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今井氏
三つ巴*
(藤原氏秀郷流)
*不詳。藤原氏秀郷流の代表紋であり、同族の新庄氏も三つ巴であったことから推定家紋として掲載しました。


 応仁の乱(1467)後、近江国の湖北地方は近江半国守護京極氏の内紛、六角氏との抗争、浅井氏の勃興などによって、戦火は絶える暇もなく続き、まさに戦国乱世の様相を呈していた。そのようななかで、戦陣に身を挺して活躍したのは、国人・土豪と呼ばれる武士たちであった。
 守護や戦国大名の有力家臣は、国人領主である場合が多く、土豪たちはその下の家臣であった。戦国期京極氏の変遷を記した『江北記』には、京極氏の根本被官、つまり京極氏に初めから従っていた家臣たちとして、「今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・浅井・弓削・河瀬・二階堂」が挙げられている。これらの武士は、主として湖北各地に割拠する国人である、このほかに、多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。
 今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、承久の乱のとき院方に加わって、勢多橋で熊谷小次郎と戦った九郎進士俊綱を祖とする。美濃守高遠の代になって、応仁の乱が起きると、高遠は京極持清に属して各所に出陣した。『今井軍記』によれば、応仁元年(1467)には犬上郡の下安食に布陣じて高野瀬城を攻略した。翌応仁二年には甲賀郡の小佐治で合戦し、文明元年(1469)の七月には愛知郡の押立城を攻撃して、敵将の目賀田藤左衛門を斬った。翌文明二年の黒橋の合戦では、息郷・望月・村島・大原・服部らの諸将を討ちとり、その軍功により佐々木本郷の代官職を命じられたとある。

応仁の乱から戦国時代へ

 高遠の子備中守秀遠も持清に従って細川方に属し、京都にあって、五月には大宮の戦い、応仁元年の六月には芝薬師堂、七月にが獄門で戦い、それぞれの戦いに殊勲を立て、細川勝元より感状を与えられている。文明二年京極持清が卒去すると、重臣の多賀高忠と同清直の同族が相争った。秀遠は高忠を援け、翌三年米原の太尾山の合戦では一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出した。文明十八年、多賀宗直が専横をふるい、京極秀綱を追放するという反乱を起こした。このとき、秀遠は秀綱に従って、宗直に与する堀氏成を攻め、翌十九年には、国友河原で宗直と戦い、宗直側の赤尾・箱根らを討ちとった。その後、宗直は月ヶ瀬の城館で自殺した。
 明応四年(1495)、美濃守護土岐氏に内訌が生じ、六角高頼はそれに関与して湖北へ兵を進めて浅井郡宮部に布陣した。これに対し、京極秀綱改め高清は六角高頼を攻撃した。秀遠は子の清遠らと高清に従って奮戦した。
 翌年、土岐氏の家臣石丸利光が反逆したため、土岐氏の重臣斎藤利国は京極高清に援助を求め、高清はそれに応じて浅井直種・三田村らを遣わし、自らは弥高山に布陣した。六角高頼は石丸救援の兵を起こし、京極高清を討とうと、伊吹山麓に兵をすすめ、高清の軍と戦った。しかし、石丸利光が敗れて自殺したとの報に、兵を引こうとする六角軍を今井秀遠が追撃し、醒井・番場で六角軍の首四十余を得たという。
 清遠の代には、京極高清と京極材宗との合戦が繰り広げられ、多賀経忠が材宗方に付いたことから、清遠は高清方に加わり、伊庭氏の軍勢と戦い、戦功をあげたという。

時代に翻弄される

 このように、今井氏は室町時代を通じて京極氏に仕えて数々の合戦に参加し、功名をあげて所領安堵を受けた。そして、一族のほかに家子郎党として、土豪層をも組織し、京極氏の重臣としての地位を確立した。そして、箕浦城に拠って、戦国時代になると、京極氏の勢力下から自立して、ときには国人連合のなかに身を置きつつ、独自の領主制を形成する基盤づくりをも行っていった。
 ところが、秀俊の代になると、主家京極氏の家督争いの深刻化と、同じ京極氏根本被官家のひとつである浅井氏が威勢をふるうようになり、さらに、湖東の六角氏との抗争が激化。そのようななかで、湖北と湖東の境界となる天野川流域に拠点を有する今井氏は、時代の激流に翻弄されることになる。

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箕浦城址を訪ねる

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。


 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。
 かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。
 秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。

浅井氏の興隆と今井氏の衰退

 定清は今井の本領回復を六角氏に願って京極氏との境目に砦を望んだところ、磨針山の菖蒲岳に砦を築いてそこに拠ることとなった。しかし、その代償として三歳の幼子を求められ、人質として六角定頼に差し出した。浅井氏を臣従させた京極高広は、六角氏を討つにあたり菖蒲岳の定清を味方にするために書状を送った。しかし、これを知った六角氏の疑いを受け、人質となった幼子は定頼によって殺された。このことから、今井氏は旧主である京極氏方に復帰したのである。
 かくして、今井定清は京極方に復帰したものの、父秀俊切腹後に庇護を受けた六角氏への恩義があり、進退に苦しんで、結局、永禄三年(1560)ころまでひき籠ってしまった。しかし、同年五月、浅井久政の子賢政(のち長政)が、六角氏と決別して対戦するにあたって今井定清を招請した。定清は浅井長政に味方することに決し、六角氏との戦闘に力を尽くした。ところが、永禄四年七月の太尾城の夜襲において、敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて戦死した。この定清の死によって、今井氏の衰退は決定的なものとなった。
 近江の諸豪が戦いを繰り返している間にも時代は大きく移り変わり、天下統一を目指す織田信長が勢力を拡大してきた。浅井氏は信長の妹を長政の室に迎えて、織田氏と同盟を結んだが、のちに朝倉氏のことで信長に反旗を翻した。この時代の激変に際して、今井氏は定清の子小法師丸が幼少であったため、家臣嶋氏らが力を合わせて浅井氏の下で各地に戦った。
 しかし、浅井氏が「姉川の合戦」における敗戦を経て、天正元年(1573)に滅亡すると今井氏も離散の憂き目となった。小法師丸はのちに成人して秀形と名乗り、天正十一年(1583)羽柴秀吉の滝川一益征伐に参戦したが戦死した。秀形には跡継ぎがなく、今井氏の嫡流は断絶した。
 とはいえ、今井氏は『嶋記録』などによれば、何流かの庶家があったようで、それらの家々がいまに今井氏の家名を伝えているとのことである。

参考資料:近江町史・長浜市史ほか】


■参考略系図
近江町史に記載された系図をもとに、藤原氏秀郷流の蒲生・新庄氏などの各種系図を併せて作成。支流の部分と宗家の部分との世代数に差があるのが分かる。
 


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