桑山氏
桔 梗
(藤原氏秀郷流結城氏後裔)
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安達郡鍬山より出た鍬山氏が、神護景雲三年三月紀に「信夫郡人外従八位下吉禰侯足山足等七人、賜姓、上毛野鍬山公」と見える。戦国期に出た桑山氏がある。一説に「桑山もと鍬山に作る」とある。もしそうならば前記鍬山公の後裔ではなかろうか。しかし、家譜には「結城朝光四代孫宗広の三男親治、初めて桑山を称す」とある。以後、累代海東郡桑山庄を領したという。親治より三代に貞久、さらに七代の孫を以則という。
以則の子(定久の子ともいう)が重晴で尾張の出身と伝えられ。『竹生島奉加帳』にその名がみえ、秀吉の長浜時代の家臣であったことは間違いない。重晴は初め重勝とも称した。一時、丹羽長秀の与力になっていたという説もある。
桑山氏の家紋は「桔梗」である、結城氏の子孫ということであれば「巴」のはずだが、美濃守護土岐家の影響で「桔梗」紋になったらしい。
重晴は賤ケ岳の戦いで、城塞を固守して佐久間盛政の猛攻には、一見従属するかのごとく見せかけて時をかせぎ、在陣を続けてついに秀吉の来援を得た。この頃秀吉の弟・秀長に仕えて、但馬国竹田一万石の城主となった。翌々年には二万石を加増され、紀伊和歌山城主となった。根来攻めで戦功をあげたことによるといわれる。天正十九年(1591)、秀長が郡山に没したのち、大和大納言家は断絶、秀吉に直仕した。
文禄三年(1594)春には、伏見城の築造工事を分担した。これよりさき、長男一重は天正十年に死去しており、重晴は慶長元年(1596)孫の一晴に封地を譲与して隠居した。しかしなお、和泉谷川に一万六千石を与えられ、秀吉の御トギ衆となる。秀吉没後は、遺物十五枚を拝領している。
次男元晴は、秀長没後、秀保に仕え、文禄の役では甥の一晴とともに朝鮮に渡海し、各地で転戦、文禄三年(1594)、秀保が吉野十津川で水死すると秀吉に仕え、大和御所で八千石を領した。関ヶ原の合戦では東軍に属し、戦後、大和御所藩二万六千石を領したが、寛永六年(1629)弟貞晴のとき改易となった。
和歌山四万石を継承した一晴は関ヶ原ののち大和布施に転封され、一万六千石に減封、さらに慶長十一年、大和櫛羅に転封される。そして、天和元年(1681)孫の代に改易された。その年、東叡山法会での非礼を咎められてのことという。
こうして大名としての桑山氏は跡絶えたが、それまでに出た分家が旗本として残った。また、紀州徳川家に仕えた桑山氏のあった。
■参考略系図
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