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菱刈氏
●丸に九枚笹
●藤原氏北家頼長流
 


 菱刈氏は、その系図によれば藤原氏の後裔である。すなわち、保元の乱に崇徳上皇方に属した藤原頼長の子孫と伝えている。頼長は崇徳上皇の最高の謀主であったが、乱は崇徳上皇方の敗北となり頼長は流れ矢にあたって死去した。乱後、頼長の子師重・兼長ら一族十三名は遠く流刑に処された。
 藤原隆長の孫に当る重妙は幼年であったため、比叡山にあづけられた。ところが保元元年(1156)、後白河天皇は院宣を下して菱刈両院七百町歩を重妙に賜った。ちなみに、菱刈両院とは牛屎院・太良院のことである。幼い重妙は菱刈に下向できなかったが、建久四年(1193)、鎌倉幕府将軍の源頼朝から、あらためて菱刈両院の領有権を安堵する下し文を与えられている。

菱刈氏の誕生

 源頼朝から菱刈両院が安堵を得た重妙は、翌建久五年正月、弟師重とともに太良院に下向した。そして、本城に居城を構えると菱刈を称し、子弟らを領内に分封して統治の基礎を固めた。弟師重は、菱刈院に到着してから入山を分領して入山氏を称し、重妙の庶長子重隆は馬越を分領、三男の重茂は曽木を領して、それぞれ馬越氏、曽木氏の祖となった。
 重妙が入国した建久五年の夏、大口で大平氏の一族赤田氏が叛乱を起したが、相良氏の支援を得て赤田氏を討ち、牛屎院を相良氏に与えている。重妙のあとは嫡男重実がつぎ、そのあとは隆春が継いだが、隆春は凶徒と戦って戦死した。以後、重信、篤重と続き、篤重の代に南北朝の争乱時代に遭遇した。
 十三世紀の元冦をきっかけとして鎌倉幕府は、次第に衰退の色を深め、その政治的存在意義をも失っていった。そして元弘三年(1333)、後醍醐天皇の討幕運動によって鎌倉幕府は滅亡した。かくして建武の新政が発足し、大隅国司に二条良基、薩摩国司に中原師右、薩摩・大隅・日向の守護に島津貞久が任ぜられた。しかし、新政に不満を募らせた武士らの輿望を集めた足利尊氏が、建武二年(1335)に謀叛を起すと新政は崩壊した。以後、日本全国は半世紀以上にわたる南北朝の争乱時代となる。
 尊氏が叛旗をひるがえすと南九州では、肝付氏、伊東氏らが肥後の菊池氏と結んで南朝方についた。尊氏は畠山直顕を日向に派遣して肝付氏を攻撃させ、島津貞久も尊氏に味方した。菱刈篤重も尊氏方に味方して、肝付氏のよる加世田城攻撃に参加し、戦後、その功によって尊氏から菱刈半分地頭に補せられた。子重遠も尊氏方として活躍、越前金崎城攻撃には菱刈家の部将井手籠重久が大口の牛屎高元ともに参加している。

中世の争乱

 南北朝時代のはじめ、日向・大隅・薩摩の三州では畠山直顕、島津貞久を中心とする北朝方、肥後の菊池氏に通じた肝付兼重、伊東祐広らの南朝方に分かれて抗争が繰り返された。ところが、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、情勢はにわかに急展開をみせた。直義は南朝方に降って尊氏の執事高師直を倒し、ついで尊氏が南朝方に帰順して直義と対立した。この中央の政変は南九州にも影響を与え、直義方の畠山直顕と尊氏に味方する島津貞久の対立をもたらした。このとき、菱刈氏は島津氏に属し、貞久の子氏久の栗野北里城攻めに従った。
 擾乱を制して直義を倒した尊氏は、ふたたび南朝方に叛いた。結果、島津氏も北朝方に転じ、菱刈篤重と一族も島津氏に従った。しかし、南九州では南朝方の勢力が優勢で、島津氏は南朝方に属して畠山直顕と戦った。一方、南朝方にとどまった篤重の嫡男重遠は、文中元年(1372)、牛屎高元・相良実長らとともに島津師久の碇山城を攻撃している。
 まさに、南北朝時代は豪族たちが昨日は南朝、今日は北朝というように一家の保全を守るために目まぐるしい去就を見せた。
 南北朝時代の九州は、征西宮将軍懐良親王を擁する菊池氏を中心に南朝方が優勢であった。しかし、今川了俊が鎮西探題に補任されると、了俊の卓抜した戦略と軍事行動によって、情勢は次第に北朝方の優勢へと推移していった。ところが、明徳三年(1392)、南北朝合一がなると了俊は探題職を解任され、代わって渋川氏が探題に任ぜられると事態は大きな変化をみせた。
 南北朝期のはじめは畠山氏と対立し、ついで鎮西探題今川氏に押えられていた島津氏が勢力拡大の契機をつかんだのである。そして、日向の伊東氏との対立を深め、応永四年(1397)、島津元久は日向清武城を攻撃した。ついで、伊東氏の領内に起った一揆に乗じて勢力の拡張を図った。そして、薩摩北方に勢力を誇る菱刈久隆は、島津氏に通じて元久から救仁郷十五町を与えられている。
 こうして、島津氏は東諸県地方まで勢力を伸ばしたが、島津師久のあとをついで惣領となった伊久と氏久との対立がはじまった。

