ヘッダイメージ



西牟田氏
●三つ巴
●藤原道隆流   
光延三郎ヱ門様より、筑後市西牟田にある寛元寺は、西牟田郷の地頭職として伊豆から赴任し てきた西牟田弥二郎家綱が建立した寺で、寺紋「三つ巴」は 「西牟田家」の紋であったと伝えられている」との情報をいただきました。   


 西牟田氏は『筑後国史』にみえる系図によれば、藤原北家流で関白藤原道隆の後裔となっている。『筑後志』には、「西牟田弥次郎家綱入道藤原行西、嘉禎年中(1235〜38)、豆州三島より三瀦郡西牟田村に来住し、堡を築き本姓宇津の宮を改め、西牟田を以て称号とす」とし、西牟田の寛元寺は、西牟田入道行西の願によって寛元元年(1243)に建立され、蛭池村の三島明神は行西が伊豆国三島から勧請したものと伝えている。
 つまり西牟田氏は、三瀦郡西牟田村を名字の地とし、関白藤原道隆の子孫で本姓は宇都宮であるが、嘉禎・寛元のころに伊豆から西牟田に入部してきた西牟田弥次郎家綱入道藤原行西を初代として、戦国末期まで活躍したということになる。

西牟田氏の出自、考察

 徳治二年(1307)、沙弥浄西は寛元寺に土地を寄進したが、その文書に「寛元寺の堂舎は祖父行西が建立」したと記している。一方、寛元寺の初見は建長六年(1254)の日の権大納言家政下文である。そして、沙弥浄西は嘉元三年(1305)の鎮西引付奉行書下にみえる「西牟田弥次郎入道浄西」と同一人物と思われ、祖父の行西もまた西牟田氏であったことは疑いない。そして、行西は仁治二年(1241)の三瀦荘領家下文にみえる「西牟田村名主行西」と同一人であろう。
 すなわち、寛元寺の建立は行西であり、行西が西牟田を称したはじめの人物であった。しかし、伊豆から入部してきたというものではなく、名主とあるように西牟田村の本名主として所領を安堵された武士であり、いわゆる三瀦荘内に土着していた武士勢力の一つであったと考えられる。
 『久留米市史』には、西牟田氏と上妻氏との関係が論証されている。それによれば、上妻氏は西牟田氏と同じく関白藤原道隆の後裔を称する高木氏の一族である。一本高木氏系図によれば、家秀の子家宗は上妻次郎大夫を名乗り、家基が吉田三郎を名乗っている。一方、西牟田系図にみえる初代家綱の祖父家実もまた、吉田三郎を名乗っている。そして、上妻系図の吉田三郎家基と西牟田系図の吉田三郎家実を同一人物ではないかとしているのである。
 たしかに高木・上妻氏らにしても西牟田氏にしても、その出自を関白藤原道隆とするのは後世の付会というしかない。また、似たような系図、名乗りから推して、それぞれが一族とすることも若干の無理が残るといえよう。

筑後の国人領主に成長

 南北朝時代の建武三年(1336)、鎮西管領一色範氏は筑後国守護代藤原貞兼と西牟田弥次郎入道定西に、三瀦荘八院村における白垣入道の濫妨狼藉をしずめるように命じている。西牟田氏が守護代とともに、狼藉鎮圧の命令を受けていることは、当時の西牟田氏の勢力の一端をうかがわせるものといえよう。ついで、建徳二年(1371)西牟田弥次郎入道長西が、出した請文が残っているが、これも九州探題か筑後守護の命による狼藉鎮圧に関したものであろうとされている。
 入道定西は有家、長西は家直に比定される。西牟田氏は歴代の惣領が弥次郎を仮名とし、実名には「家」、僧名には「西」を共通して用いている。かれら弥次郎を名乗る人物は、西牟田氏の惣領であったとみて間違いないだろう。
 長西は明徳二年(1391)、私領のうち作四反を寛元寺末庵の香雲庵に寄進している。そして、応永元年(1394)には寛元寺免田・住持職を元喜和尚に預けている。同十八年、高屋内寺後一町を寛元寺に寄進した讃岐守藤原公家が知られるが、公家は長西家直の子弥次郎であろう。ついで、宝徳元年(1449)には、播磨守藤原為家が西牟田三島大明神に大般若経を寄進している。西牟田の国人領主として、西牟田氏が領内の社寺に対して保護を加えていたことが知られる。
 その後、西牟田氏は隆家を経て重家の代へと続くことになる。重家の時代は日本全国が戦国時代となっており、時代の荒波は西牟田氏とも無縁ではなかった。
 ちなみに戦国時代のはじめの筑後国には、上蒲池・下蒲池・問註所・星野・黒木・河崎・草野・丹波(高艮山座主)・高橋・江上・西牟田・田尻・五条・溝口・三池の大身十五家があって、これを筑後の十五城と称した。このなかで柳川の下蒲池氏がもっとも強大で筑後十五城の旗頭といわれたが、西牟田氏も筑後の有力国衆として一角の勢力を有していたのである。

