久下氏
一 番
(皇胤/清和源氏ともいう)
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中世の丹波に勢を振るった久下氏は、舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔(異説もあり)といい、親王の三代目に源満仲の弟武末が養子として入り、その孫基直が開発地の久下を称し、武蔵国久下郷に在住した。
治承四年(1180)の源頼朝旗揚げに際しては、直光・重光父子は最初大庭景親に属したがのちに頼朝に従い、一ノ谷の合戦などに戦功があって、頼朝より伊豆国玉川荘・三河国篠田村・丹波国栗作郷などを与えられたという。なお建久三年(1192)七月、直光は姻戚の熊谷直実と所領の境界を争って、頼朝の前で対決した。そのとき、思うように抗弁のできない直実が、突如その場から出走し出家した事件が『吾妻鏡』に書かれている。
承久の乱(1221)に際しては、久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上った。戦後、かれは武蔵へは帰らず所領の丹波国栗作郷金屋に留まった。以後、久下氏は丹波に住して国人領主に成長してくのである。
●中世の争乱
南北朝の動乱期には、時重をはじめ久下一族は足利尊氏に属して各地に転戦した。とくに建武三年(1336)、尊氏が新田義貞らに敗れて丹波に逃げたとき、および観応二年(1351)、尊氏が弟直義と争い孤立して子義詮と丹波に逃れたとき、時重は尊氏をよく防護した。尊氏が義詮を留めて播磨におもむいた後は、義詮を井原庄岩屋に護ってその難をしのいだ。
尊氏父子の危難を救った功は大きく、時重はもちろんのこと、その子貞重・頼直・幸興ら久下一族は丹波を中心に武蔵・飛騨等に十数か所におよぶ所領を与えられて、丹波国内では荻野氏とならぶ最有力の武士となった。そして、時重・貞重父子の代が久下氏の最盛期でもあった。
明徳の乱(1392)には、当時の丹波守護山名氏清の守護代小林修理亮に属して、丹波国人らとともに将軍方の軍勢と対陣した。しかし、丹波軍が将軍方に寝返ったことで敗戦をまぬがれ、重元は将軍義満から所領を安堵されている。その後も代々の将軍に所領を安堵されたが、戦国時代に至って全く状況は変化した。
明応二年(1496)、畠山氏の内紛に際して将軍義材は一方の政長を援け河内国へ親征した。この戦に、久下政光は将軍に従って河内へ出陣した。ところが、義材の留守中に幕府管領で丹波国守護でもある細川政元がクーデターを決行した。政元は新将軍として義澄を擁立し、義材と政長らを攻めるために大軍を河内に進軍させた。思いがけないクーデタに将軍方は大敗し、政長は自害、義材は降参、政光はやっとのことで逃げることができた。しかし、丹波守護、守護代はもとより、近隣の国人らもすべて敵方となって、まったく孤立化した政光は以後十六年間におよぶ流浪の身となった。
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