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三木氏
●剣 菱
●宇多源氏佐々木氏流  
・三木直頼の位牌、菩提寺禅昌寺の山門に配され、末裔にあたる家でも用いられているとの情報を 武日のHPさまからご教示をいただきました。 京極氏の平四ツ目結を配した位牌もあるとのことです。  


 中世室町期における飛騨国の特徴の一つとして、国司と守護が並存していたことがあげられる。元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると、新田一族の岩松経家がただちに飛騨国守護に補任された。同時に建武年間(1334〜36)には、姉小路家綱が飛騨国国司に補任された。
 守護岩松経家は建武二年(1335)に「中先代の乱」で戦死し、しばらく飛騨国守護は不明となる。延文四年(正平十四年=1359)、佐々木京極高氏が守護職に補任され、以後、佐々木京極氏代々が飛騨国守護職を世襲した。一方の国司は、南北朝に分かれてのち、一時、北朝方から三善信顕・藤原基定らが補任されたが、やがて、国司は姉小路氏に帰した。こうして、姉小路氏は飛騨の南朝勢力として、飛騨南部に勢力を扶植する守護佐々木京極氏と対峙しながら、吉城郡を中心とした飛騨北部を支配したのである。

飛騨守護佐々木氏

 飛騨守護の佐々木京極氏は、鎌倉時代より近江守護を世襲した佐々木氏の一族である。佐々木氏の本宗は、江南を領する六角氏と、江北を領する京極氏とに分かれた。佐々木京極高氏(道誉)は元弘の乱から南北朝の争乱に際して足利氏に属して活躍、室町幕府の実力者となった。高氏は「ばさら大名」としても知られた人物で、近江・飛騨のほかに出雲・隠岐の守護も兼ねていた。佐々木京極氏の本国は近江であり、それぞれの守護分国には代官を派遣していた。そして、飛騨の守護代に派遣されていたのが多賀氏であった。守護代多賀氏は、京極持清が侍所頭人になると所司代を務めるなど、京極氏屈指の有力被官であった。
 やがて、十五世紀のなかばを過ぎるころになると、飛騨国の実質支配は守護代である多賀氏、あるいは三木氏に多く委ねられるようになった。応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発すると、多賀高忠は京極持清に変わって東軍の京都防衛に奮戦し山名持豊に対抗した。高忠は佐々木京極氏の中心となり、西軍の六角氏をしばしば追い詰めるなど京極氏を援けて大活躍した。
 文明二年(1470)、京極持清の死によって京極氏には継嗣問題が起った。高忠の専横に不満を抱く多賀出雲・若宮らの京極氏老臣が西軍の六角高頼と通じ、持清のあとを継いだ孫童子丸、後見京極政高、守護代多賀高忠らを国外に追放しようという行動に出たのである。この京極氏の抗争のなかで、守護代多賀氏は次第に勢力を失っていくことになる。
 同じころ、飛騨国内の一方の勢力である国司家の姉小路氏は、小島・古河・小鷹利の三家に分かれて互いに争っていた。この姉小路氏の内訌をみた守護代多賀氏は、三木久頼を先鋒として古川に侵攻した。しかし、久頼は姉小路基綱によって討ち取られてしまった。この報に接した多賀入道は守護京極政高の弟高清を動かし、美濃の守護代斎藤妙椿に援軍を求めて、飛騨国へ出陣しようとした。
 このとき、美濃守護代斎藤妙椿は姉小路基綱に書状を送って自重をうながしたことで、姉小路氏は兵を解き上洛、京極氏らの飛騨出陣はなかった。三木氏が確実な史料上にあらわれたのは、この斎藤妙椿の書状においてであった。この事件は、守護京極氏の被官に過ぎなかった三木氏が飛騨国内に勢力を拡大していくきっかけとなった。

