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成富氏
撫子/唐菱
(大蔵氏流江上氏支流)


 成富氏は江上氏の氏族で、大蔵氏の一族である。江上種成は筑後国から肥前国神埼郡田手の吉ケ里に来住し、その孫にあたる良種入道西良が初めて成富氏を称したという。良種四世の孫種秀は竜造寺氏に仕えた。
 種秀の嫡子種貞が戦死したことから、弟の信種が家督を継いだ。信種は竜造寺隆信に親近し、今山の陣以降戦功が多かった。しかし、隆信が晩年に至って放恣豪勇に耽りだすと、信種は家督と所領を子に譲って、上方にのぼり社寺に祈願を請て廻った。
 信種の長男久蔵は戦死していたことから、二男の賢種が家督を継ぎ、物成千七百石と佐嘉領初期の大身となった。のちに隆信の一字を賜って新九郎信安と称した。信安は十一歳のとき今山の陣出陣を願ったが幼少のため許されなかった。しかし、父の跡を追って陣所に行き敵味方の行動を見物して隆信に褒められ小姓に取り立てられた。
 天正十四年(1586)、十七歳のとき藤津攻めに先手の大将として従い、横沢城攻めが初陣となった。同七年、二十歳で早くも十度の戦功を立てた。これによって隆信から十右衛門と改められ、名を賢種と改め、さらにその後鍋島直茂の一字を賜って茂安と改めた。
 天正十五年、豊臣秀吉の薩摩攻めに戦功をあらわし、秀吉をはじめ諸将にその名を知られる存在になった。同年、加藤清正と天草攻めに従い感状を授けられたが、「雑人輩の首を取った位で感状を貰い帰ったと朋輩に笑われる」と返上し、清正にいたくその志を褒められ、黒糸威の鎧を贈られた。秀吉の朝鮮の役では、鍋島直茂んぼ先陣として偉勲をあらわし、その後、関ヶ原の役、柳川城攻めなどにも戦功をあらわした。
 天下が静謐に帰すと、茂安は佐賀藩主鍋島勝茂に献策して大いに土木水利を図り千歳川西岸の三里の千栗土居の築造、嘉瀬川に石閘、芦刈水道、巨勢野の開発などを行い、後世に名を残した。また、名古屋・江戸・大阪・熊本の諸城の天下普請に関与し、民政家としても名声をあげた。
 かつて清正が一万石をもって仕官を勧めても「肥前武士の習い、たとえ肥後一国を貰っても譜代の主家を捨てて国を後にするのは不義理である」と答えて辞退し、清正をしてその義心を感ぜしめた。茂安はまた、邑主鍋島直弘が幼少であったため、その扶育に勤めたため、邑主を祀る白石神社に配祀されている。明治維新に至って、明治天皇は茂安に従四位を追贈されている。
 千栗土居の施設は甲斐の武田信玄の信玄堤と同様に孫子の兵法を水利に応用したと思われ、未だ一度も決潰せず永く住民を救っている。明治二十四年九月石閘の傍らに「成富君水功之碑」を建て、毎年慰霊祭を行い、他の地方でも五月新緑の時節に各々「兵庫祭」」を行い、川に兵庫の霊ありとして祭り、親類子供まで招待して祭とする習慣がいまに続いている。


●成富氏の家紋

 成富氏の家紋は、定紋が大蔵氏流の代表紋である「撫子」で、替紋として「唐菱」「丸の内に蔦」を、さらに「五葉木瓜」も用いていたと家伝に記されている。撫子は同じ大蔵氏流の秋月氏も用いており、秋月氏は「三つ盛撫子」紋である。「唐菱」は遠祖が漢の時代に用いていたといい、「丸の内に蔦」は加藤清正から贈られた甲胄に付いていたものを普段の用に使ったという。「五葉木瓜」についての由来は不明である。一つの家で、多くの家紋を用いる例は多い。成富氏の場合も、一つひとつにそれぞれ由来があることは、家紋の歴史と存在を考えるうえで興味深いものといえよう。
 弊ページにメールをいただいた成富氏の家紋も、それぞれ、佐賀の成富氏の家紋とは異なり、同姓であっても家の歴史で、それぞれ家紋が違うというのもまた興味深いもの だ。




・左から、唐菱、丸の内に蔦の葉、五葉木瓜の内に三つ巴、丸の内に違い鷹の羽  
  

■参考略系図
・江上氏の世系と比較して世代数が多いようであり、後世に整えたものであろうか?



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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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