は長引き、熊野社は浦上氏を高千穂荘の領家職とした。浦上氏は高千穂神社の神主田部氏に荘園の管理を依頼したため、高千穂政重は神主田部氏と不仲となり、高千穂神社の祭礼を威力で差し止めるという事態もあった。その後、浦上氏の子孫が高千穂に下向するなどして複雑化をみせ、争論は南北朝時代に至るまで続いたことが知られる。
 政重のあとは政武が継ぎ、時代は鎌倉幕府の滅亡を経て南北朝の争乱期となっていた。武政は建武五年(1338)の十社大明神(高千穂神社)神主言上書に「三田井武政」と見え、興国二年(1341)の後村上天皇の綸旨には「三田井入道明覚」とある。武政の父政重は高知尾(高千穂)を名乗り、武政は三田井を名乗っていることが注目される。
………
神韻たる風景-高千穂峡


三田井氏の登場

 建長六年(1254)の鎌倉下知状の写しが高千穂神社に残されているが、そこには、「高知尾三郎政重、政重の祖父政綱、父政信」とあり、高知尾(高千穂)を名乗っていた。高千穂氏が三田井氏を称するようになったのは鎌倉時代後期のことであったと推定される。
 高千穂は十八ヶ村にまたがる広大な地域であり、高千穂氏はその支配者として高千穂を名字としていた。しかし、惣領制による相続によって河内・田原・岩戸・芝原・向山・桑野内などの諸氏が分出し、惣領高千穂氏の支配地域は三田井に限定されるようになった。三田井は高千穂の主邑であり、高千穂氏は一族の惣領としての誇りもあり、三田井を新たな名字として名乗るようになったようだ。
 三田井氏は中山城を居城としたが、中山城は三田井村ではなく向山村にあった。しかし、向山を名乗ることはなく、三田井を名乗ったのは、高千穂氏の代々が三田井に居住していたことと、三田井が一族の惣領にふさわしい名字であったことを示しているといえよう。
 南北朝時代における三田井氏の動向は詳らかではないが、一族の柴原(興梠)又三郎性虎が南朝方として活動し、征西宮懐良親王から三田井武政の領地跡の令旨を戴いている。高千穂の領地に関しては三田井氏も懐良親王から正式の令旨を戴いているが、柴原氏の活動が知られるばかりである。おそらく、三田井氏の当主が病弱か幼少であったため、一族の実力者である柴原性虎が三田井氏一族を率いて活躍したものとみられる。ちなみに、豊後国の嫗嶽村にある大神一族の祖神を祀る嫗岳神社に伝来する天授三年(1377)銘の鰐口には、「三田井小太郎十三歳病気平癒につき奉納」とあり、南北朝期の三田井氏の当主が病弱で幼少であったことが知られる。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり室町幕府体制が確立されると、三田井氏を取り巻く情勢も平穏を迎えた。やがて、中央では明徳の乱、応永の乱、嘉吉の乱などが起り、その影響は九州にもおよんだ。しかし、山峡にある高千穂地方は比較的平穏に過ぎたようで、記録のうえでも見るべきものはない。その間、三田井氏は阿蘇氏と結んで高千穂の支配を安泰たらしめていたようだ。