三木氏の出自について

 そもそも三木氏は、佐々木京極氏の重臣多賀氏の家臣という立場であった。それが、多賀出雲守が守護京極氏の守護代として飛騨の諸政を担当するようになると、三木正頼が飛騨駐在を命じられた。これが、三木氏が飛騨と関係をもった始めである。ちなみに、飛騨三木氏は「みき」ではなく「みつき」が正しい呼び方である。
 三木氏の出自は、多賀氏から分かれたという説が流布されている。すなわち、『飛州志』所載の三木氏の系図によれば、三木氏は宇多源氏佐々木成頼より八代の孫、多賀太郎則綱より十代の三木太郎左衛門尉則綱を始祖とするとある。しかし、三木氏が多賀氏の後裔とする根拠はない。一方、多賀氏について『白石紳書』に「多賀氏は中原也、高忠、近江人、豊後守、従五位下、所司代、応仁文明の人、熊野本宮和田氏家蔵判物あり」と記され、また『多賀家中原考』には「家説多賀豊後守高忠実は京極加賀守高員(数)が男なりけれども、多賀豊後守高長の養子と成給ふ故、中原氏多賀の称名を用ける也」とあり、多賀氏は佐々木氏からの分かれではなく中原氏であったことが記されている。
 一方、『続群書類従』の「飛騨姉小路氏系図」に、姉小路氏の名跡を継いだ良頼・自綱・親綱が記され、『寛政重修諸家譜』にも姉小路氏に連なる系図が記されている。しかし、いずれの姉小路氏系図も国司小島氏、向小島(小鷹利)氏と三木氏を混在した内容となっている。ちなみに、『寛永系図伝』に収められた三木氏系図は三木直頼から書出して、その先祖を載せていないが藤原姓の部に収められていることから、三木氏の本姓は藤原氏とみられていたようだ。『飛州志』に収められた三木氏の系図も藤原氏説を採用している。
 三木氏が飛騨に勢力を築くきっかけとなったのは、応永十八年(1411)に起った「応永の乱」であった。この乱は、姉小路尹綱が所領問題をめぐる幕府の措置に怒り、幕府に通じていた小島・向小島の両城を攻撃したことに始まった。姉小路の行動は、幕府に対するあきらかな挑戦であり、将軍義持は京極高数を大将に命じて姉小路氏を討伐した。このとき、三木氏も京極氏に属して出陣し軍功をあげ、のちに三木氏発展の原点となる益田郡竹原郷を与えられたのである。

写真:初期三木氏が用いていたという「三本松(根引の松)」の紋
………
飛騨在住の郷土史家吾郷さんより、旧三木氏家臣であった細江氏の袴に付いている紋を スキャンしたものを送付いただきました。 三本松の紋は三木氏が使用した軍配にも付いているとのことで、『萩原町史』では
―― 思うに三木氏の初めの家紋は「三本松」であったと推定され、
   細江氏は主家の旧家紋を許されたのではないかと考えられる。――
と解釈されているとのこと。 家紋のあるべき姿として「三本松(根引の松)」の紋は、もっとも三木氏らしいものといえそうだ。


三木氏の勢力伸張

 妙椿の書状に名が見えて以後、三木氏の消息は知られなくなる。三木氏がふたたび史料上に登場するのは、大永元年(1521)、寿楽寺所蔵の書写大般若教の後書においてである。そこには、飛騨で三仏寺城在城の三木氏がからむ合戦が起きたことと、それに対処するために郡上の白山中宮長滝寺から兵力が派遣されたということが記されている。この合戦がどのようなものであったかは分からないが、三木氏が三仏寺城にいたということが注目されている。
 三仏寺城は高山盆地の北東端に位置し、戦いも高山盆地を中心に展開されたことはほぼ確実で、三木氏の勢力が飛騨の中央部に進出していることが知られると同時に、この合戦が飛騨全体の動向を左右する重要なものであったと推測されるのである。おそらく姉小路勢が相手であったと想像されるが、断定はできない。
 このときの三木氏は直頼であると思われ、三木氏の系図などによれば、直頼は永正・大永のころに阿多野郷領主の東相模守、同甲斐守、その他阿多野蔵人、黒川越中守、井戸周防守、今井対馬守らをことごとく制圧し、阿多野・馬瀬両郷を支配下におさめた。そして大永元年ころ高山盆地に進出し、同六年には大野郡灘郷(高山)・大八賀郷・三枝郷を支配下におさめ、桜洞城に拠点を構えていたという。
 飛騨に入部した三木氏は、益田郡の東南端に位置する竹原を本拠としたと伝えられている。それが、直頼の代に至って飛騨川やその支流である馬瀬川の上流域に向って勢力を伸ばし、大永元年には高山盆地内でも重要拠点である三仏寺城まで支配下においていた。十六世紀のはじめ、三木氏が急激に勢力を拡大していったことが知られる。

