ヘッダイメージ



犬甘氏
石畳*
(大伴氏後裔/古代犬養氏族?)
・羽継原合戦記に平瀬・島党は「石畳」と
 あるのに拠った。


 犬甘氏は大伴氏流と伝え、その本貫を信濃国の国府近くにおいて、国衙侍所に勤仕した武士であったといわれている。
 ところで、『信濃史源考慮』の犬飼(犬甘)氏の項の記事によれば、「犬甘の地は犬飼の字を用いらる。松本城の西十四、五町、蟻ケ崎村に古城跡あり、(中略)昔し犬甘、平瀬一党の人々犬飼八ヶ村並びに木曽川より東岡田組、庄内組の西辺まで領知せしころ築きし城と云ふ。」とみえ、犬甘氏の出自について、安曇犬養氏があり、犀川を隔てて筑摩郡にも犬飼の地があって、辛犬甘といい、帰化族の人らが住んでいたとある。そして、犬甘氏は時平大臣の末裔なりと記し、小笠原古系図には、犬甘、平瀬は島の一党なりと記されている。
 さらに、安曇郡犬飼八ヶ村を領した犬甘氏は安曇連と同じく海神の末孫であったともしている。そして、犬甘の姓は知名から起こったものではなく、犬甘(犬飼、犬養)は掌る職業から発し、犬飼氏が居住したところの村、山、温泉などに犬飼の地名を残したものとしている。
 『御符礼之古書』には、「享徳ニ年(1453)犬甘御射山御符祝五貫六百文、頭役二十貫文、御教書五貫六百文、稲春次郎左衛門義忠、波多大蔵勤仕」とあり、犬甘氏が諏訪大社に奉仕していたことが知られる。--- 室町期、犬甘氏は平瀬氏と常に向背をともにし、永享十二年(1440)四月、「結城合戦」に際しては、小笠原氏に属して出陣し、平瀬、村井、三村、小坂の四家と一団とあんって結番を勤めている。その後、応仁文明の乱を経て、戦乱の時代となると、領地の安全を計るため、信濃守護で信濃最大の大名である小笠原氏の麾下に属するようになった。

戦国時代の犬甘氏

 戦国時代、信濃の隣国武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。
 天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いている。天文十七年(1548)二月。上田原において、村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により四月、村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。ついで六月、小笠原勢が再び討ち入り、さらに七月、三たび討ち入ろうとした。
 四月の討ち入りでは、諏訪郡代板垣信形の館を囲み、開城の交渉に入ろうとしたとき、連合軍の一翼を担っていた仁科道外が戦線を離脱した。これは、仁科氏が諏訪支配を目指したのに対して、長時がその要求を拒んだことに対する腹いせであったという。
 間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。
 翌十八年四月、晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、犬甘、二木一族、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を守ることもかなわず、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。
 天文十九年になって、府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し、安曇群に入り氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らに人数が参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県郡の守りが破られることを恐れ、軍を川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。かくして両軍は野々宮において会戦し、小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。

小笠原氏に節を通す

 しかし、すでに大勢は定まっっていて、長時は開運の見込みがないとして、自害をしようとはかった。これをみて、二木豊後守重高は諌止して、二木氏の築いた中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後、晴信は中洞小屋に攻め寄せたが、落とすことはできず天文二十二年まで、二木一族は長時を守ってよく武田方の攻撃を防いだ。
 ここに至るまで、犬甘大炊助政徳は小笠原長時の家老として忠節を励み、天文十九年(1550)七月、長時が甲斐の武田晴信(信玄)のために林城を逐われたあとも、居城の犬甘城に拠って武田氏に頑強に抵抗した。
 同年十月半ば頃、長時の府中深志回復の挙に、信濃の雄村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、武田方の部将で深志城代の馬場信春は物見のため夜半に苅谷原崎に出馬した。このとき、政徳も長時の軍を出迎えるために十騎ほどで出向いたところ、双方は岡田宿で遭遇した。
 この折、馬場の一隊を村上の援軍と錯覚した政徳は、これに近付いて包囲されるに至った。辛うじて戸口を脱したものの、政徳は深志城からも武田勢が人数を出していたため、居城の犬甘城に帰城することが叶わず、単騎で安曇郡の二木重高の館まで落ち延びた。主を失った犬甘城は、武田軍の攻撃にさらされ、ついに陥落したと伝えている。
 政徳の長男は政信といったが、天正十年(1582)七月中旬、小笠原貞慶が筑摩郡本山で木曽義昌と戦ったとき、討死したため、犬甘氏の家督は弟で政徳の三男の久知が継承した。ちなみに。同年八月三日付けの貞慶安堵状案によれば、久知の本領は安曇郡犬甘・北方・青嶋および筑摩郡蟻ケ崎にわたって所在し、総貫高は九百貫文に達していたことが知られる。
 久知は犬甘家相続以後、貞慶の侍大将として、天正十年八月の日岐城攻め以降、会田、麻績および伊那郡の高遠城攻略と、同十三年(1585)まで小笠原貞慶に従って数多くの戦陣のなかに過ごした。

小笠原家家老として近世へ

 久知は、貞慶のほか、小笠原秀政、同忠真と小笠原氏三代に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊らと小笠原家の城代となり、三職も務めた。秀政時代の『松本家中知行高帳』には、家老筆頭として家中最高の千六百石を給与されていることからも、小笠原氏家中で重きをなしていたことが窺われる。
 久知のあとは久信が継ぎ、大坂の陣には主家小笠原氏に従って出陣している。その後、寛永九年(1622)小笠原氏は播州明石から豊前国小倉十五万石に所替となった。犬甘氏もこれに従って小倉に移り、『小笠原家分限帳』によれば、家中筆頭の二千五百石を領したことがみえる。

●二木氏の家紋─考察



■参考略系図
・「古代氏族系譜集成」「尊卑分脉」などから作成。「古代氏族系譜集成」では、古代氏族と清和源氏とがつながれているが、その真偽のほどは分からない。・2007.3.5
 


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