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馬渡氏
●三つ引両三つ星
●清和源氏満仲流
・坂上時代:張弓征矢/本馬時代:日ニ雲。
 


 馬渡氏はそもそも坂上姓田村氏の後裔といい、義俊が源満仲の養子となり本馬八郎を名乗り、源氏を称するようになったのだと系図には伝えられている。
 その本馬八郎が肥前と関わりを持つようになったのは、白河上皇の時代(平安時代末期)、延暦寺僧兵鎮圧の冤罪を受け美濃国馬渡庄城主の源義俊が左遷され、松浦党を頼って土着した。そのとき名前を本馬八郎義俊と改姓し、その後、島の名を馬渡島と改め自らも馬渡氏を名乗り松浦一党となった。これが、馬渡氏のはじめと伝えている。ちなみに、馬渡は「もうたい」と読む。
 建治二年(1276)の蒙古襲来のとき博多湾の防塁に従軍し、弘安四年(1281)の蒙古再襲来には、馬渡美濃八郎が軍功を挙げたことが『治乱記』にみえている。その後、鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の争乱期になった応安四年(1371)、新たに九州探題に任じられた今川了俊が九州に下向すると、呼子で馬渡甲斐守が松浦一党とともに出迎えている。
・写真=張弓征矢紋(画像提供: 肥前佐賀武富一族さま)

馬渡笑岩の戦死

 その後、波多興の後援を得て、武雄の川古に移り、川古をはじめ多久の藤川内、小城の砥川を領有した。そして、甲斐守俊明の代になると、川古の日鼓城主渋江右馬頭公勢の配下に属した。渋江氏が没落したのちは後藤氏に従い、俊明は入道して笑岩と称した。やがて、渋江公親が岸岳城主波多氏の支援を得て再挙を企てると、笑岩は波多氏と図って後藤氏を襲撃しようとした。
 波多氏と笑岩の企てを察知した後藤純明は、天文二年(1533)、川古に進撃して笑岩の屋形を急襲した。馬渡勢は後藤勢の攻撃を防いだものの頽勢は覆うべくもなく、笑岩は屋形を脱出して戸坂(鳥坂)峠まで落ち延びたところを後藤勢に捕捉され、激闘の末に戦死を遂げた。
 他方、『藤山考略』では「馬渡甲斐守俊明入道笑岩、世々、川古郷に居て渋江氏に属する。天文十一年渋江公親、日鼓山において没落したのち、塚崎に降る。先代の純明はこれを遇すること甚だしく、貴明の時代になって志しを有馬左衛門尉義純に通じ、ひそかに塚崎を襲撃する気配であった」と記している。
 天文十三年(1544)、綾部城主の馬場頼周が龍造寺氏の勢力を削ぐため、有馬・松浦一党の決起を少弐氏に対する反抗とみせかけて、龍造寺氏に討伐を命じた。このとき、馬渡甲斐守・鶴田兵部少輔らは有馬氏に応じて、日鼓城に押し寄せて気勢を上げた。龍造寺軍が西肥前で敗退すると、馬渡氏が有馬氏に接近することを危惧した後藤貴明は、永禄九年(1566)、兵を率いて川古の馬渡館に攻め寄せた。俊明は嫡子伊豆守英俊、二男の兵庫助俊兼、三男の左馬助俊実、および徳末・高城ら家臣数百人を率いて鳥坂(戸坂)に出陣した。激戦の結果、英俊をはじめ徳末・高城らが戦死し、馬渡勢の大敗北に終わった。
 このように、馬渡俊明(笑岩)と後藤氏との戦いが行われた年に関しては諸説があり、判断に迷うところだが、おそらく天文年間のことであったと思われる。いずれにしろ、笑岩の戦死によって馬渡氏は一家離散となり、川古領は後藤氏の支配下となり、川原豊前守が与えられた。ところで、先の龍造寺軍のなかに、馬渡氏の別流である馬渡兵部少輔が参加しており、馬渡氏が二流に分かれていたことが知られる。

戦国時代の終焉と馬渡氏

 『北肥戦誌』によれば、永禄六年、後藤貴明が須古の平井経治を征せんとして出陣した。このとき、平井方には白石左近大夫、馬渡兵庫助らが味方して激戦となり、ついに、平井軍が勝利し後藤勢は退却していった。このとき、馬渡左馬允が討死している。当時、馬渡氏は有馬─平井氏のラインに連なっていたようで、加えて、馬渡氏が親しくしていた波多氏には有馬氏から養子が入っていた。そして、有馬─平井、波多、馬渡氏が有明海から玄海に至るルートを維持していた。このルートに対して、後藤氏は杵島方面から、龍造寺氏は多久方面から切り崩しを図ろうとする図式ができていたようだ。
 このころの馬渡氏は兵庫助俊兼の時代で、芦原や白石にも領地をもっていた。そして、永禄七年(1564)、俊兼の嫡男の元服に際して有馬義純が加冠して直勝の名乗りを与えている。元亀二年(1571)には、直勝の弟が元服したが、このときは平井経治が治の一字を与え治俊を名乗らせている。このように、有馬─平井─馬渡のラインは堅く結ばれていた。
 しかし、永禄十二年から元亀元年にかけて、二度にわたる大友氏の攻撃を退けた龍造寺隆信の勢力が拡大した。天正二年(1574)、平井氏は須古城に滅亡し、馬渡直勝・治経の兄弟は龍造寺氏と対立する平戸松浦氏のもとに逃れた。
 さて、馬渡氏には二つの流れがあった。ひとつは有馬氏方として行動した馬渡氏であり、一方、龍造寺氏に属した馬渡氏とであった。龍造寺氏に属した系は、甲斐守俊明(笑岩)の遺児重有の流れで、高江城主として下村一帯を領し、隆信に仕えて活躍したという。しかし、系図などによれば、俊明の叔父義者の子孫が龍造寺胤久に仕え、さらに胤栄、隆信と仕え、隆信に仕えた馬渡孫三郎は栄の一字をもらって栄信を名乗っている。そして、子孫は龍造寺、鍋島氏と仕え、佐賀藩主として続いたことが知られている。・2005年07月07日

参考資料:北方町史 ほか】


■参考略系図
・『北方町史』に紹介された馬渡氏の系図を底本に作成。  


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