領外への出兵

 大永の乱以後、三木直頼は国外に向って軍事行動を行うようになる。大永八年(1528)、御嶽麓を縫って木曾王滝に攻め入り、三木勢を迎撃した木曾義元を討ち取った。木曾氏は木曾義仲の子孫といわれ、木曾全体を配下におさめ、信濃四大将の一人に数えられるほどの勢力をもっていた。義元が討ち取られたことは信濃側の記録にも記されており、三木氏の勢いのほどが知られる。しかし、戦いそのものは木曾勢が勢いを盛りかえしたことで、三木勢は撤退を余儀なくされている。この戦いの背景には、御嶽山麓に広がる大森林地帯の良材をめぐる経済的な権益をめぐる確執があったようだ。
 その後も直頼は勢力の拡大につとめ、享禄四年(1531)には、古河姉小路家の内訌に干渉し、古河姉小路氏の実権を掌握し、忍(志野比)城の牛丸与十郎とともに主家を壟断していた古川富氏を討っている。このとき古川勢に対して、三木直頼は小島・小鷹利氏らとともに兵を動かし、忍城ついで古川城を攻略した。敗れた古川城兵らは小島方面へ逃れようとしたが、三木方の大野勢が追撃し小島口において捕捉殲滅している。
 直頼は戦勝の勢いをもって東濃方面への南進策も図り、天文七年(1538)禅昌寺の僧を派遣して東濃諸家の情勢を探らせている。そして、翌天文八年、美濃郡上畑佐氏の援軍として弟の新介直綱を大将として出兵、この陣には白川郷の内ケ島氏が三木方として参陣している。当時、三木氏も内ケ島氏もともに本願寺の門徒であり、この出兵の背景には本願寺の意向がはたらいていたようで、相手は遠藤・野田の両氏であろうと考えられている。
 美濃守護は土岐氏が世襲していたが、天文期、守護土岐頼芸・斎藤道三と前守護土岐頼武・頼純父子との間で激しい抗争が続いていた。天文九年、土岐頼芸の要請を受けて中濃へ出兵した直頼は、姉小路三家・広瀬・江馬氏らの加勢を得て米田城や野上城を攻め落としたと記録に残されている。戦後、直頼は古河・小島・向・広瀬・江馬の北飛諸将に、それぞれ酒肴を贈って出兵の労をねぎらっている。

戦国大名への途

 戦国時代の飛騨は、南飛騨を三木氏が支配下におさめ、北飛騨から越中にかけては江馬氏が勢力を築き、その間に姉小路氏が割拠していた。
 三木氏と江馬氏とは早い時期から接触があったようで、直頼の嫡子良頼(良綱)は江馬時経の娘を室としていた。そのような関係から、三木氏の東濃出兵に際して江馬氏は協力を惜しまなかったのである。ところが、良頼の妻は病となり、ついに帰らぬ人となってしまった。これを契機として、三木氏と江馬氏の間は疎通を欠くようになり、ついには宿敵の関係となり相争うようになるのである。
 天文十三年(1544)、北飛騨に乱が起り、三木新九郎・同四郎次郎らが三仏寺近くの鍋山城に出張して敵に備えたという。その敵とは江馬時経であったようで、乱は二ヶ月にわたって続いた。直頼も出陣しようとしたが、江馬方には越中勢が加勢していたことから萩原城にとどまっていた。この争乱で越中からの米穀輸入の道が途絶えて城下の領民が困窮したが、直頼は狼狽することなく信濃木曾方面より米穀の輸入を図って急場をしのいでいる。
 ところで、江馬氏の変があったこの年、将軍義晴は諸大名に命じて京極高延を討たせ、長く飛騨と関係を持っていた京極氏は没落した。すでに三木氏は京極氏とは関係を絶っていたようで、三木氏は中央の政変に関わることなく、飛騨における自己勢力の拡大に余念がなかった。
 天文十五年、江馬時経が死去し、緊張から解放された直頼は、兵火にあった千光寺の堂宇を再建し、良頼を上洛させている。以後、直頼が死去する天文二十三年(1554)ごろまで国内は平穏で、合戦沙汰もなく、三木氏は領内の整備を行うことができ勢力は大いに振るうようになった。この間に直頼は益田・大野両郡への号令はもとより、北は吉城郡、南は恵那郡にまで勢力を拡大した。しかし、直頼は武略ばかりに偏ることはせず、寺院を建立し神社を修造して人心を収攬し、恩威をならびしいたのである。三木氏はこの直頼一代をもって戦国大名への基礎を築いたといえよう。