■ 戦国時代の筑後国勢力図


戦乱の時代を生きる

 『筑後国史』にみえる文亀元年(1501)七月の城重岑の寄進状には、同年五月、肥後袈裟尾原(玉祥寺原)の戦いで西牟田播磨守重家は溝口資清らとともに戦死したとある。
 袈裟尾原の戦いとは、菊池氏の内訌から生じたものであった。すなわち菊池氏宗家武運(能運)と一族の宇土為光が対立し、為光は菊池氏の重臣と謀って武運の排斥を企てた。これに身の危険を感じた武運は、隈府城を出て玉名郡に逃れ肥後・筑後の諸将に檄を飛ばした。これに、菊池一族の菊池重安・東重棟をはじめとして、筑後の黒木為実・溝口資清、そして西牟田播磨守重家らが応じた。戦いは激戦となったが、武運方は黒木・溝口・西牟田らの武将をはじめ数百人が戦死するという大敗北を喫し、武運は身をもって有馬家のもとに走った。
 その後、能運は老臣城氏・隈部氏らの応援を受け、さらに相良長毎の協力をえた能連は、島原の援軍を率いて玉名に上陸した。為光もこれを迎撃し、高瀬における激戦の結果、能連方の勝利となり為光は滅亡した。かくして能運は隈府城に復帰したが、高瀬の戦いのときの傷が癒えず、二十五歳の若さで死去した。そのあとは、菊池重安の子政朝が家督を継ぎ肥後守護職となった。しかし、このころを境に菊池氏の威勢は衰退の一途をたどることになる。
 享禄三年(1530)、大内義隆は筑前守護杉興連を肥前に侵入させたが、少弐・龍造寺氏の夜襲を受けて太宰府にひきあげた。翌年、大友義鑑は大内氏に味方する星野親忠の妙見城を攻め、親忠を援ける杉興連の兵が大友氏と戦った。天文元年(1532)、義鑑は興連の岩屋城を攻撃すると、大内氏の部将陶興房が渡海して太宰府に入った。翌二年、興連は御原郡を経て安武・久留米両城を落し、肥前に攻め込んだ。久留米地方を制圧した陶興房のもとに筑後武将のほとんどがなびき、大友氏に反抗するようになった。
 天文三年九月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子が三池・溝口・辺春、肥後の小代・大野諸氏らとともに反旗をひるがえしたが、大友義鑑の兵によって誅伐された。この戦いは、『筑後将士軍談』には大永五年(1525)のことと書かれているが、状況からみて天文三年のことであろう。

