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飯富氏
月 星
(清和源氏)


 飯富は、そもそもは「飫富」と書き「オブ」と読み、甲斐源氏逸見光長の子が飯富源内長能と名乗ったことから始まると言われている。また、清和源氏満快流の氏とする説があり、それによれば源太宗季が所領の上総国望陀郡飯富荘に住して飯富を称したともいう。いずれにしろ清和源氏の流れを汲み、代々武田家の重臣であったことは間違いない。そして、飫富よりも飯富と書かれることが多い。
 鎌倉時代の『吾妻鏡』によれば、元暦二年(1185)六月五日の条に、「季貞の子源太宗季(のち逸見冠者光長の猶子となり宗長とあらたむ)とあり、宗季は矢作りが上手く、御家人に登用される。また頼朝の奥州藤原氏征伐のときに宗季が出陣している。さらに、『甲斐国志』によれば、宗長が逸見冠者光長の猶子となったことから、巨摩郡飯富郷を領し、郷名にちなんで飯富と称したことに始まると記されている。
 戦国時代の永正十二年(1515)、「飯富道悦、源四が討ち死にした」と見える。そして、道悦の子(孫ともいう)が、武田信虎・信玄の二代に仕えた虎昌である。余談ながら、巨摩郡亀沢(現敷島町亀沢)の天沢寺が飯富氏歴代の菩提寺である。

甲軍の赤備え

 武田軍団のなかに、旗指物、旌旗、鐙など馬具も朱色に統一し、武者の甲冑、具足、刀の鞘、鑓、弓矢、袋物まで朱一色に塗りつぶした一団があった。これを「甲軍の赤備え」と称され勇名を馳せた。この赤備えを編成したのが、飯富兵部少輔虎昌であった。
 天文五年(1536)、武田信虎は信州佐久へ軍を進め、佐久郡の豪族大井貞隆、平賀源心らを攻撃した。しかし、大雪に見舞われ両軍ともに戦いは難渋した。とくに、武田軍は籠城方に比べて野外にあることから難渋は一入であった。ついに信虎は城攻めをあきらめ、兵を甲斐に帰すことに決したのである。
 その殿をうけたまわったのが初陣の晴信で、これに従っていたのが飯富兵部少輔の赤備え軍団であった。このとき、晴信と飯富兵部少輔とは兵を引返して、油断していた平賀源心の守る海ノ口城を攻撃し、これを落すことに成功したのであった。この功に対して、信虎は晴信をほめることはせず逆に「抜けがけの巧妙は武田の恥じである」と叱責を加えたという。当然、飯富兵部少輔も信虎の勘気にふれたことはいうまでもない。
 ついで、同七年、信濃の小笠原長時・諏訪頼重らの信濃連合軍が甲州へ攻め込み、武田軍は韮崎においてこれを迎え撃った。このとき、飯富兵部少輔の率いる赤備え軍団が第一陣をつとめ、以下、甘利隊、小山田隊、板垣隊らが続き、信濃連合軍を追い散らした。合戦は六時間以上にわたって続き、ついに信濃軍は二千七百余りの戦死者を出して撤退していった。翌八年にも信濃佐久への出陣に従い、北信の豪族村上義清の居城である葛山城まで攻め入り村上軍と戦っている。

功臣と叛臣との間

 天文十年(1541)信虎と晴信の確執の際、板垣・甘利らと共に信玄擁立派の中心的人物になりクーデターを成功に導いた。晴信の長子、義信が誕生するとその傅役となり、虎昌が晴信からあつい信頼を得ていたことがうかがわれる。天文十七年(1548)、武田晴信は村上義清と上田原で戦い敗れ、虎昌は武田氏の前線基地となった佐久の内山城に駐留した。これに対して村上勢は虎昌の守る内山城に攻め寄せたが、虎昌率いる八百の兵に翻弄され退散している。
 永禄八年(1565)信玄の嫡子で、今川氏から妻を迎えている義信が謀反を企てた。義信は今川義元が桶狭間で敗れて以後、落ち目になった今川家を見限るべきではないという、当時の弱肉強食の世界では生きていけないようなことを言い出したのである。そのような甘い考えに信玄が応じるはずもない。
 義信は父・信玄への不満を募らせ、傅役虎昌に相談するが、虎昌は武田家の行く末は義信では危ないと判断せざるを得なかったのだろう。虎昌は、弟、飯富源四郎に、義信のクーデター計画の話が漏れるように画策する。結果、クーデターは不発に終わり信義は幽閉され、罪を一身に負った虎昌は同年八月に自刃した。
 巨摩郡飯富村の江戸初期の浪人古屋昌光は虎昌五世の子孫で、虎昌自刃のとき四歳の遺子坊麻呂を知人がかくまい、京都三条家で養って古屋昌時と名のった。のち飯富村に土着して子孫は古屋姓として続いた。中富町には兵部平など、飯富氏に関係した土地の名が現在でも残っている。


■参考略系図
 


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