ますます拡大する戦乱

 三木良頼が家督となったころの日本はまさに戦国時代のまっただなかにあり、隣国美濃には斎藤道三・義龍父子、尾張には織田信長、駿河に今川義元、甲斐に武田晴信(のちの信玄)、越後に長尾景虎(のちの上杉謙信)、越前に朝倉義景らの戦国大名が割拠していた。なかでも武田信玄は、天文十四年信濃伊那郡を攻略し、十七年には小笠原氏を破り、二十二年には北信の村上氏を逐い、信濃の大半を攻略した。この武田氏の勢いに、信濃福島の木曾氏、東濃岩村の遠山氏らは信玄に通じてその勢力下に属した。
 天文二十四年、信玄に領地を逐われた信濃諸将を支援した上杉謙信と、信濃の領有を確固たるものにせんとする武田信玄とが、信州川中島で対陣した。これが、戦国史に残る「川中島の合戦」の初めで、以後、五回にわたり信玄と謙信とは川中島の戦いを繰り返した。
 川中島の合戦が行われたとき、越前朝倉氏の将入道宗滴は加賀に攻め入り一向門徒と戦った。これは、加賀・越中の一向門徒が出陣の隙を狙って越後を衝くことを恐れた謙信が、その牽制を朝倉氏に依頼した結果であり、長尾氏と朝倉氏との間には攻守同盟が締結されていたのである。そして、朝倉宗滴が書状を越後へ持参させた使僧は道を飛騨に取り、宗滴は僧の警固を三木良頼へ依頼していた。このことから、当時の三木氏は朝倉・長尾同盟、すなわち越前・越後同盟に参加していたと考えられる。
 家督を継いだ良頼(良綱)は、長滝寺領川上郷の押領を謀るようになり、永禄元年(1558)には、嫡男光頼(のちの自綱)を将として、広瀬高堂城の広瀬宗域と連合して、天神山城の高山外記と三枝・川上郷の領主山田紀伊守を討ち取った。ここにおいて、三木氏は川上郷を支配下におさめることに成功した。そして、天神山城には叔父の久頼を入れ、鍋山城の鍋山豊後守には弟顕綱を養子に入れて傘下とした。その後、顕綱は豊後守の実子を追い養父を殺害して、鍋山氏を完全に乗っ取ってしまった。こうして良頼は、着々と飛騨における覇権を確立していったのである。
 ところで、室町時代の中ごろより勢力を拡大した一向宗が、各地で一揆を起こして、守護や国人らと対立し、加賀では守護冨樫氏が一揆に敗れて「百姓が持ちたる国」という事態になっていた。三木氏はすでに直頼の時代より一向宗の本山本願寺と結び、直頼や良頼は上洛のたびに、石山本願寺を訪ねて礼物を献上したりしている。他方、姉小路氏・江馬氏・広瀬氏・内ケ島氏らの飛騨衆も本願寺と親交を結んで、飛騨一国は一向宗を緯とする微妙な協調関係が成立した。
 十六世紀なかばになると、三木氏は飛騨群雄のなかで一歩抜きん出る存在となっていた。とはいえ、三木氏が飛騨一円を勢力下においているという状態ではなく、姉小路氏・江馬氏・広瀬氏・内ケ島氏ら国内諸勢力との関係は同盟程度に過ぎないものであった。言い換えれば、協調関係はいつなんどき崩れ、対立関係に変じるかは分からなかった。良頼はそのような情勢を克服するため、みずからの地位を権威で飾ろうとした。
 良頼が家督を継いだころ、飛騨では姉小路氏をめぐって戦乱が起り、この争乱を経るなかで飛騨随一の名家姉小路氏は完全に没落した。良頼は姉小路氏の名跡を継ぎ、その家格を簒奪して、永禄元年(1558)には従五位下飛騨守に叙任された。

