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伊集院氏
●丸に三つ十字
●島津氏支族
 


 伊集院氏は、薩摩国日置郡伊集院村から出た島津氏の一族である。島津氏二代忠時には八人の男子があり、家督は次男の久経が継ぎ、七男忠経は常陸守を称した。この忠経の四男俊忠が伊集院地頭職を得て、その子図書助久兼が伊集院氏を名乗った。伊集院氏の名があらわれるのは、南北朝時代、伊集院忠国のときである。
 忠国には男女あわせて四十八人の子があり、子弟は領内に配し、子女は有力者に嫁がせて勢力をおおいに伸長した。伊賀倉、日置、麦生田、大重、黒葛原、土橋、飛松、四本、入佐、南郷、松下、丸田氏など、伊集院氏から分かれた庶子家は多い。

伊集院氏の登場

 南北朝時代、島津宗家は武家方に属し、島津一族も宗家に従うものが多かった。ところが、伊集院忠国と和泉忠直は南朝方に味方して宗家と対立した。薩摩半島南部には、鎌倉期以来、桓武平氏村岡流の諸氏が勢力を築いていた。南朝方の三条泰季が指宿に下向し、続いて征西宮懐良親王が谷山に下ってくると、指宿忠篤・谷山隆信・知覧忠世らの平氏一族はこれに味方した。さらに、肝付兼重・禰寝清成、そして伊集院忠国らも加わって南薩摩はこぞって南朝方となった。
 以後、伊集院忠国は南朝方として活躍し、動乱のなかで海運の利を収め、一族繁栄の基礎を築いたのである。日置郡伊集院村を本拠としていた忠国は、興国六年(貞和元年=1345)、南下を開始し南都一乗院領を侵略、幕府は島津貞久に命じて忠国を撃たしめている。
 やがて、肥後に入った征西宮懐良親王は菊池武光の支援を得て、九州探題一色氏、斯波氏を撃退、さらに武家方の少弐氏、大友氏らを討ち、太宰府を押えて征西府を樹立した。以後、九州は懐良親王と菊池武光の活躍で南朝方の全盛期が現出した。  九州に情勢を重く見た幕府は、今川了俊を九州探題に補任して征西府にあたらせた。了俊はその卓抜した手腕をもって太宰府を回復、次第に征西府方を劣勢に追い込んでいった。そして、文中四年(応安八年=1375)、菊池氏を討つため水島に陣を進め、島津氏久、大友親世、少弐冬資ら九州三人衆にも来陣を求めた。ところが、少弐冬資は島津氏久の呼びかけによって参加するという態度であったため、疑念を抱いた了俊は冬資を陣中の宴席において殺害してしまった。これに怒った島津氏久はただちに帰国すると、了俊に反目するようになった。
 このころ、了俊は伊集院久氏に書を送って、その歓心をかっている。しかし、その後の経過をみると、久氏は島津宗家に近い立場をとっていたようだ。すなわち、伊集院忠国の女は島津氏久の室となって元久を生んでおり、元中七年(明徳元年=1390)には伊集院氏領が了俊によって渋谷氏領となっているのである。このようにして、了俊は着々と九州の支配体制を固めながら島津氏を圧迫していった。

島津氏の内訌

 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、応永二年(1395)には今川了俊が探題職を解任されて京都に帰っていった。こうして、九州における南北朝の争乱はまったくやみ、政治情勢は新たな展開をみせるのである。
 南北朝時代、島津氏は総州家師久と奥州家氏久に分かれていたが、今川了俊と対立関係にあった島津氏は両家協力してこれにあたっていた。ところが、了俊が帰京したことで、両家の対立が表面化してきた。とはいえ、応永四年(1397)には、今川氏に協力して島津氏と対抗していた清敷城主渋谷氏を討つため、総州家伊久、奥州家元久が揃って出陣、これに伊集院頼久も参加した。渋谷氏は逃走したため、伊集院頼久が清敷城主となった。
 応永七年、元久と伊久との間が決裂し両者の抗争となると、伊集院頼久は元久に味方した。島津氏の内訌に対して幕府は、元久と伊久を和睦させ、大隅・薩摩・日向三州の守護職を元久に安堵して、奥州家を島津氏の宗家と認めた。その背景には、元久に代わって上洛した頼久が、元久の三州守護補任への工作を行ったことが知られる。頼久の京都滞在中に居城の清敷城は渋谷一族に奪還されたため、元久はこれを奪回するため頼久とともに出陣した。ところが、その陣中で病をえた氏久は鹿児島に兵を返し、治療の甲斐もなくそのまま死去してしまった。
 男子のなかった元久は、総州家から久照を養子に迎えていたが、これを離縁していたため嗣子はなく、頼久は元久の遺言として自分の子初千代丸を後継者に立てようとした。このとき、日向で伊東氏と対峙していた元久の弟久豊は、兄の死を聞くとただちに鹿児島へ帰着すると、頼久らを排除してみずから宗家の家督を継承した。
 これに怒った頼久は伊集院に帰ると、ただちに久豊に叛旗を翻した。当時の頼久は本拠伊集院をはじめ河辺、給黎を領し、叔父の今給黎久俊が知覧を領し、一大勢力を築いていた。そして頼久は、総州家の守久・久世父子と結び、渋谷一族、菱刈氏ら北薩の国人衆、さらに南薩摩の諸勢力も味方につけて久豊と対立した。

