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肝付氏
●対い鶴喰若松/三つ雁金
●伴氏流
 


 大隈半島に勢力を振るった肝付氏は、伴兼行が薩摩に下向したことに始まるという。すなわち、『新編伴氏正統世系図』によれば、伴兼行が冷泉天皇の安和元年(968)に薩摩掾に任ぜられ、翌二年薩摩国に下向し、鹿児島郡神食村に館を建ていわゆる薩摩掾としての事務をとったと伝えられている。曾孫兼貞の代に至って大隈国肝属郡弁済使となり、その子兼俊が高山に移って肝付氏の祖になった。以後、肝付氏の代々は高山の弓張城を居城として勢力を拡大していった。
 一説に、兼行は薩摩国総追捕使となって、鹿児島郡神食村に来って伴掾館を作って住んだともいう。肝付氏が守護職であったとする説があるが、これは、総追捕使の職を混同したものである。いずれにしろ、伴兼行が薩摩掾として薩摩に下ったことが肝付氏のはじめである。
 肝付氏が本姓とする伴氏は、系図によると天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)の子余那足がはじめて伴姓を賜った。そして、余那足の七世の孫が伴兼行であるという。他方、古代豪族大伴氏の後裔伴善男の子孫とする系図もあり、肝付氏が分かれ出た伴氏の出自については諸説があり一定ではない。

肝付氏の勢力拡大

 大隈国肝属郡弁済使となった兼貞は、島津庄開発領主の太宰大監平季基の女を妻にし、男子がなかった季基の後嗣となり島津庄の荘官(荘司)となった。
 太宰大監平季基は、万寿年間(1024〜27)に弟の良宗とともに日向国諸県郡島津の地に来て、無主の荒野を開発して、それを関白頼通に進めた。これが島津荘の始まりで、季基はその後三俣院を領し、神柱神社を創建した。そして、三俣院、島津院、北郷、中郷、南中郷など、三州の大半を領するほどの勢力となった。季基のあとを継いだ兼貞は肝付郡の弁済使として肝付郡の殆どを領有し、また島津荘の荘司として三州に勢力を振るうことになったのである。
 兼貞は長子兼俊に肝付本家を継がせ、次男兼任を萩原に、三男俊貞を安楽に、四男行俊を和泉に、五男兼高を梅北にと、それぞれ所領を分け与えて本家肝付氏の藩塀として配した。兼俊は次男兼綱を北原に、三男兼友を検見崎に、れぞれ所領を分け与えて一家を興させた。
 やがて、平氏を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開くと、諸国の武士たちは頼朝に自己の所領の安堵を求めた。頼朝はこれら武士たちの嘆願を受け入れ、代わりにかれらを御家人として奉公させる義務を負わせた。一方、平氏やそれに従っていた者らの領地を没収し、平氏討伐に功のあった武士たちに恩賞として与えた。その結果、島津氏が幕府御家人として薩摩に入部してくるのである。元暦二年(1185)島津忠久が島津荘下司職に任ぜられ、ついでその子忠経、孫の久経が下司職を世襲した。
 下司職は荘園の治安を取り締まり年貢を取り立てる役人であったが、地頭と同一のものであり忠時は守護職にも任ぜられた。島津荘下司職の島津氏は鎌倉にあって任国に下ることはなかったが、建治元年(1275)異国警固の役に就いた久経がはじめて下国し、以後、島津氏は薩摩の御家人を統率して荘園の経営にも専念するようになった。
 このように鎌倉幕府体制下の守護、地頭が入部してくると、旧制度による国司や荘司(荘官)などとの間に軋轢が生じるようになった。平安時代末期より、弁済使、島津荘の荘官として勢力を拡大してきた肝付氏も動揺を起した。すなわち、大隈守護に補せられた名越氏が肝付氏の所領九十町歩を奪い、肝付氏は談議所に訴え出るという事件が起った。
 訴訟は長年月を要し、肝付兼石、兼藤らが解決に努力したが、名越氏はそれに応ぜず、却って兼藤は名越方の凶刃に倒れるという結果になった。また、惣領と庶子との間に対立が起り、庶子のなかには名越氏に味方するものもあった。時代は、次第に波乱含みな様相を見せつつあった。

