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太田垣氏
木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔)
*『見聞諸家紋』より。九枚笹とする説もある。


 太田垣氏は、但馬国造の日下部氏の後裔を称する古来からの名族である。『日下部系図』によると、建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋・石和田・太田垣を同族としている。『但馬国大田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流らしい。
 山名氏の但馬制圧に協力したことから、宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する朝来郡竹田城を本拠とするに至った。
 延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見する。


太田垣氏の台頭

 明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高かった。
 このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。
 明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰であった。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物である。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦った。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのであった。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようだ。ちなみに、通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していた。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられている。
 嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられた。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようだ。それは美作守宗応であった。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのだろう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっている。
 美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようだ。若年には山名時熙にかわいがられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用された。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させた。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐した。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいる。
 宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝える。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多い。


戦国争乱と太田垣氏

 太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、竹田城が太田垣氏代々の居城となった。
 応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊に従って太田垣氏も戦場に出かけていった。応仁二年三月 、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、宗朝の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていたが、その守備は手薄であった。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、西軍の丹波守護細川氏にとって、侵攻するのに好都合な状態であった。そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのである。
 かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部へ攻め入った。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めた。細川方の内藤軍は東河を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていた。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えた。
 その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇した。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかった。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、山名軍はさらに襲いかかった。
 敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦したが、一所で討死をしてしまった。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走した。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せた。山名方の大勝利であった。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれる。
 合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えた。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのであった。  
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天空に聳える竹田城





嘉吉元年(1441)、但馬守護山名宗全が重臣の太田垣光景に命じて、円山川を眼下に見下ろす353mの急峻な山頂に築城した。虎がうずくまったような形状から、虎臥城とも呼ばれる。東の丹波、南の播磨を押さえる要衝の地で、城址からの展望は一大パノラマの感がある。山名氏が没落したのち、戦国末期から慶長期にかけて数度の改修がなされた。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦後にときの城主赤松広英が改易、切腹したことによって廃城となった。城下の寺町は清冽な水が流れ、太田垣光景や赤松広英の墓が栄枯盛衰を伝えている。

 以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名の四天王と呼ばれる存在となり、但馬に勢力を培っていった。
 戦乱が続くなかで室町体制は次第に衰退していき、将軍・守護らは徐々に力を失い、逆に家臣団・国人らが実力をもつ下剋上の時代となった。但馬国も例外ではなく、守護山名氏は実力がともなわない象徴的存在となっていった。戦国末期に至って、ついに太田垣輝延、八木・田公・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆と謀って守護山名致豊に離叛し、誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握った。以後、垣屋光成・八木豊信・田結庄是義等四頭が割拠し但馬を四分割した。
 天正三年(1575)、信長の意向をうけた羽柴秀吉が中国経略を進めると、輝延は八木豊信・垣屋豊続らと山名祐豊を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、羽柴秀吉に対抗した。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となった。


■参考略系図
 


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