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革嶋氏
●丸の内五本骨扇に月
●清和源氏佐竹氏流  
 


 革嶋氏は山城国葛野郡川島庄を本貫とする国人領主である。同氏伝来の系図によれば、清和源氏佐竹昌義の五男義季に始まるとなっている。讒言にあって頼朝に所領召し上げの処分を受けた義季は、関白近衛基通の縁故を頼って川島庄に来たって蟄居したという。
 当時、川島庄は南北に分かれていて、北庄は山科家領で、南庄が近衛家領であった。二代義安のとき近衛家から南庄の下司職に補任されて土着、北庄に平姓川島氏がいたことから革嶋氏を称したという。しかし、正嘉二年(1258)の供田注進状によれば、下司職は曽我部氏女となっており、家伝をそのままに受取ることはできない。

革島氏の台頭

 革嶋氏の存在が確かな史料に裏付けられるのは、正和元年(1312)、義安から七代目の憲安のときであった。すなわち、亀寿丸(憲安の幼名)を革島南庄の下司職に任じる近衛家の御教書が出され、それを受けた領家の下文である。かくして、革島氏は鎌倉末期において、西岡一帯を灌漑する桂川用水の開削に重要な役割を果たした。
 憲安の子幸政のとき南北朝の争乱に遭遇、幸政は逸早く足利尊氏に属して戦功をたて、建武三年(1336)、革島南庄の地頭職および領家職半分を宛行われた。同時に西岡中脈被官と呼ばれる幕府御家人に取り立てられ、それを根拠に強い荘園支配を行うようになった。
 ここに革嶋氏は南庄下司職という近衛家の一庄官という地位から、革島庄の地頭職となり、幕府直属の御家人としての地位に飛躍したのであった。以後、足利氏に属して各地を転戦、景安は観応の擾乱に際して尊氏方として活躍、尊氏から感状を受けたことが系図に記されている。
 革島庄の地頭職を相伝した革島氏は、貞安の代になると隣庄の東寺領上野庄の代官職を請負い、洪水による荒廃を復興するなどの活躍を示している。そして、千代原用水・川島用水・今井溝など運河の管理権をもち、親宣・泰宣の代には、下津林・上野・寺戸から丹波国多能村に至る広範な地域の田畠を買得集積し、地主的性格をもった富有な山城国人に成長したのである。
 一方、時代は応仁・文明の乱(1467〜1477)を経て、戦国乱世となっていった。そのような時代の流れのなかで、長享元年(1487)、泰宣は将軍足利義尚に従って近江国鈎に出陣し、泰宣の子就宣は、享禄四年(1531)、摂津国神尾に出陣して戦死した。革嶋氏も時代の荒波に翻弄されざるをえなかったのである。

乱世を生き抜く

 十六世紀になると、幕府の権威は地に落ち、管領細川氏も二流に分かれて対立、抗争を繰り返していた。全国各地には下剋上の嵐が吹き荒れ、戦国小大名たちが互いに覇権を争っていた。その多難な時代の天文三年(1534)に、就宣の嫡男一宣が泰宣から譲りを受けて革嶋氏の家督となった。余談ながら、天文三年は尾張において織田信長が生まれた年でもあった。
 やがて、畿内では讃岐細川氏の被官であった三好氏が台頭、長慶は幕政を壟断するにいたった。永禄元年(1558)、長慶の専横によって将軍足利義輝は近江朽木に逃れたが、このとき、一宣の子秀存が従っている。その後、義輝は京都に帰ったが、三好一党の横暴はおさまらず、ついに永禄八年、三好三人衆は義輝を殺害するという挙に出た。このとき、革嶋氏ら幕府寄りの山城の御家人たちは、三好一党の岩成友通のために所領を没収されてしまった。一宣らは丹波国栗田庄に逃れ、代わって鶏冠井(かいで)氏が入部して革島庄を知行した。
 永禄十一年、織田信長が足利義昭を奉じて入京したことが革嶋氏に幸いし、一宣は織田氏に通じ、三好方の鶏冠井氏を討って革島庄を回復、信長より本領を安堵された。以後、革島氏は信長に属して、元亀元年(1570)、朝倉攻めに際して水軍を率いて出陣、越前に攻め込み戦功をたてた。その功に対して一宣は、信長から革嶋家の旧領をはじめ、月読社領分、北庄などを所領として認められた。
 天正元年(1573)七月、足利義昭を宇治槇島城に滅ぼした信長は、西岡一帯の地を細川藤孝に与えた。勝龍寺城に入った藤孝は革島氏ら西岡の諸領主に所領の安堵を行った。革嶋秀存は相伝領地のほか、革島南北庄一職、東寺分を除く上野・千代原両村を加増され、その所領は上桂にまで及ぶようになった。
 かくして、秀存はこれらの地に拠る同族や地侍を家臣として統率し、勝竜寺城主の細川藤孝に随身した。しかし、天正八年(1580)、藤孝の丹後入国には同行せず、先祖以来の西岡に残る道を選んだ。このことが、のちに革嶋氏の運命に大きな影響を与えることになるのである。

 
革嶋氏を辿る
革嶋氏が鎌倉時代より支配した山城国葛野郡革嶋南荘は、現在の京都市西京区川島にあたる。革島氏の故地は阪急電車桂駅の南西に位置し、界隈にはゆかりの社寺が残されているが、事蹟や城跡などはほとんど忘れさられているようだ。

・右:革嶋一宣が建立したという浄土宗の寺知足山冷聲院の境内には、革嶋氏の紋「五本骨扇に月」が見られる。
・左:革嶋氏が崇敬したという革嶋春日神社。
   


近世に続く

 天正十年六月二日、明智光秀の謀叛による本能寺の変が起り織田信長が死去した。この一大事件が起ると、備中において毛利氏と対陣していた羽柴秀吉が軍勢を引き返し、京都山崎において明智光秀軍と激戦を展開した。世にいわれる山崎の合戦で、兵力に劣る光秀方の敗北となった。このとき、革嶋秀存は明智光秀に味方して伊勢に下り、そこで病死した。革嶋氏の家督は弟の忠宣が継いだが、光秀に味方したことが災いして、豊臣秀吉から所領没収の処分を受けた。
 忠宣は所領回復を願って、秀吉の小田原の陣、文禄の朝鮮出兵などに従ったが、ついに望みはかなわず牢浪の身となった。ここに革嶋氏は没落の運命となったが、江戸幕府体制がなると郷士として再出発した。しかも、かつての国人領主としての格式を保持し、鎌倉以来の伝来の屋敷に居を構え、近世川嶋村において別格の存在として続くことになった。その後、福山水野家から扶持を受けたが、やがてその関係も精算している。
 以後、武家への仕官は行わず、同村を家領とする鷹司家に奉仕し、所領の十分の一にあたる六十石前後の年貢納入の責任を負った。逆算すると革嶋氏の所領は六百石になり、中級武家に相当する分限を有していたことが知られる。
 革嶋家には鎌倉以来、中世、近世を通じた文書が伝来し、全国に例をみない文書群を形成している。その文書群は、一つの家の成り立ちから近世に至る一貫した歴史を語る文書として、貴重な史料となっている。・2006年09月12日

参考資料:革嶋家文書/展望日本の歴史-革嶋氏の所領と乙訓郡一揆- ほか】


■参考略系図
 
  


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