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郡司(那賀)氏
横木瓜
(日下部氏流)


 日下部氏は古代豪族で、日向日下部氏は児島郡の都万神社の祠官であった。都万神社は『建久図田帳』に「妻満宮領九十八町」と記され、日向国宗廟といわれた神社であった。その神格は高く、祠官も威勢があった。
 ところで、日下部氏は吾田の隼人の後裔という説もあり、その初代とされる立次は妻万神に仕えた半奴隷的な農耕労働者で、日下部という部民であったという。日下部系図の立次から立成─野長─河仲までの歴代は「大名神に奉仕」として、それぞれ百三十年から二百四十年におよぶ年数が記されているが、これは信じることはできない。信頼できる日下部氏のはじめは河仲のつぎの三仲で、おそらく河仲のとき部民の地位が神奴的階層に転換し、都万神が神社の形態を取るに至って日下部氏は神奴という身分から解放され、公民に編入されたものであろう。
 それを裏付けるように三仲は『万葉集』にその名をとどめ、系図上でその次ぎにみえる久仲の娘は京都に上って白河院に宮仕えし、帰国後、土持氏の妻になっている。そして、久仲の嫡男久貞は日下部宿禰姓となり、保安四年(1123)に在国司という要職に補任されている。久貞の子尚守も在国司職に補され、弟と思われる立信は法亢山城守を称して法亢氏の祖となり、都万神社祠官十八家の長として重きをなした。
 尚守には盛平・盛俊の二人の男子があり、在国司職は盛平に相伝され、さらに盛平は新納院郡司職那賀郡司・都於郡地頭領主・国富庄河南本郷郡司などにも補任され、大きな在地領主となったのである。そして、文治三年(1187)、盛平は新納土持冠者栄妙(宣綱)を養子として所領を譲ったとある。また、盛平は甥の実盛を養子に迎えて日下部嫡家の家督を譲っている。一方盛平の兄弟盛俊は国富庄那賀郷郡司・穂北郡司・鹿那田郡司とあり、その子右盛は那賀南五郎といって薄田郡司も兼ねていた。右盛の子光盛は土持真綱と在国司職を相論したという。また、光盛は「承久の乱」に功があり那賀郷郡村角別府を賜っている。

日下部氏、武家に転身する

 このようにして都万神社の祠官、在国司として勢力を拡大してきた日下部氏は盛平の世代において、武家に転身したのである。しかし、御家人というものではなく、地頭補任地内の小地頭といった立場であったようだ。また、一族のなかには北条氏被官の道を選んだ者もいた。弘安四年(1281)の元寇に際して、日下部宣景が出陣し、肥前国鷹島において討死したが、日向国御家人が元寇の役に出陣した貴重な史料となっている。
 日下部氏は系図によれば「真幸院郡司一流、倍木郡司一流、本府一流、花木一流数多これあり」とあるように多くの流れが分かれ出たが、その嫡流は盛平−実盛の流れで、この系統が郡司氏を名乗った。実盛のあと時盛−助盛−友盛−盛連とつづき、盛連は鎌倉末期から南北朝前期にかけて活躍した。そして、建武の新政がなるといちはやく足利尊氏の下で軍忠をなした。
 その後、足利尊氏が新政権から離れ、南北朝の内乱となると、盛連は足利方に味方して日向国大将として下向してきた畠山直顕の下で、南九州南朝方の有力者肝付氏との戦いを繰り返した。その功により、直顕から建武五年「日向国広原庄地頭代職」を給与されている。南北朝前期における日下部郡司氏の活躍は、他の日向国人に比べ史料に恵まれ、その動向がよく知られる。しかし、それらは『郡司文書』にみられるばかりで、同時代の文書にはまったく見えないのはまことに不思議なことである。
 その後、郡司氏は日向に下ってきた伊東氏に属するようになたようだが、その間の動向を語る史料はない。戦国時代になった天文二年(1533)、郡司久俊は「国中惣乱」により、伊東祐吉の麾下として出陣、山路新山において討死したという。そして、久俊の甥盛久のとき飫肥藩士となったようだ。その子の実広は善兵衛を名乗り伊東祐慶に仕え、寛永十四年の「島原の乱」には祐久に従って出陣、活躍したことが系図に記されている。

参考資料:宮崎県史・系図研究の基礎知識 ほか】


■参考略系図


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