高千穂領主、三田井氏

 応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、世の中は次第に戦国乱世の様相を深めた。乱世のなかで、高千穂の北方豊後の守護大名大友氏が勢力を拡大してきた。この情勢の変化に対して、三田井氏家中では、豊後の大友氏と結ぼうとする勢力と、従来のごとく阿蘇氏を恃もうとする勢力に分裂して内紛が生じた。
 阿蘇氏は三田井氏の内紛に介入し、親大友派の馬原石部新左衛門らは三田井惟利を奉じて高千穂から逐電した。残った親阿蘇派は、文明十三年(1481)阿蘇家に起請文を入れたが、そこには「三田井惟秀・惟治様の外は上と頼り申すまじく候事(以下略)」とあり、河内飛騨守政歳、三田井七郎二郎惟房をはじめ、向山・安徳・柴原・佐藤氏らの一族・家臣が連署している。
 かくして、戦国時代になると三田井惣領家は向山の中山城を本拠として、周辺諸豪からの攻勢に備えた。このころの三田井氏の重臣に甲斐氏があり、柳瀬・馬原・飯干・押方・佐保などの諸氏が三田井氏の麾下にあったことが知られている。
 ところで、甲斐氏は菊池氏の一族であったが、南北朝時代の甲斐重村は北朝方に属して菊池氏と争い、菊池軍に大敗を喫した。日向に逃れた重村は土持氏を頼り、さらに高千穂に入って三田井氏に客分として仕えるようになった。三田井氏は甲斐氏を家代・七ツ山・鞍岡・向山・岩井川などを開拓させ、甲斐氏の一族は高千穂に繁衍していった。そして、戦国時代になると七ツ山重方、家代誠昌、甲斐宗摂、甲斐親宣らの甲斐一族が、三田井氏の譜代の臣に肩を並べていた。
 甲斐親宣は阿蘇氏の内訌に際して、兄阿蘇惟長によって大宮司職を追われた阿蘇惟豊を援け、その復帰に尽力して惟豊の大宮司職復帰を実現した。その功により、親宣は阿蘇氏に臣従して重臣となり、その子の甲斐宗運は阿蘇氏を支えた名将として知られる。
 さて、三田井氏は高千穂の領主として社寺の建立、修復にも力を尽した。文明十四年、三田井親貞が荒立神社に供物を奉納、明応三年(1494)には三田井惟治が十社大明神に畑を寄進している。ついで、明応五年に三田井右武が十社大明神に田を寄進し、さらに押方二上神社、柴原神社を再興している。三田井親武は永正元年(1504)に後河内神社を、享禄三年(1530)に桑の内二上神社、天文八年(1539)には押方嶽宮を再建している。乱世に身を置きながら三田井氏が、高千穂の領主として領内の文化復興に意を用いたことが知られるのである。

戦乱のなかの三田井氏

 戦国期、三田井惟政(親好)は日向の最大勢力である伊東義祐によしみを通じ、高千穂地方の保持につとめた。惟政の弟とみられる越前守親武は、長年反目を続けていた松尾城主の土持親成と伊東義祐の間を執り成し、義祐の娘を親成の一男に嫁がせて、両家の和議成立に尽力している。
 やがて、薩摩・大隅を平定した島津氏が日向をうかがうようになり、伊東氏と島津氏が対立するようになった。元亀三年(1572)、伊東軍は加久藤城を目指して三之山を進発した。その軍勢は伊東加賀守以下三千といわれ、飯野城を守る島津義弘軍は三百であったという。伊東軍は飯野城を北に見て白鳥山麓を通り加久藤城下に押し寄せ、加久藤城を一挙に攻め落とした。緒戦の勝利と島津軍を小勢とあなどった伊東軍は、油断したところを島津義弘の巧みな作戦と用兵によって不意を討たれ壊滅的敗北を喫した。世に「木崎原の合戦」と呼ばれる戦いで、伊東方は伊東加賀守一門の大将三人をはじめ、奉行や各外城の地頭ら二百五十人を失った。
 この敗戦により、伊東氏は一気に衰退の色を濃くし、以後島津氏の攻勢にさらされた。天正五年(1577)、島津義弘は自ら大軍を率いて日向に進攻し、急を知った義祐は手勢を率いて野尻に向かったが、配下の諸将で島津氏に寝返る者が続出し、一戦も交えることなく佐土原に引返した。義祐は劣勢を立て直そうとしたものの、すでに伊東方の諸城主は伊東氏を見限っており、ついに義祐は豊後の大友氏を頼んで日向から落ちていった。
 かくして、日向を配下におさめた島津氏は、高千穂の三田井惟政に代えて、甲斐長門・甲斐右京らを配して大友氏に備えた。一方、島津氏に味方した土持親成が日向北方に武威を振るうようになり、土持氏は高千穂をも奪わんとする勢いを示すようになった。窮した三田井親武は、大友義鎮にこの情勢を注進した。
 すでに義鎮は義祐の要請をいれて日向出陣を決しており、天正六年(1578)四月、軍勢を発して土持氏の居城松尾城を落とし親成を捕らえて切腹させた。さらに大友氏は日向南部に大軍を進め、高城で島津氏と戦った。ところが、大友軍は高城の戦いに敗戦を喫し、兵を引いたところを追撃され、耳川における戦いで壊滅敵大敗を蒙った。この敗戦で九州最大の勢力を誇った大友氏も、一気に衰退していくことになる。
 耳川の合戦後も、高千穂地方は大友氏に属していた。一方、大友氏を破った島津氏は、肥後の相良義陽を降し、さらに天正十二年には肥前の龍造寺隆信を倒して、筑後・肥前・肥後の大部分をおさえる大勢力となった。大友氏は島津氏の攻勢によってさらに勢力を後退させ、ついに天正十三年、三田井氏は人質を佐土原城代の島津家久に送って島津氏に降った。この年十二月、高千穂の武将たちは、島津氏の信用を得るため、国境にある大友氏の派遣軍を襲撃してこれを破っている。

