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板垣氏
花 菱
(清和源氏武田氏族)


 板垣氏は系図をたどれば、武田の支族になる。甲斐国山梨郡板垣(今の里垣)より起こった。『尊卑分脈』をみると「武田信義−兼信(板垣三郎)−四郎頼時、弟六郎頼重−孫三郎頼兼−彦三郎行頼−弥三郎長頼」と出ている。現在の甲府市にあたる一条荘に領地を持ち、代々武田氏に仕えた。
 戦国時代になると武田信重に仕えた板垣三郎左衛門、信昌に仕えた弥次郎兼光らが知られ、それぞれ武勇の誉れが高かったという。そして信昌、信縄に仕えた善満は、延徳二年(1490)、武田氏が北条早雲とはじめて戦かった合戦で戦死している。この善満の子に生まれたのが、信虎、晴信(信玄)に仕えて数々の功をあげた板垣駿河守信方で、信方は父善満が戦死したころに生まれたと推定されている。信方は『甲陽軍鑑』などに信形と記されているが、武田八幡宮などに残された棟札から「信方」が正しい名乗りと考えられる。

板垣信方の活躍

 武田氏が守護職をつとめた甲斐国は、信玄の祖父信縄の頃までは国内乱脈をきわめ、家中も内訌が絶えなかった。守護代跡部一族が甲斐を制していた時代もあったのである。そのような甲斐を統一したのが武田信虎であったが、大永元年(1521)最悪の危機に直面することになる。すなわち、駿河の今川氏親が部将の福島正成に一万五千の兵を与えて、甲斐に乱入させたのである。このとき、信方は信虎の参謀として一千余騎の武田騎馬軍団を率いて福島勢を迎え撃ち、乱戦のすえに敵兵五百人ほどを討ち取る活躍をみせた。
 この合戦の最中、府中において信虎の嫡子「勝千代(のちの晴信)」が誕生した。御曹子誕生の報に武田軍はわき上がり、今川軍を一気に壊滅させようと信方、馬場信春らが先鋒となって上条河原で激突した。勝敗は決せず、両軍ともに陣を引いたその夜、武田軍は福島勢に夜襲をかけて、大将福島正成をはじめ名だたる将領を討ち取る大勝利をえた。戦後、信虎はこの戦いにおける武功の筆頭は板垣信方とし、合戦の最中に生まれた嫡子勝千代の傅役を命じたのである。信方は信虎とほぼ同年代であったようで、勝千代は信方を第二の父親として慕い、何事も信方に相談し信方もそれによく応えたといわれる。
 信虎は甲斐国内の統一を実現すると、武田氏の勢力を国外にも及ぼすようになった。いわゆる守護大名から戦国大名へ飛躍し、近隣への侵略戦争を行うようになったのである。まず、信虎は山内、扇谷上杉氏の攻勢を受ける相模の新興勢力である北条氏綱を掩護する名目で関東に出陣した。一方で、駿河の今川氏に対しては平和外交を展開し、その任務を担ったのが信方であった。
 大永六年、今川氏親が死去し、あとを長男の氏輝が家督を継いだ。氏親は甲斐に乱入するなど武田を敵としていたが、氏輝の時代になると武田、今川双方に歩み寄りがみられ、ついに大永七年両氏の間に和睦が成立した。信虎は和睦に奔走した信方の功に対して駿河守に任じ、以後、今川方とのあらゆる交渉役としたのである。このように信方は甲府にいながらにして駿河今川氏の情勢を探ったが、その手足となって今川氏の情報を収集することに務めたのが、山本勘介であったという。

晴信の傅役となる

 こうして、信方は信虎の信任もあつく、武田家の世継ぎの傅役として、武田家中において重要な位置を占めるようになっていった。ところが、天文二年(1533)、信虎が勝千代の嫁に扇谷上杉氏の娘を迎えると言い出したことに信方は反対し、主君信虎とはじめて対立した。ついで天文四年、駿河の今川氏輝が武田との和睦を破り、小田原の北条氏綱と手を結んで甲斐に乱入したのである。
 万沢口から乱入した今川勢は信虎が迎え撃ち撃退したが、御殿場口から攻め込んだ後北条勢を迎え撃った武田軍は激戦を展開し、都留郡全体が戦火に巻き込まれた。なんとか後北条軍を撃退することができたが、武田軍は信虎の弟勝沼信友、小山田弾正らの部将をはじめ数百人が戦死するという結果となった。
 戦いの責任は、今川氏との外交交渉を担わされていた信方にかかってきた。氏輝の裏切りに激怒した信虎は、弔い合戦を企図し信方に駿河への侵攻を命じたのである。いいかえれば、敵中に飛び込んで玉砕せよという苛酷なものであった。出陣した板垣勢は、富士川を下って駿河の興津に攻め込み、ついで駿府へ迫ったが、今川軍の反撃にあって後退、山中に逃げ込んで機会をうかがいつつ冬をこした。
 そして天文五年の春、今川氏の当主である氏輝が二十四歳の若さで病死したのである。その死に関しては諸説がなされ、いまだにその死は謎とされている。一説に、進退に窮した板垣信方が配下の山本勘介が率いる忍者を使って毒殺したともいうが、その真偽は不明である。いずれにしろ、氏輝が死去したことで信虎の勘気も解消され、信方の率いる板垣勢は甲斐への帰国を許されたのであった。