上杉、武田氏の干渉

 かくして、三木良頼はみずからを飛騨随一の家格で飾ることに成功した。永禄二年には嫡子の光頼(のちの自綱)が飛騨国司に任命され、翌三年には古川の姓を名乗り、五年には従三位にまで昇進した。この年、良頼は名を嗣頼と改め、さらに権中納言を望んだが、さすがにそれは許されなかった。しかし、同六年には自綱が侍従に任命され、以後、良頼・自綱父子は姉小路中納言・同宰相を自称している。
 三木良頼は朝廷の顕職を得るにあたって将軍の力を利用しているが、公家の風に憧れていた良頼は飛騨守護に任命されることは欲していなかったようだ。とはいえ、室町幕府奉公衆(親衛隊)の永禄年間の名簿である「外様衆・大名在国衆号国人」には、伊達晴宗・朝倉義景・北条氏康・上杉輝虎・武田信玄・織田信長・毛利元就・大友宗鱗・島津貴久らとともに「姉小路中納言、飛騨国司 同宰相、姉小路」の名が記されている。飛騨国司姉小路中納言、姉小路宰相とは三木良頼・自綱父子であり、飛騨三木氏は錚々たる戦国大名に互して、幕府から認識されていたのである。
 良頼がみずからを姉小路中納言、嫡子の光頼を宰相などと呼ばせて貴族気取りでいたころ、飛騨を取り巻く情勢は大きく変化を見せつつあった。すなわち、越後の長尾景虎、甲斐の武田信玄という、二大戦国大名の対立が飛騨にも影響を及ぼすようになってきたのであった。
 永禄四年(1561)、北飛騨の江馬時盛が武田信玄に通じて兵を挙げたが、良頼・自綱父子はよくこれを撃退した。この年、長尾景虎は関東管領職に就いて上杉姓を名乗り、以後、関東への出兵を繰り返すようになった。その一方で、越中方面への目配りも怠りなく、腹心の河田豊前守に越中を守らせ、永禄六年には吉城郡下山中塩屋城に拠る三木方の塩屋筑前守を降して、飛騨半国を支配下においた。これに対して信玄は、部将の山県昌景を大将とする軍勢を飛騨高原郷に入れ江馬氏を配下におさめた。さらに、武田軍は吉城郡広瀬郷を領する広瀬氏を降して、信濃・越中間の通路を確保した。
 この事態は三木氏にとって衝撃となった。江馬・広瀬両氏がともに武田方となれば、越中方面からの米塩・魚類が入ってこなくなり、良頼(良綱)としては自衛上抛っておけず、兵を広瀬・荒城両郡に出したのである。一方、武田氏にしても江馬・広瀬氏が降ったとはいえ、上杉氏に属する三木氏一党がいる限り、安心して越中へ兵を送ることができない。永禄七年、三木氏が兵を出すとの情報を得た武田氏は、大軍を飛騨へ差し向け、一軍を山県昌景に、一軍を木曾氏に率いさせて阿多野口から攻め入らせた。
 武田軍の侵攻に対して千光寺衆徒は三木氏に味方して武田勢を防いだが、その戦いで千光寺は炎上してしまった。千光寺は昌景から降服勧告を受けていたが、それを聞き入れず、大檀那三木氏の恩に殉じたのである。鳥越城が陥落し千光寺も炎上すると、三仏寺城主の三木新左衛門尉は城に放火して益田筋へ引き退き、良頼は三仏寺領も江馬氏に引き渡して降参した。三木氏を切りしたがえた昌景は、間もなく兵を収めて甲斐へ引き上げた。ここに、飛騨と越中の通路を確保した武田信玄は、翌永禄八年、山県昌景を先鋒として越中へ出馬し、椎名康胤を降参させている。
 そのような元亀元年(1570)四月、自綱は上洛して将軍足利義昭の二条第において催された能の見物に諸大名・公家とともに列席し、つづいて宮中に参内して侍従に任ぜられたる恩を謝して剣馬を献上している。同三年十一月、父良頼が没したあとを受けて三木氏の家督となった。

