中村氏
立沢瀉/梅鉢
(桓武平氏良文流 [異説多し] )

 大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。されど異説多く、或は佐々木氏の族、山崎の余流とも伝へ、藤姓と云い、猶は平氏と云ふ説もあり」と記されている。振るい段階のところは不明といったところであろう。
 下記に示した系図は『古代氏族系譜集成』所収の中村氏系図で、この系図にいよれば、桓武平氏平良文流で、中村庄司宗平の子二宮友平を祖としている。二宮氏は鎌倉幕府に仕えて二宮実忠の時、鎌倉幕府が滅亡したことから甲賀に蟄居した。その子一宗が中村小二郎を称して宗良親王に仕えたとするものである。この一宗から六代目に一政がみえている。

●一氏の登場と活躍

 橘平次一政の子が一氏で、中村氏はこの一氏のときに頭角をあらわす。すなわち、一氏は秀吉に仕え、秀吉が北近江の戦国大名となり小谷城主となった天正元年(1573)から同五年までの間に近江長浜のうちで二百石を与えられたのを皮切りに、次第に取り立てられた。信長横死後、秀吉が明智光秀・柴田勝家を討ったあと、和泉の岸和田城主となっている。秀吉自身には譜代の家臣がいなかったが、この一氏などは、譜代家臣衆といってよいほどの直参衆であった。
 天正十三年には、近江水口六万石に転じ、さらに、天正十八年の小田原征伐には、後北条氏の前衛山中城攻めに抜群の働きをし、その功によって駿府城主として十七万五千石の大名になったのである。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属したが、一氏自身は病気、子一忠(忠一とも)がまだ十歳だったため、代わって弟の一栄(当時、沼津で三万石)が出陣した。
 戦いの直前の七月一氏は没し、あとを一忠が継ぎ、戦後の論功行賞で伯耆米子城主となった。一忠は松平の称号をゆるされて、秀忠養女をめとって室とした。しかし、素行がおさまらず、家老横山大膳が口うるさく諌めたのを逆恨みにして、これを斬ってしまった。その結果横田氏の飯山城に抵抗の火があがり、隣藩堀尾家の助勢などでどうにか鎮圧した。そのことが両御所(家康・秀忠)の耳に入り、大いに気色を損じていたところに、慶長十四年(1609)一忠が早世した。一忠には子がなく、大名中村氏は断絶、改易の憂き目となった。

■参考略系図