島津氏との抗争

 応永二十年、頼久は久豊が菱刈に出陣した留守を衝いて鹿児島を攻め、清水城を焼き払った。久豊は軍を返すと伊集院頼久と原良で激戦を展開、敗れた頼久は自害をしようとした。それをみた蒲生清寛は久豊を諌めて頼久の一命を助け、伊集院に帰った頼久は謹慎の身となった。翌二十一年、久豊に給黎を攻撃された頼久はこれをよく防いだが、肥後勢が久豊に味方したため給黎を放棄して遁走した。
 応永二十四年、川辺松尾城主の酒匂氏が久豊方に通じたため、頼久は今給黎久俊らとともに松尾城を包囲、攻撃した。久豊は新納氏、蒲生氏らを率いて救援に駆けつけ、薙野原において両軍激戦となり、ついに伊集院軍が島津軍を圧倒し久豊の家老蒲生清寛も討死した。そのとき、久豊方の吉田清正が原良合戦において久豊が頼久の一命を救ったことをもちだした。それを聞いた頼久は鹿児島・谷山・給黎の割譲を条件とし、両者の和睦がなった。
 頼久は谷山・給黎に進出し、鹿児島の明け渡しを求めた。しかし、鹿児島は島津氏の本拠であり、久豊はもとより家臣らも絶対に渡せないと、谷山にいる頼久を攻撃してきた。島津軍の攻撃は猛烈で、散々な敗北を喫した頼久は、久豊に降伏すると伊集院に帰っていった。以後、頼久の島津氏に対する抵抗はやんだ。頼久の降伏により、今給黎久俊、別府氏らも久豊に降伏、南薩摩は島津氏の支配下に入った。
 その後、久豊は頼久の女を側室とし、その湯治地に石ヶ谷村を与えるなどして頼久の心を取り結んでいる。かくして、島津宗家の麾下に属した伊集院氏は南方の経営と坊津を拠点とした海外貿易に専心するのである。ところが、宝徳二年(1450)、島津忠国によって伊集院が襲撃され、頼久のあとを継いでいた熙久は敗れて肥後に出奔、伊集院氏は伊集院を失った。

果てしない争乱

 島津氏は久豊の代において、一族、国人衆らの反抗を抑えて、守護領国制を完成させた。しかし、久豊が死去し、そのあとを忠国、ついで立久が継ぐころになると、世の中は戦国争乱の時代となった。国内には国一揆が続発し、島津氏はその対応に忙殺された。さらに、一族内の内訌が生じ、いよいよ国内の争乱は泥沼化していった。文明六年(1474)、立久のあとを継いだ忠昌は、相次ぐ一族の反乱、国人領主との軋轢、さらには、伊東氏、相良氏などの外敵への対応に苦しみ、ついに永正五年(1508)失意のうちに自害してはてた。この忠昌の死をもって、薩摩・大隅地方は本格的な戦国時代に入ったとするのが定説である。
 忠昌の死後、忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)の三兄弟が相次いで当主となったが、いずれも若年で、それを補佐する臣にも恵まれず、島津氏宗家は凋落の一途をたどった。国内の混乱はその極みに達し、後世、島津氏の暗黒時代と呼ばれる時代であった。
 島津勝久は義兄にあたる薩州島津実久を後ろ楯としたが、実久は宗家の家督を望むようになり、勝久は伊作島津忠良を恃み、その嫡男貴久を養子に迎えた。しかし、これで一件落着とはいかず、勝久はふたたび実久と結んで、忠良・貴久父子と対立するようになった。まさに乱が乱を呼び、人心は荒廃を極めていた。
 さて、伊集院宗家の熙久が肥後に奔ったのち、その弟倍久は伊作島津忠良に従って次第に頭角をあらわした。そして、倍久の孫忠朗は忠良を補佐して、大永七年(1527)島津勝久と結ぶ薩州島津実久の伊集院城・谷山城を攻め、天文五年(1536)、実久の家臣町田用久らを伊集院城に攻撃した。
 天文七年、実久は本田氏、肝付氏、禰寝氏らと結んで日向の新納氏を攻撃した。翌八年、忠良は実久の留守を衝いて本拠加世田を奪い、ついで川辺の平山城も攻略した。かくして、加世田・川辺などを失った実久は、北薩の出水地方に逼塞するに至った。

