小西氏
久留子
(藤原氏秀郷流?)
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戦国時代、和泉堺の豪商出身で、キリシタン大名として有名な小西氏がいた。伝えられる系図によれば、藤原氏秀郷流で、細川澄元に仕えて丹波国守護代をつとめた内藤備前守貞正の弟久清の次忠が、小西氏を称していることがみえる。次忠の子が寿徳・小西隆佐で、隆佐は商人として備前の宇喜多氏に近昵していた。
隆佐の子が行長で、父と同じく備前の宇喜多氏に近昵していたが、のち秀吉にその商才を見込まれ、奏者として登用された。天正十一年(1583)頃には船手として二百石の知行を得ていたが、翌年、讃岐十河城へ兵糧米を輸送して功を立て、翌年、従五位下摂取守に任ぜられた。同十四年、九州征討に先だって枢機に参じ、黒田孝高と小早川隆景の陣所に出張して軍議を行った。
翌年四月、薩摩の平佐城攻めに活躍し、さらに翌年、富山から移った佐々成政の肥後領内で国人一揆が起こるや、加藤清正と協力して一揆軍を鎮圧したことで、秀吉から肥後宇土城十五万石に累増された。同七年末には肥後の志岐某・天草某らの乱があり、これを鎮圧している。
しかし行長の軍功中、最も華々しいのは、文禄・慶長の役におけるもので、文禄の陣には先鋒として、対馬の宗・松浦・有馬・木村・五島など九州屈指の大名を指揮、二万の大軍で釜山浦を攻撃した。その三か月後には早くも平壌に至り、その地に救援の明軍を撃破して平壌を占領している。翌年正月には竜泉に撤退しているものの、慶長二年(1597)には再征して釜山浦を修築、南原・尉山と転戦し、秀吉死後の帰国退却にさいしても、海における朝鮮の名将李舜臣を破って無事九州に帰着している。
同五年、関ヶ原の合戦には西軍の要員として美濃口を防衛したが敗北、捕虜となった。行長は父とともに熱心なクリスチャンであり、洗礼名をドン・アウグスチンという。カソリックでは自殺を厳禁するため、かれは関ヶ原で自刃し得なかったという。三成・安国寺らと京都で処刑された。
■略系図
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