晴信を家督に据える

 信虎は信濃、相模、武蔵、上野への侵略を行い、戦いを繰り返した。そのころ、甲斐国内では天変地異が相次ぎ、甲斐は人的にも財政的にも最も疲弊していた。また、信虎は家臣に対して依怙ひいきがあり、国内の疲弊をみた譜代の家臣たちの諌言も聞かず、返って追放処分にするということもあった。このように、次第に暴虐性をあらわにしてきた信虎に対して、甲斐の人心は信虎から離れていき始めた。加えて、信虎は嫡男の晴信よりも二男の信繁を愛し、晴信につらくあたるようになっていた。これらの事態をみた信方は不安と不満を募らせ、晴信と協力して信虎排除のクーデターを企図するようになった。そして、天文十年(1541)諏訪から凱旋してきた信虎に、甘言をもって婿である駿河の今川義元を訪ね、休養をすることを勧めたのである。信虎も罠とは知らず、疑いもせず駿河に出立していった。
 信方らは信虎の一行が甲斐から駿河に入っていったことを見計らって国境を閉じ、信虎追放のクーデターを成功させたのであった。この背景には、猛将である信虎が当主でいるよりも、若年で義弟にあたる晴信が甲斐の当主になる方が与し易いとみた義元の協力もあったとみられる。以後、信方と晴信は信頼関係をより一層深め、甲斐の興亡は晴信と信方の二人が背負うこととなった。このとき以来、晴信は板垣を甲斐第一の将とすることになる。
 かくして、晴信を当主とした信方には大きな野望があったようだ。それは晴信を甲斐守護職にまつりあげて、信濃の攻略作戦を展開し、信濃全土をみずからの手中におさめ戦国大名として自立しようというものであった。晴信が武田氏の家督となった翌十一年、信方は諏訪に出陣して、諏訪氏を降すとこれを甲斐において自刃させ、諏訪全土を掌握すると晴信から名代として上原城の城将となり、諏訪一帯の治安の責任者となった。
 翌天文十二年になると、武田軍は信濃佐久攻めを開始した。そして十七年、笠原氏の守る志賀城を攻囲し、救援に駆けつけた上杉軍を信方率いる板垣勢が待ち伏せをして悉く討ち取ると、その首を志賀城に見せつける残虐ぶりを示した。それを見た笠原勢は城門を開いて撃って出たが、ことごとく武田軍に討たれて全員玉砕し城は落ちた。捕えられた女・子供らは競売にかけられ、それぞれ府中へ連行されて遊び女、下男下女としてこき使われた話は有名である。
 このように、信方は武田軍の先兵となって信濃攻略に働いたが、その戦いぶりは大量殺戮をともなうものであった。その背景には、信濃勢が越後の長尾方に奔ることへの牽制もあっただろうが、信方の苛酷なやり方は猛反発をかい、やがて信方を憎悪する信濃勢の反撃が展開されることになる。

信方の敗死

 天文十七年(十六年とも)、信玄は信濃の村上義清を討つために上田原合戦へ出陣。板垣は先陣をつとめ、三千五百の兵を率い、義清軍を迎え撃った。義清軍の精気に満ちた攻撃に対し信方はよく戦ったが、村上義清は信玄の本陣にまで迫り、信玄と義清は馬上一騎討ちを行うほどに凄絶な戦いとなった。そして、一時村上軍が退いたとき、板垣は首実験をしたという。そこを義清が再襲し、信方は討たれ武田軍は大敗を喫した。
 ところで、何故、信方は自殺ともいえるような行動をとったのか?この合戦に対して、甲斐国内の大方は反対の立場であり、不穏な動きも一部にはあったようだ。しかし、信方は晴信を擁して強引に出陣し、それらの動きを封じようとした。しかし、戦いは武田方に分が悪く、信方は自分の判断の過ちにより甲斐を滅亡させるきっかけをつくってしまったと速断し、武人らしく敵の刃に死を求めたのだという。
 その後、晴信は上田原に二十日間も留まっていた。敗戦のことは諏訪上原城の守将駒井高白斎のもとに伝えられ、高白斎は今井兵部と相談の上、躑躅ヶ崎館にいる晴信生母の大井夫人に帰陣をとりなしてもらうよう画策した。そして、甲斐国内の安定を確信してから帰国の途についたのである。おそらく、晴信は甲斐本国がどのように動くのかを見ていたのだろう。晴信の撤退をみた村上義清に、追い討ちをかける余力はなく晴信は無事、甲斐に引き上げることができた。
 一説に、晴信が上田原に留まったのは、親とも恃んだ信方が敗戦の責任を一身に背負って討死した土地を離れたくなかったとする説もあるが、それは、どのようなものであろうか。この信方の死によって、武田軍から大量殺戮をともなう戦い振りは少なくなるのである。
 信方の戦死後、信憲が家督を継ぎ諏訪城代をつとめ、二十年には甘利昌忠と連署で二宮造営の勧進状を発するなどしているが、二十一年に罪をこうむって誅殺された。ここに板垣氏は断絶したのである。永禄年間に至って、於曾信安が板垣姓を与えられて同家を再興した。永禄十年(1567)、甲・信・上野の諸将士が信玄に起請文を提出し生島足島神社に納めた「永禄起請文」のなかに信安も見え、元亀三年(1572)には富士御室浅間神社に社領を寄進したことが知られる。武田氏滅亡後、武田武士の多くが徳川氏に属したが、そのなかに信安の名前が見えないことから武田氏の滅亡とともに没落したようだ。

板垣氏余聞

 ところで、明治時代の元勲板垣退助は、板垣氏の後裔であるという。退助ははじめ乾を名乗っていたが、慶応四年三月、東山道総督府参謀にあって甲府城を無血占領した際、姓を板垣に改めた。乾家の系譜によれば、先祖の正信は信方の孫で、武田氏滅亡後、浜松にいた山内一豊の重臣乾彦作の養子となり、以後、代々土佐藩山内家に仕え、退助は正信より十代の子孫だとしている。


■参考略系図
 


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