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加治木氏
●三つ巴*
●大蔵姓/藤原北家流
*「都道府県別姓氏家紋大事典」加治木氏の項に拠った。


 平安時代、大隅国加治木の郡司は大蔵氏が任じていた。数代を経た大夫良長には男子がなく、女子肥喜山女房に婿を迎えた。婿となったのは関白藤原頼忠の三男経平で、寛弘三年(1006)、政争によって加治木に配流されてきた人物であった。一説には、良長の死後、後家となった妻の肥喜山女房が加治木の郡司職にあった。そこへ、経平が配流されてきて警固にあたり、やがて夫婦関係を結び一子経頼が生まれたという。
 『加治木系図』は、経平を初代とし、肥喜山女房との間に生まれた経頼がそのあとを継ぎ、以後、二十一代久平まで続いた。加治木は薩摩と大隅の要衝の地であり、外国貿易の要港でもあった。そのような加治木を加治木氏は約五百年にわたってを支配し、加治木城を本拠に有力国人に成長していった。
 鎌倉時代はじめの建久九年(1198)、大隅の国方御家人として税所篤用、執行清俊、禰寝郡司らとともに加治木郡司吉平らが知られる。吉平は系図によれば八代親平と同一人物で、この親平のとき島津忠久が大隅・薩摩・日向三州の守護職として南九州に下向してきた。
 蒙古襲来に際して幕府は、西国の御家人に対して博多の石築地役を命じたが、加治木郡司氏平、一族の木田・別府・吉原氏らが石築地役を勤めたことが知られる。また、元寇の役後の論功行賞において、加治木一族の吉原俊平が恩賞の地を与えられており、加治木一族が元寇に活躍したことがうかがわれる。
 元寇の役は、幕府の屋台骨を根底からゆるがすものとなった。幕府は役に活躍した御家人たちへの恩賞に苦慮し、御家人たちも経済的急迫から幕府への信頼を失っていった。元寇が鎌倉幕府滅亡の要因といわれる理由は、ここにあったのである。

中世の加治木氏

 やがて元弘の乱で幕府が滅亡し、後醍醐天皇の親政による建武の新政が開かれた。しかし、足利尊氏の謀叛によって新政は崩壊、時代は南北朝の動乱へと動いた。九州も南北両朝の争いが展開され、加治木氏は武家方に属していた。やがて、尊氏と弟直義との不和から観応の擾乱が起こると、南九州では直義方の畠山直顕と尊氏=幕府方の島津氏とに分かれて対立が生じた。この混乱のなかで、加治木一族も二派に分裂し、惣領の政平は吉原・木田氏らとともに直顕方に属し、政平の弟富平は島津方に味方した。南北朝時代の一特徴である惣領家と庶子家の争いが、加治木氏においても生じていたのであった。
 その後、九州は征西将軍宮懐良親王を奉じる菊池武光の活躍で南朝勢力が伸長し、ついに正平十六年(1547)太宰府を抑え、同二十年に懐良親王を首班とする征西府が成立した。以後、二十余年にわたって征西府の全盛時代が現出した。九州南朝方の隆盛をみた幕府は、応安四年(1371)、今川了俊を九州探題に任命した。了俊は弟の仲秋・嫡子の義範らを従えて九州に下向し、南朝方攻略に着手した。
 了俊の政略、戦略によって南朝方は次第に追い詰められ、応安五年(1372)には肥後菊池城へ退去していった。永和元年(1375)、了俊は菊池氏の本城を攻略するため肥後に進攻、水島に陣を布くと島津氏久・大友親世・少弐冬資の九州三人衆にも来陣を求めた。大友と島津はただちに水島に参じたが、少弐冬資は動かなかったため、島津氏が骨をおって冬資の参陣がなった。ところが、冬資の進退に疑惑を抱いた了俊は、陣中の酒宴の席で冬資を殺害してしまった。
 これに怒った島津氏久は陣をはらって帰国すると、以後、了俊への対立姿勢を貫いた。了俊は末子満範を日・薩・隅の大将として派遣し、島津氏に対峙させた。さらに、日・薩・隅の諸氏に協力を求め、加治木氏平にも書状が下されている。かくして、了俊と島津氏の対立が続き、反島津六十一領主の一揆が結成された。この一揆のなかに加治木氏の名は見えず、おそらく、加治木氏は島津氏に与していたようだ。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなったが、当時の加治木氏の動静は不明であり、以後、室町時代における動向も史料からうかがうことはできない。

加治木氏の没落

 やがて、戦国時代はじめ、加治木氏は島津豊州家季久の三男満久を養子に迎えていることが系図から知られる。満久のあとを継いだ加治木大和守久平は、明応四年(1495)六月、島津氏に叛いて帖佐城を攻撃した。加治木氏の帖佐乱入に対して、高尾城主の川上越前守は、加治木勢の攻撃をよく防戦した。この事態に島津宗家の忠昌は、みずから兵を率いて高尾城救援に出陣、久平は兵をまとめると加治木に引き上げた。
 翌五年、忠昌は加治木を攻め、敗れた久平は薩摩国阿多に移され、加治木氏は没落した。・2006年12月28日

参考資料:加治木郷土誌/さつまの姓氏 ほか】


■参考略系図
・『加治木郷土誌』に掲載された系図から作成。  
  


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