時代の変転

 元亀三年(1572)、上洛の軍を起こした武田信玄は天正破竹の勢いで兵を進めたが、翌年、宿痾の病が重くなり雄図むなしく死去した。武田信玄の死を確認した織田信長は、郡上の遠藤氏討伐の軍を発したが、その陣中には飛騨から三木自綱が加わっていた。自綱の代になると、武田・上杉に加えて、岐阜城の織田信長が飛騨方面に調略の手を伸ばしてきた。自綱は元亀元年(1570)に上洛したとき、将軍足利義昭の二条第で行われた能興行に列席し信長と同席した。このときから、自綱は信長と誼みを通じるようになったようだ。また、系図によれば自綱の妻は斎藤道三の娘とあり、信長とは道三を介して義兄弟の仲であったことも、自綱が信長に近付いた一因となったものと思われる。
 信玄のあとを継いだ勝頼は、天正三年五月、織田・徳川連合軍と長篠で戦い完敗し大きく勢力を失墜した。以後、勝頼は武田氏の家名挽回につとめたが、次第に凋落の色を深くしていった。そして、天正六年三月、上杉謙信が病後し、その後の家督争いによって越後上杉氏も勢力を落したのである。
 この目まぐるしい情勢の変転のなかで、三木自綱は飛騨統一の完成に向けて着々と前進していた。自綱は己の安泰を図るためには手段を選ばず、また一族さえも顧みなかった。すなわち、天正五年には妹婿岡本豊前守夫妻を殺害し、天正七年には嫡子の宣(信)綱を松倉城内において殺害した。宣綱のことは、宣綱が上杉方の広瀬山城守と通じて、自綱に謀叛を企てたからであるという。また、広瀬氏に通じた宣綱に対して信長から殺害命令が出た結果ともいわれる。
 天正七年(1579)、自綱は信長に属して椎名勝雄と戦い、ついで織田氏の部将斎藤利次の今泉城攻めに参加した。また、その一方で自綱は江馬氏と三木方の部将である塩屋秋貞を攻めているが、これは、江馬・塩屋両氏が上杉氏に通じていたため、信長から命じられたものであったようだ。このように、自綱は織田信長に属して外征に従い、飛騨国内の敵対勢力と戦い、松倉城を修築してその威勢を確実に高めていった。翌八年、信長は佐々成政を越中に派遣した。成政の活躍によって越中は織田方の威令が及ぶようになり、その功績を認められた成政は越中守護に任ぜられたのである。佐々成政に対して、白川郷の内ケ島氏理は同盟を結び、三木自綱も佐々成政と共同歩調をとるようになった。
 やがて、天正十年になると、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻し、ついに武田氏は滅亡した。武田氏の滅亡は飛騨の三木氏、江馬氏にも影響を与えずにはおかなかった。三木氏はすでに織田信長と親密な関係を結んでいたからその影響は少なかったが、武田氏と誼みを通じていた江馬氏は慌てて信長への接近を図った。ところが、同年六月、信長は明智光秀の謀叛によって京都本能寺で横死してしまったのである。信長の死によって、これまで武田・上杉・織田氏らに翻弄されてきた三木・江馬両氏は、みずからの実力をもって興廃を争うことになった。十月、飛騨統一の野心を膨らませる江馬輝盛は、三千騎の大軍を率いて諏訪城を出陣し南下してきた。対する三木自綱は、牛丸親正・小島時光らと同盟軍を組織し、その兵力二千をもって江馬勢を迎え撃った。

自綱、飛騨を統一

 自頼は天険にある松倉城への籠城策をしりぞけ、江馬勢を大阪峠の出口にあたる荒城川沿岸において討ち取ろうと策をめぐらした。そして十月二十七日、飛騨の関ヶ原ともいわれる「八日町の戦」が行われた。緒戦は兵力に優る江馬勢の志気があがり、三木勢を広瀬方面に圧迫していった。そこへ、自綱が伏せていた兵が江馬氏の本陣に斬り込んだ。輝盛が狼狽したところそこへ三木方の放った銃弾が命中、輝盛はあえない最期を遂げてしまった。ここに形勢は逆転し、江馬軍は総崩れとなり、戦いは三木氏の勝利に終わった。
 三木氏と江馬氏の決戦は、三木方が放った一発の銃弾で決した。織田氏と結んでいた三木氏は京都や堺の文化に接し、鉄砲を使用した近代戦術を採用していた。一方、武田氏に誼みを通じていた江馬氏は、伝統的戦術をもって戦った。いいかえれば、勝敗は新文化に対する感受性によって決定したともいえよう。
 強敵江馬氏を倒したのちは、三木氏の飛騨平定に抵抗する者はいなかった。逆に敵は内部にいた。翌天正十一年、自綱は人を遣わして実弟で鍋山城主の鍋山豊後守顕綱を殺害させ、二男秀綱をその嗣としている。殺害の原因は、家中における主導権争いがあった結果とみられる。顕綱を討った自綱はただちに広瀬氏と兵を合せて、牛丸綱親を討伐した。これは、牛丸氏が鍋山顕綱と通じていたため攻め滅ぼしたのだという。同年、自綱はともに牛丸氏を討った広瀬氏を殺害して広瀬城を攻め取り、松倉城に秀綱を置いて、みずからは広瀬城に入った。また、三男基頼を小島時光の養子とした。ここに白川郷の僻地に割拠する内ケ島氏を除けば、飛騨はまったく自綱の手に帰し、三木氏は念願の飛騨統一を完成したのであった。
 自綱は家督と松倉城を秀綱に譲り、自分は広瀬城に住して永年の戦塵を忘れて風雅を楽しんだ。文字通り自綱は得意絶頂の時代を過ごしたが、それも長くは続かなかった。自綱は信長の死後、急速に勢力を拡大した豊臣秀吉の実力評価を誤り、天正十三年(1585)、秀吉に対抗した佐々成政と連合して秀吉に敵対したのである。