島津氏の麾下に属す

 翌天正十四年、島津氏は大友氏の本拠である豊後進攻の軍を起こし、義久は日向口から、義弘は肥後口から、それぞれ軍を進発した。島津氏は新納忠元を大将として高森城を攻撃、三田井氏は家老甲斐長門入道宗摂が大将となって、新納忠元の指揮下に入り城攻めに活躍した。一方、日向口は三田井政利が総大将として高千穂勢を率い、島津軍の先陣をつとめて豊後に攻め入った。
 島津氏の進攻に万事窮した大友宗麟は大坂に上ると、豊臣秀吉に領地を差し出して救援を請うた。かねて九州征伐を企図していた秀吉は、ただちに九州出兵の陣ぶれをし、黒田孝高らを大将とする先遣隊を九州に先発させた。
 北九州方面に入った黒田孝高は筑後の立花統虎とくみ、龍造寺氏、秋月氏らを降した。このため、豊前・豊後・筑前・筑後の武士のなかには、島津に反する武士が出始めた。この状況に気をよくした大友氏は、仙石秀久や長曾我部・十河氏ら四国勢と相談して豊前から筑後方面を平定して、秀吉の西征軍との連絡路を開こうとして府内城を出発した。
 これに対して、豊後国内に侵入した島津軍は諸城をまたたく間に落とし、大友氏の本城に迫った。報告を聞いた大友吉統は筑前行きを中止して、軍監の仙石秀久や長曾我部氏らと城を固めた。そして、十二月、島津氏と豊臣勢は戸次川で対峙した。島津軍を前にした四国勢の十河存保・長宗我部元親らは、城を守って豊臣秀吉の本軍の到着を待つことを勧めた。しかし、功にはやる仙石秀久はかれらの意見を無視して、島津軍への攻撃を開始すべく行動を起した。
 戦いは激戦となったが、島津家久をはじめ新納隊、伊集院隊の奮戦によって、秀久は遁走、四国勢は十河存保・長宗我部信親らが戦死する壊滅的な敗戦を蒙った。この戸次川合戦において四国勢に奇襲攻撃をかけて、島津軍勝利の端緒を開いたのが三田井政利であった。政利は三田井氏の完全な系図が残っていないため、正確には判らないが、三田井政親と同一人物であろうと思われている。かくして、島津氏は大友氏の本城を占領した。
 しかし、翌天正十五年、豊臣秀吉が率いる大軍が九州に上陸すると、島津軍は各地の戦いで敗戦を重ね、ついに薩摩に兵を引き上げ、秀吉に降服した。