南九州の乱世

 兼藤の嫡子兼尚は訴訟事件で鎌倉に在住し、その子の兼隆は幼少であったため、兼藤の二男で日向三俣の領主兼重が兄兼尚の番代として家政をみた。
 このころ、鎌倉幕府は末期的症状を呈し、後醍醐天皇の討幕運動が繰り返されていた。元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まったが、足利尊氏の謀叛によって新政は崩壊、以後、南北朝の争乱となった。この情勢にあたって、肝付兼重は日向高城に拠って南朝方となり、八代の伊東祐広、肥後の菊池武敏・阿蘇氏らと呼応して国富庄に入り、大いに威を振るった。一方、島津氏ははじめ南朝方にあったが、のちに足利尊氏に味方したため、肝付氏と島津氏は対立関係となった。
 尊氏は延元元年(1336)畠山直顕を日向・大隈方面に派遣して肝付氏に対抗させ、それに豊後の佐伯氏、大隈の禰寝氏、日向土持氏らにも協力を求め、さらに島津貞久を帰国させて肝付氏に当たらせた。島津氏は兼重方の姫木城、三俣院山之口の王子城を攻め、ついで、肝付兼隆の拠る加瀬田城を攻撃してこれを落した。畠山直顕は兼重の守る高城に迫ったが、兼重はよく防戦し直顕勢を撃退した。このころより、南朝方優勢に事態は動いたが、延元四年に至って高城は直顕勢によって落され、兼重は高山の本城に入った。その結果、日向における肝付氏の勢力は振るわなくなった。
 その後、兼重は頽勢を挽回するため、鹿児島攻略を策したがならず、大隈地方を転戦したが戦況を覆すことはできず、ついに病を得て死去した。兼重の死は南九州の南朝方にとって少なからぬ損害となったが、やがて、尊氏と直義の兄弟対立によって事態は急展開をみせた。島津氏、畠山氏らが目まぐるしい去就の変転を繰り返し、肝付氏においては兼重のあとを継いだ秋兼が蒲生氏らとともに畠山氏に属するということもあった。
 南北朝の争乱は次第に北朝方の優勢となり、秋兼の子兼氏は畠山氏と結んで自家の安泰を図り、さらに新納実久と結んで島津氏とも誼を通じるようになった。そして、兼氏のあとを継いだ兼元は島津氏の麾下に属し、応永十七年(1410)には島津元久に従って上洛、将軍足利義持に謁見している。

島津氏との抗争

 兼元の子兼忠も島津氏と親密な関係を維持した。兼忠の弟兼政は島津久豊の養子となり頴娃を領して頴娃を称し、二弟兼恒は日向国庄内山田村に封ぜられ、三弟兼長、四弟兼広らもそれぞれ知行を賜った。兼忠は長男の国兼と不和となったため、家督は二男の兼連が継ぎ、三男の兼光は日向国諸県郡大崎城に移住して島津氏に仕えた。
 兼連は島津氏からの覚えもめでたく、弟兼光とともに犬追物の射手もつとめたが、文明十四年(1482)に死去し、幼い兼久が家督を継承した。一族の兼長・兼広らは幼い兼久を侮って島津氏に通じ領内が乱れたため、兼久は志布志の新納忠続を頼って日向飫肥に奔った。兼久を迎え入れた新納忠続は、ただちに兵を発して高山を平定すると兼久を復帰せしめた。
 兼久は文明十七年に、島津武久(忠昌)から加冠を受けて三郎四郎を改めて兼久と称したものだが、永正三年(1506)、島津忠昌は高山城を攻撃してきた。このとき、兼久は志布志の新納忠武の支援を得て、忠昌勢の撃退に成功した。同五年(1508)に至って忠昌は肝付氏・新納氏らの圧力に苦しみ自殺、子の忠治が島津氏の家督を継いだ。忠治の跡は弟の忠隆、さらに忠隆の跡は弟忠兼(のちに勝久)が家督を襲った。永正五年から十六年の間に島津氏の惣領家は四代の代替わりがあったことになる。
 肝付氏と島津氏の対立関係はその間も続き、兼久のあとを継いだ兼興は大永四年(1524)に島津忠吉の守る串良鶴亀城を包囲攻撃し、忠吉を討ち取り鶴亀城を領した。ついで、享禄三年(1530)には鹿屋城も領したという。そして、兼興のつぎの兼続の代になると肝付氏は島津氏を圧倒するほどの勢いを示すようになる。