戦国時代への序奏

 島津伊久の流れは総州家とよばれ、氏久の流れは奥州家とよばれた。総州家には薩摩地方に勢力を誇る渋谷一族が味方し、菱刈氏は奥州家に応じていた。応永八年(1401)、渋谷一族の鶴田氏は氏久のあとを継いだ元久に応じたため、総州家に通じる祁答院・入来院らの渋谷一族に居城を攻撃された。元久はただちに救援に向かったが、相良氏、牛屎氏らが総州家を支援したため、敗れた元久は菱刈久隆のもとに逃れた。
 やがて、総州家の伊久が死去すると、今度は元久と弟の久豊との間に不和がおきたが、元久が死去したことで久豊が奥州家の家督となり守護職を継承した。元久が死去したとき、伊集院頼久は子の犬千代丸を立てようとしたため、久豊と対立するようになった。応永二十四年、久豊が松尾城を攻撃すると、伊集院頼久はこれを包囲した。久豊は援軍を派遣したが伊集院軍に敗れ、頼久は鹿児島・谷山・結黎の割譲を条件として和睦に応じた。その後、久豊は菱刈・牛屎・栗野などの兵をもって頼久を打ち破ったが、この戦いで菱刈元隆は戦死した。
 久豊は傑出した人物で、一族の反対派を押え、領国の安泰を図ると日向の伊東氏と対決した。応永三十二年(1425)久豊が死去すると、嫡男忠国が守護職を継いだ。その後、立久を経て忠昌の代になると、世の中は戦国乱世の様相を見せつつあった。文明七年(1475)、忠昌に対して島津国久・島津季久らが叛旗を翻した。このとき、菱刈氏重は国久に従ったため、翌年、忠昌の命を受けた伊集院三郎に攻撃を受けた。苦戦に陥った氏重は、相良為続に支援を求めて危難を回避した。文明十五年(1483)、氏重は国久らとともに、相良為続の芦刈攻めに協力、相良氏は八代麓城を攻略している。
 文明十六年、菱刈氏重、伊作久逸、北原立兼らが忠昌に叛き、忠昌側に立った国久らが鹿児島を守った。このように、国内は乱脈を極め、忠昌はこれを治めることができない憤りが嵩じて自殺を遂げてしまった。そのあとは、忠治、忠隆と続いたがいずれも早世、忠兼(のち勝久)が家督を継承した。しかし、国内は治まらず、忠兼は伊作忠良(日新)の子貴久を養子として家督を譲った。このように島津氏は家督が目まぐるしく交代し、国内の乱れはさらに募っていった。

戦国大名への飛躍

 文明十七年、菱刈氏重は相良氏とともに忠兼と同盟を結び、氏重のあとを継いだ忠氏も東郷重理、入来院重豊らとともに忠兼と和睦している。とはいえ、有力国人の一員として、守護島津氏の衰退を後目に自立した行動をみせていた。その後、大永八年(1528)に至って、菱刈重副は牛屎院のうち青木・長尾村を勝久から与えられた。
 島津氏は相良氏を懐柔して菱刈氏を牽制する策を図り、牛屎院を相良氏に譲渡していたが、相良氏はこれを受取らなかった。ために、島津氏は菱刈氏に牛屎院を与えることで、これを懐柔しようとしたのである。とはいえ、菱刈氏と相良氏とは深い姻戚関係にあり、島津氏が両者の仲を割こうとしても、両者の関係を崩すことはできなかった。
 島津氏は菱刈氏、相良氏に対応するため、島津忠明を大口城主とした。享禄三年(1530)、菱刈重州は相良義滋と結んで、大口城を攻撃した。ときに諏訪神社の祭りの日であったため、油断していた忠明は城内で自殺し、大口城は菱刈氏が占領した。こうして、菱刈重州は大口城に入り、太良・牛屎院を領して北薩の雄に飛躍したのであった。
 一方、島津宗家の家督を継いだ貴久は実父忠良の後援をえて三州の統一に乗り出した。貴久は本領伊作周辺の中南薩を征圧すると、天文十七年(1548)には、姫木城の本田薫親、翌年には加治木城の肝付兼演を降した。これに対して、菱刈隆秋は祁答院良重、入来院重嗣、蒲生範清、北原兼守らと連合し、天文二十三年、島津氏に叛いた。
 連合軍は肝付兼演の守る加治木城を攻撃、島津氏は加治木城を救援するため、菱刈隆秋、蒲生氏、祁答院氏らが拠る岩剣城を攻撃した。加治木城を攻撃していた蒲生範清は、加治木城の包囲を解き岩剣城救援に向かってきた。そして、連合軍と島津軍は岩剣城北部の平松で島津軍と激突した。結果、祁答院重経、岩剣城将の西俣盛家らが戦死して蒲生軍は敗走、岩剣城は島津軍の手に落ちた。