繰り返される興亡

 親毎・親氏父子の死後、西牟田氏は弥次郎(のち鎮豊)が継ぎ、西牟田城を維持したようである。
 天文十九年(1550)、大友氏では家督相続をめぐって二階崩れの変が起り、義鑑が横死して義鎮が家督を継承した。大友氏の内訌をみた義鎮の叔父菊池義武は、ただちに反大友の軍事行動を起こした。これに三池親員、溝口鑑資、西牟田鎮豊(親氏とするものもあるがすでに親氏は死去している)らの筑後国衆が味方して、大友氏から離反した。家中の動揺を鎮めた義鎮は、ただちに筑後に出陣すると反大友の城を攻め西牟田氏らはちぎつぎと大友氏に降った。菊池義武も義鎮に謀殺され豊後は義鎮体制が確立した。
 以後、大友氏の勢力が鎮西に振るうことになるが、その一方で、南九州では島津氏が着々と版図を拡大していた。また、鎮西の名族として勢力を維持していた少弐氏が龍造寺隆信に滅ぼされ、肥前東部を支配下においた隆信が著しい台頭をみせるようになった。天正元年(1573)、筑後に侵攻した龍造寺勢が西牟田城を攻めた。このとき西牟田氏の娘婿であった田川城主の田川長門守が西牟田氏の応援に出向き、途中の笹原で戦死したことが伝えられている。
 天正六年(1578)、大友宗麟は日向伊東氏を支援して日向に出陣、島津氏と戦ったが高城・耳川の戦いで潰滅的敗北を喫した。以後、さしもの大友氏の勢力も衰退の一途をたどることになる。一方、龍造寺隆信は大友氏の敗戦を好機として、二万余の軍勢をもって筑後に出兵してきた。筑後の国衆は下蒲池鎮並をはじめとして、草野鑑員・下田の堤貞之、そして西牟田鎮豊らは大友氏に背いてことごとく隆信の麾下に参じた。
 龍造寺氏の軍門に降った西牟田氏は、龍造寺氏の筑後支配に協力することによって復活した。とはいえその代償として、大友氏の攻撃を受ける結果となった。鎮豊は代々の居城西牟田城では大友軍を防ぎきれないとして、天正七年、生津城を築き移った。生津城は本丸東西七十三間、南北六十二間、西の堀の口の広さ三間、中の堀の広さ二間であったといわれ、さらに、五重の堀切を巡らしていたと伝えられる。また、山の井川を背にして、川の井堰を閉じると外郭外側は一晩で水を満たした水城になったという要害堅固な城であったという。
 以後、西牟田氏は龍造寺氏に従って、諸所の合戦に出陣した。天正八年、柳河城の下蒲池鎮並が隆信に離反すると、西牟田鎮豊は田尻鑑種、蒲池鑑広らとともに討伐軍に加わった。ついで、天正十年には田尻鑑種が隆信に離反、これに肥後の辺原入道紹真が同調した。隆信は鍋島信生を大将に討伐軍を送り、西牟田氏は上蒲池鎮運らとともにこれに従い、辺原の猛反撃を受けて多くの損害を出して退いた。

戦国時代の終焉

 筑後の奪回を目指す大友氏は、天正十一年(1583)、生津城に攻め寄せてきた。西牟田新助家周・同新右衛門家和の兄弟は要害をもって大友軍を迎え撃ったが落城、新たに城島城を築いて移った。翌天正十二年、島津氏に通じて龍造寺から離反した有馬仙岩を討つため、龍造寺隆信は三万の軍勢を率いて島原半島を南下した。そして、龍造寺軍と島津・有馬連合軍とは沖田畷で激突、龍造寺軍はまさかの敗北を喫して大将隆信は討死した。この戦いに西牟田氏も出陣して、統賢兄弟が揃って討死するなど多くの犠牲を払っている。
 隆信を失った龍造寺家は、柳河の鍋島信生(信昌・直茂)を佐嘉に移して執政となし、龍造寺家の立て直しをはかった。このとき、上蒲池、黒木、西牟田、草野、星野、門註所(鑑景)氏らは、龍造寺家に起請文を送って異心なき旨の心底を表わしている。一方、大友氏は失地回復の好機として、大軍を筑後に送り込んできた。城島城に拠った西牟田氏は大友軍の攻撃を受けたが、よく奮戦して大友軍を撃退した。このときの勝利で、西牟田新助兄弟の勇名と城島城の堅固さとは、肥前・筑後・豊後のあいだに轟いたという。
 隆信を討ち取った島津軍は九州統一をめざして北上作戦を展開し、万事窮した大友宗麟は上洛して豊臣秀吉に援助を請うた。秀吉は島津氏に書状を送って、大友氏との和睦をすすめたが、島津氏はこれを一蹴した。かくして天正十四年、秀吉は九州征伐の陣ぶれを告げたのである。対する島津氏は筑後・筑前・豊後へ兵を進め、天正十四年六月、城島城は島津軍の猛攻撃にさらされた。
 さすがの家周兄弟も薩摩武士の勇猛果敢な攻撃には敵せず、夜陰にまぎれて筑後川を渡ると肥前へと落ちていった。ここに、鎌倉時代以来四百年間にわたって西牟田を領してきた西牟田氏は没落の運命となった。・2005年4月13日

参考資料:久留米市史/筑後市史/福岡県史 ほか】

■参考略系図
・『三瀦郡名家系譜』所収の西牟田氏系図をもとに作成。  
  


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