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伊万里氏
●三つ星/二つ引両
●嵯峨源氏渡辺流
・伊万里氏の菩提寺には「二つ引両」が伝えられているという。
 


 伊万里氏は、肥前松浦党の一家で、嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融より出ている。融の玄孫が源頼光の四天王の一人渡辺綱で、大江山の鬼退治の主役として知られている。綱が渡辺綱とよばれるのは、摂津の渡辺に住んで、渡辺を称したからである。綱の子が奈古屋次郎太夫授、その子が滝口太夫恭、恭の子が源太判官久といい下松浦党の祖となった。
 久には六男があり、それぞれ、下松浦・上松浦・石志・荒小田・神田・左志に配置され、配された地名をとって名字とし、一族が拡がっていった。久の長男は直といい、六人の男子があった。兄弟ともに鎌倉御家人となり、長男清は御厨執行に補され、志佐・今福・斑島・生月の地頭となった。弟たちは有田・大河野・峯・山代・小値賀を所領とし、子孫が繁栄した。このように分かれた、本家・分家は併せて四十八家で、これを松浦党と称した。
 清の三弟披は、建久三年(1192)、松浦御厨庄を賜った。正治元年(1199)には北条時政の書で、肥前国松浦党、清・披・囲・知に安堵すとある。また、元久二年(1205)、時政の証判で、宇野御厨庄の内伊万里浦ならびに津吉島両所は披の重代相伝の所領であることを証している。披には持・上と養子通頼の三子がいた。
 持は平戸城主となり、上は父披の跡を継いで伊万里浦の福島・楠泊屋・武田平の栗崎・五島・海夫蒲田の綱場片手等を領した。建保八年(1220)、通頼の養女から譲られて保々木紐差・把浦大島等の地頭職となり伊万里城を築いた。以後、子孫相続いて伊万里城に拠った。

肥前争乱と伊万里氏

 元弘の変から建武の新政を経て南北朝の争乱期の当主は尚で、尚の子貞は永和年中、九州探題今川了俊より武備有功の文証を下されている。その子高は永徳四年(1384)九州北朝の敗色が濃くなり、松浦党の解党を迫られ、一党四十余人が連署して離散と所領安堵を願い出ている。当時、松浦上下郡の松浦一族は四十余家で、所領石高は十二万石であった。
 高のあと、満─正─広─仰と続き、仰は勇猛な武人で、時の人々は鬼王殿下と称したという。文明十五年(1483)、伊万里仰は大村胤明、後藤職明、渋江公直らと攻守同盟を結んだ。これは小城の千葉氏の侵攻に対するものであったようだ。仰の孫が直は兵部少輔治を称し、のちに家利と改め伊万里氏を名乗った。家利の時代は、戦国時代の真っただ中であった。
 永禄年中(1560〜69)、少弐氏を滅ぼした龍造寺隆信が台頭し、隆信は肥前の諸勢力を征圧して勢力を拡大し、やがて肥前南部高来郡の有馬氏を攻めた。天正元年(1572)には松浦地方に侵攻し、松浦党の面々を降した。翌年には、武雄城主後藤貴明、須古城主平井経治を攻めた。このとき、家利は将兵を引き連れて武雄の後藤氏に加勢した。しかし、天正八年(1580)、肥前国は龍造寺隆信によって制圧された。
 翌年六月、隆信は家利の拠る伊万里城を攻撃してきた。家利は要害を頼みに応戦したが及ばず、家老、前田・立川、大川内氏と二百余人の将兵とともに城を去り、後藤貴明の領地宮野に逃れた。家利の妻は後藤貴明の女であったことから、貴明は家利を迎え入れ、大野・宮野・神六の地三百石をかれに与えた。家利は大野の地で、元和九年(1623)八月、七十三歳で没した。
 家利には男子が無かったため、甥にあたる静を養嗣子として伊万里家を継がせた。静は武雄領主茂綱に仕え、子孫は連綿として相継いだ。・2005年6月17日

参考資料:松浦伊万里家の家譜】

●松浦氏の家紋─考察


■参考略系図


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