島津氏との激闘

 弘治二年(155)、島津軍は蒲生氏の本城蒲生城を攻撃した。菱刈重豊は蒲生氏救援のため北村に陣を布いて島津勢を牽制、両軍は対峙したまま越年した。年が開けると忠良がみずから指揮をとって、北村の菱刈氏を攻撃してきた。この戦いに島津義弘は、陣頭にたって菱刈軍の楠原某を討ち取り自らも重傷を負った。激戦のなかで重豊は自刃し、菱刈軍は潰滅的敗北を喫した。
 菱刈勢が敗れたことで蒲生範清も島津方に降参し、城を焼いて祁答院に落ちていった。かくして大隅西部も島津氏の版図となったが、菱刈隆秋が甥鶴千代を擁して大隅大口・馬越等の諸城に拠り島津氏に抵抗を続けた。
 永禄十年(1567)、島津貴久は馬越城を攻撃、大口城には伊集院・伊作・川辺方面の兵をもって押し寄せた。大口の菱刈氏は相良氏の支援を求めて馬越城に援兵を送ったが、島津軍の猛攻撃に城将井手籠駿河守をはじめ城兵ことごとく戦死して陥落した。馬越城の落城により、本城・曽木・羽月などの菱刈軍は、大口城に終結、横川城にいた隆秋も大口城に入った。
 翌永禄十一年(1568)一月、菱刈軍は羽月村堂ヶ崎に出撃した。堂ヶ崎の戦いとよばれるもので、菱刈方の勢は四、五千に対し、島津義弘勢は三百余りであった。血気にはやる義弘はこの寡勢でもって菱刈勢にあたったが、結果は惨澹たる敗北を喫した。このとき、川上久朗が義弘のために一命を投げ出して闘い、義弘は九死に一生を得たのである。
 その後も、菱刈氏は相良氏、渋谷一族らと結んで島津氏と対立を続けた。しかし、情勢は次第に島津氏の優勢に動き、ついに永禄十二年、菱刈隆秋は相良義陽とともに講和を求め、野田感応寺で和平を結んだ。とはいえ、隆秋はその後も島津氏への対立姿勢を改めなかったため、島津氏は新納忠元・肝付兼演らに大口城攻撃を命じ、鳥神尾の戦いで菱刈勢は島津軍の奇計に嵌って大敗を喫した。

菱刈氏の没落

 こうして島津軍は、菱刈氏の本城大口城に攻め寄せ、さすがの菱刈・相良勢も島津氏に降伏した。隆秋は大口城を出て相良氏の人吉城に去り、その後の大口城には大口地頭に任じられた新納忠元が入り、菱刈氏が去ったのちの大口・菱刈地方を支配した。
 ここに、重妙が鎌倉時代のはじめに下向して以来、四百年近くにわたって北隅に勢力を誇った菱刈氏は島津氏の軍門に降ったのである。菱刈氏を降した島津氏は元亀三年(1572)、日向の伊東氏と木崎原で戦い、これを打ち破った。このとき、新納忠元は菱刈・牛屎の兵を率いて木崎原に駆け付け勝利に貢献した。木崎原の合戦に勝利したことで島津氏は、薩摩・大隅・日向を平定し戦国大名としてさらなる飛躍を遂げることになる。
 島津氏に降伏したあとの菱刈氏は、鶴千代(重広)が本城・曽木を与えられた。しかし、天正二年(1574)、島津氏に対して異心を抱いた角により、その本城曽木城を奪われ、重広は伊集院神殿に移された。 かくして、菱刈氏はまったく父祖の地から離れていったのである。・2004年12月16日
【右:『薩陽武鑑』に記された菱刈氏の紋、同書には「菱に雁紋」も記されている】

参考資料:三州諸家史・薩州満家院史/菱刈町郷土史/大口市郷土史 ほか】


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