三田井氏の滅亡

 九州を平定した豊臣秀吉は、博多で仕置を行い九州諸公の封地を定めた。日向では、県・三城・宮崎が高橋元種に与えられ、その他を伊東、島津、秋月氏らが与えられた。ところがこの時、高橋氏に与えられた宛行状に高千穂が明記されていなかった。発令者の重大なミスであり、このため、高千穂は落地になり、宙にうく存在となった。これが高橋氏と三田井氏との間で、所領問題を生じる因となった。
 三田井氏は島津氏の麾下に属して秀吉の九州征伐に抗したとはいえ、最期まで秀吉に抵抗した島津氏でさえ、旧領を安堵されている。それだけに三田井氏にすれば、所領没収の命令もないまま、高千穂が高橋氏に与えられたことは納得がいかなかった。高橋氏にしても三田井氏が滅亡したり追放されたりして高千穂をもらったわけではなく、宛行状にも高千穂の文字はなく無理にその所有権を主張するわけにもいかなかった。
 『高千穂古今治乱記』によれば、上坂することになった高橋元種は三田井氏に使いを出して「大坂への参勤の際に、良いように執り成しましょう」といい、三田井氏も「何卒よしなに」ということになった。ところが、元種は参勤して秀吉に三田井氏を執り成すどころか「三田井は逆心を企てている」と言上したので、秀吉は怒って三田井の処置は元種に任せると討手を申し付けた。
 こうして、三田井氏討伐の名分を得た高橋元種は、三田井氏を攻めることに決した。しかし、新領地でもあり、高橋氏に臣従している者も主従の関係が浅いため、一気に攻めることは憚られた。そこで、元種は三田井氏家中に調略の手を伸ばし、三田井氏の筆頭重臣である甲斐宗摂を味方に引き入れた。
 天正十九年九月、高橋勢は宗摂の案内で三田井本城に攻め寄せた。宗摂は重臣であっただけに、城の内部のことは隅々まで手にとるように知っている。かくして、三田井親武は弟親貞らとともに戦死、この合戦で三田井一族の主だった者はほとんど討死し、古代より高千穂の地に歴史を刻んできた三田井氏は滅亡した。生き残った三田井一族、旧臣らは高橋氏の支配下におかれ、三田井氏の遺児たちも命を助けられ高橋氏の支配に服した。
 戦死した親武のあとは鎮信が継いだが、すでに昔年の勢いはなかった。しかも、鎮信は暗君で、弟鎮氏が謀叛を企てているとの讒言を信じて水牢に閉じ込めたうえ殺害した。さらに、兄弟のなかで傑物とされて将来を嘱望された鎮武まで、殺害してしまった。その後、鎮信は酒色に耽り、慶長三年(1558)に病死した。ここに、三田井氏嫡流の血脈も断絶した。三田井氏滅亡の片棒をかついだ甲斐宗摂は、のちに高橋氏によって滅ぼされている。

三田井氏のその後

 こうして三田井氏嫡流は断絶となったが、遺臣のなかには高橋氏に屈しない者も多かった。とくに、岩戸水之内城主富高大膳と三田井氏家老の甲斐朝昌は強硬派であった。高橋氏は三田井氏の残党を駆逐する策を立て、三千の兵を高千穂に派遣した。
 高橋軍は甲斐朝昌を攻め、たちまちのうちに朝昌・重安父子を討ち取った。ついで、富高大膳の拠る水之内城を包囲、攻撃した。大膳は城兵を指揮して防戦につとめたが、高橋軍の猛攻撃に城は落ち、大膳は自刃して果てた。
 この間、七折村にいた三田井親武の従兄弟政親の子惟成、惟恒、惟栄は高橋に降参して助命され、兄弟に仕えていた家臣たちは散り散りになり、深山に隠れたり帰農した。惟栄はのちに西杢之丞と改めて、延岡藩主有馬直純に仕えたと伝えられる。また、大賀氏と名を改めて後世に続いた子孫もいるという。・2004年11月25日→2005年07月07日

参考資料:高千穂町史/高千穂太平記/家系研究の基礎知識ほか】


三田井氏の家紋

 三田井氏の家紋は「三つ巴」であったと伝えられている。江戸時代後期に写されたという『珍書雑記』に
 向山の住人 大神大太郎惟基
 御本紋は 丸の内に三本杉
 御旗の御本紋は  蛇の目
 御陣の御本紋は  三つ巴 ただしひだり
 合印の御紋    三桝
 三田井公四天紋 (蛇の目左巴 三重の松 とうぼうかしわ 花おもだか)

とあって、この中の左巴は三田井家の重臣も使っている。当時の武士の定式に従って本紋、旗紋、幕紋とあり、三田井氏はこの記録の通りに紋を使い分けていたと思われる。


■参考略系図
・三田井氏の系図は、いまに伝わっていないといわれている。下記系図は、大神氏系図と高千穂町史の文章を参考に作成。親武の子の長幼がさまざまであり、政親を親武の従兄弟とするものもある。  
  


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