伊集院氏の栄光と挫折

 天文十年、島津忠広・本田薫親・北郷忠相・肝付兼演らが連合して、忠良・貴久方の樺山幸久が守る生別府城を攻撃した。この事態に、伊集院忠朗は貴久の命を受けて樺山氏の救援に出陣した。こうして、天文十七年に至って島津氏は、清水新城の薫親を破り、大隅国日当山を落とし、姫木城に拠った薫親を庄内に走らせた。乱後、貴久は弟忠将を清水城に、伊集院忠朗を姫木城において、島津氏の大隅経略の布石とした。
 天文十八年、加治木城主の肝付兼演が蒲生範清、渋谷一族と謀って兵を挙げたが降伏、翌十九年二月、伊集院にあった貴久は鹿児島に移って宗家の家督となった。以後、島津氏は薩摩・大隅の統一戦を進め、永禄九年(1566)、貴久は嫡男義久に家督を譲って隠居した。かくして、義久を中心に義弘・歳久・家久の四兄弟が結束して三州統一をなした島津家は、九州統一へと駒を進めていくことになる。
 忠朗の孫忠棟(幸侃)は島津義久の老臣となり、天正三年(1575)肝付兼道の日向福島・志布志両城を救援した。同十一年、義久は忠棟を肥後に派遣し、八代の守将として有馬氏救援を計画した。翌十二年、島津家久を大将とする島津軍は有馬勢と連合して龍造寺隆信と戦い、隆信を討ち取る大勝利をえた。ここに島津氏は九州最大の勢力となり、肥後花山に砦を築き、同十三年にはほぼ肥後をおさめることに成功した。
 島津軍は筑後・筑前に兵を進め、忠棟は筑後大友方の岩屋城・宝満城を落城させ立花城に迫った。しかし、天正十五年、豊臣秀吉軍の九州下向で、島津義久は秀吉に屈服した。忠棟は秀長のもとに人質として入り、のち秀吉より寵せられ大隅一郡を与えられ、文禄四年には日向都城八万石余を宛行われた。
 このような忠棟に対する秀吉の厚遇は島津氏を刺激し、忠棟も島津氏からの自立を企図するようになった。伊集院氏の勢力増大を恐れた島津本家の忠恒(家久)は、慶長四年(1559)山城伏見の亭で忠棟(幸侃)を誅殺した。子忠真は父討たるの報に接すると、一門と共に日向都城で反乱の軍を挙げた。この乱は家久が下向し討伐に対ったが鎮定できず、家康の仲介でやっとおさまるほどの勢いをしめした。
 乱は家康の仲介によって和睦がなったが、ふたたび忠真は背いた。家康はふたたび仲介の労をとり、島津氏は忠真に頴娃一万石を宛行うことを約束、ついに忠真は島津氏に降った。しかし、関ヶ原合戦後の慶長七年、忠真は日向国野尻において忠恒によって討ちはたされた。ここにおいて、伊集院氏の嫡流は断絶の憂き目となった。

今給黎流伊集院氏

 ところで、伊集院氏の一流に今給黎久俊系の伊集院氏がある。久俊には三人の男子があり、嫡男の久慶は喜入を領して勝久の老職をつとめた。勝久が忠良・貴久と抗争を繰り返したとき、川上大和守らとともに勝久を諌めたが、返って不興をかい諌死した。久慶の子久延は父の死後、指宿へ浪人したが、姉が喜入島津忠誉の夫人であった縁をたよって喜入島津氏に仕えた。子孫は喜入島津氏の重職として続いた。
 他方、久俊の次男久昌・三男久綱はともに勝久の養子となった貴久に仕えて、ともに重職として島津氏の三州統一戦に活躍した。 ・2005年6月20日

【参考資料:枕崎市史/三州諸家史/国史大辞典 ほか】

●島津氏の家紋─考察


■参考略系図





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