金森氏の飛騨侵攻、三木氏の没落

 秀吉は越前大野の金森長近・可重父子に三木自綱の討伐を命じた。天正十三年(1585)八月、金森軍は越前大野を出立し、石徹白(いとしろ)を経て長近は尾上郷から、可重は郡上長滝より野々俣口からと二手に分かれて白川郷へ討ち入った。このとき、白川郷の領主内ケ島氏理は越中へ出陣中であったが、その部将で牧戸城主の尾上備前守が頑強な抵抗を示した。金森勢は苦戦をしいられたが、牧戸城を落し、ふたたび兵を二分して長近軍は北へまわり、小鷹利城を攻め落とし、ついで小島城、蛤城を攻略して三木自綱の立て籠る広瀬城を落した。このとき、自綱はどういうわけか一命を助けられ、翌々天正十五年(1587)に京都で没した。
 自綱を降した長近は大八賀郷の鍋山城へ向ったが、守将の三木季綱は戦わずして城を放棄し、三木方の主城である松倉城を守る兄秀綱と合流した。一方、可重軍は、南方から川上郷を北上しようとしたが、龍ケ峰の険において抵抗を受け、郡上の和良郷から馬瀬郷を経て下原へ向った。そしてそこから益田川をさかのぼり萩原桜洞城を落し、阿多野郷を経て鍋山城へ軍を進め、長近の軍と合流した。
 三木氏最後の拠点となった松倉城では、三木秀綱と弟の季綱らが金森勢を待ち受けていた。松倉城は、当時の飛騨では珍しい石垣をめぐらした要害堅固な山城であった。さすがに、簡単には落ちず激戦が展開された。なかでも、三木方の畑六郎左衛門安高と可重の部下山蔵縫殿助の一騎討ちは有名で、軍記物語にも取り上げられ語り継がれている。松倉城の三木勢は金森軍の攻撃をよく凌いだが、援軍もなく、やがて内応者が出た。金森軍は内応者の手引きで夜襲をかけ城は落ちた。秀綱は奥方をともなって城を脱出し、信州まで落ち延びようと梓川を下ったが、その途中、土民らに襲われあえない最期を遂げた。秀綱らは三河の徳川家康のもとに身を寄せ、再起を図るすもりであったろうといわれている。しかしそれも空しく、飛騨の戦国時代に威を振るった三木氏は滅亡した。
 『寛政重修諸家譜』には、自綱の子という近綱の系が載せられている。「寛政譜」によれば、自綱が飛騨を失ったのち、近綱は大坂の陣のとき水野忠清隊に属して奮戦、戦後知行五百石が与えられたのだという。のちに二百石を加えて七百石とし、子孫は徳川家旗本として続いた。・2006年05月15日
・右家紋は後裔と称する旗本三木家の「丸に剣花菱」

姉小路氏の情報   →三木氏ダイジェスト

参考資料:下呂町誌/萩原町誌/高山市史/飛騨史の研究/岐阜県史 ほか】

・お奨めサイト…桜洞郷土史 (武日のHP)

■参考略系図
・各自治体史の資料編などから作成した。  


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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
そのすべての家紋画像をご覧ください!

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
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奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏
を探究しませんか?

日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

篠山の山城に登る

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨備前/備中/美作鎮西常陸

2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
幕末志士の家紋
龍馬の紋
これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 由来にリンク

わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
家紋を探る
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系譜から探る姓氏から探る家紋の分布から探る家紋探索は先祖探しから源平藤橘の家紋から探る
篠山の歴史を歩く

約12万あるといわれる日本の名字、 その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
ベスト10
家紋イメージ

日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。 それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
神紋と社家
家紋イメージ

篠山五十三次
丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
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