戦国大名に成長

 兼続は島津忠良(日新)の娘を室に迎え、妹を忠良の子貴久に嫁がせるなどして島津氏との関係を強化した。一方、領内三十九ケ所の城塞を修築し、大姶良の禰寝氏の一族を従え、高山本城から国見山を越えて内之浦に至る道路を修繕し、海路を開くなど大名としての基盤整備に意を用いている。
 兼続は島津氏と友好関係を保ち、島津勝久と忠良が不和となり島津氏は両派に分かれて戦ったとき、禰寝清年・本田薫親・樺山幸久らと島津勝久に会い、忠良と和睦するよに勧めている。交渉は失敗したが、戦国の常としてあるときは島津氏に対抗し、あるときは島津氏に近い立場をとったりしていたことが分かる。かくして、兼続は大隈半島北部を領国化し、肝付氏は戦国大名に成長していった。
 永禄四年(1561)、兼続は島津氏に叛き、廻城を攻撃してこれを収めると一族の治左衛門を守将とした。対する島津貴久は弟の忠将、嫡男義久らとともに廻城を攻撃、兼続は伊地知重興、禰寝重長らに支援を求めた。こうして、肝付氏と島津氏との激戦が展開され、島津忠将は乱戦のなかで討死、弟の戦死を聞いた貴久の奮戦によって兼続らはついに恒吉に退き廻城は陥落した。
 以後、肝付氏と島津氏の抗争は繰り返され、同七年、貴久は子義久を派して兼続の兵を桜島に攻め、同九年には兼続の兵が義久の属城日向櫛間を攻めている。このように、肝付本家は島津氏と毎年のように干矛を交えた。よく島津氏に拮抗した兼続であったが、永禄九年に没し嫡子の良兼が家督を継いだ*
 元亀二年(1571)七月、良兼が没すると弟の兼亮が家督を継いだ。同年十一月、兼亮は伊地知重興・禰寝重良らとともに水軍を派して薩摩鹿児島沿岸を侵し、転じて帖佐竜ケ水を攻めたが、島津方の平田歳宗らに防がれ軍を退いている。翌年二月、島津義久は兵を派して大隅廻・市成を攻め、兼亮は一敗地にまみれた。同年九月、義久は弟の歳久をもって伊地知重興の属城を攻め落とし、ついで北郷時久をもって兼亮の所領泰野を略取した。翌三年、兼亮は水軍をもって大隈小村を攻めたが島津勢に敗れ、盟友であった禰寝重良は島津方に降った。
 肝付氏は禰寝に兵を出し、浜の拵を攻め落とした。対する島津氏は喜入氏らが肝付氏にあたり、ついで、島津歳久、家久らが出撃、さらに義久の命を受けた北郷時久も出陣して、肝付氏を攻撃した。翌天正元年(1573)、肝付氏は大軍を率いて末吉に押し寄せ、両軍は日向・大隈の境にある住吉原において激突した。肝付勢は時久の不意打ちによって、多くの兵を失い松山城に追い込まれた。
『高山郷土誌』では、永禄九年に島津氏の攻撃を受けて城が落ち、城を逃れた良兼は別府原にて戦死。廻城に出陣していた兼続は帰城しようとしたが、落城したことを知ると、浜浦において自害したと伝えている。

肝付氏のその後

 島津義久は肝付兼亮を討たんとして、島津以久(征久)・忠長を派し、自らも指宿へ出陣した。以久らは西俣で肝付氏の軍を破り、同年十二月、兼亮方の大隅国牛根城の安楽兼寛が征久に攻められ、翌年一月牛根城は落城した。ここに至って、天正二年伊地知重興が降り、ついで肝付兼亮も島津義久に帰順した。
 島津氏に降ったものの兼亮は伊東氏に誼を通じており、これを見た兼続未亡人阿南は兼亮を追放して、その弟兼護を立てた。天正五年、島津義久が高原に出陣したとき、兼護も従ったが、積極的に動かなかったため伊東氏に通じたとの疑惑を招いた。兼護は汚名を挽回せんとして、同年十月一族らを率いて飫肥・南郷において伊東氏の軍と戦ったが敗れ、退いて福島に拠った。肝付氏の危難に際して、鎌田政近、島津以久らが救援に過駆けつけ、肝付氏の所領は高山を除いて島津氏に属することになった。
 その後、天正八年に至って島津氏は肝付兼護を薩摩国阿部多に移して、采地十二町を与えた。ここに鎌倉以来、島津氏に対抗する勢力を誇ってきた肝付氏は、独立した領主としての歴史を閉じることになった。その後、肝付宗家は内訌により絶家となったと伝えられている。
 ところで、肝付氏庶流の兼光流は、島津忠良に通じて兼演は帖左、加治木を与えられた。天文十年(1541)以来、兼演らは本田薫親とともに大隅北部に島津離反の軍を起こしたが、天文十八年、島津貴久は伊集院忠朗を派して大隅加治木の兼演を攻めさせた。兼演らは北郷忠相を通じて貴久に降った。同二十三年(1554)貴久の部将祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清らは、貴久に背かんとして兼演の子兼盛を誘ったが、兼盛はこれに応じなかったため、範清らは加治木城を攻めた。これに対して貴久は、子の義久とともに兼盛を応援し範清らの軍を打ち破った。兼盛の子孫は、その後も島津氏に属して薩摩藩士として存続した。・2004年12月14日
・『高山郷土誌』に紹介されている肝付氏の鶴紋。

参考資料:薩摩島津氏=三木 靖/三州諸家史・薩州満家院史/内之浦町史/吾平町誌 ほか】



■参考略系図  
 


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