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城 氏
●並び鷹の羽
●藤原北家流菊池氏支族


 城氏は菊池能隆の子で、蒙古襲来時の菊池氏惣領である武房の叔父にあたる六郎隆経が、城越前守と称したのに始まるという。六郎隆経は山鹿郡城村を領し、城を名乗るようになった。しかし、その後の世系は残された文書などと、一致しない点が多い。
 城氏の名が文献上にあらわれるのは、南北朝前期の「菊池武士書状」に「しゃうの入道」と見えるものである。そして、「太平記」のなかに菊池氏の有力一族として城氏の名が出てくる。いずれにしろ南北朝期において城氏は、征西宮懐良親王を奉じて九州南朝方の中心となった菊池氏惣領武光に属して、各地の合戦に活躍した。

城氏の活躍

 南北朝期の当主は城越前守武顕と思われ、文和二年(1353)の筑前国針摺原における鎮西探題一範氏との合戦をはじめ、正平十四年(1359)の少弐頼尚との筑後川の戦いなどに出陣、つねに菊池軍の先鋒として奮戦した。武顕は菊池武光の片腕として、その知謀は菊池軍にあって一際異彩を放っていたという。
 康安元年(1361)の長者原合戦にも出陣して、探題斯波氏経・少弐冬資連合軍の攻勢に窮地に陥った菊池勢を、城越前守は奮戦の結果、勝利に導いたことが「太平記」にみえている。応安五年(文中元年=1372)十一月、征西将軍宮軍と武家方の今川了俊との間で戦われた、太宰府の攻防戦で武顕は奮戦のすえに戦死したと伝えられている。系図によれば、武顕には子が無かったようで、弟の武峰が家督を継承したようだが、以後、城氏の動向は必ずしも明確ではない。
 やがて、南北朝の争乱が終息し、室町時代になると、城氏は肥後守護代をつとめていたことが、「菊池為邦書状」から知られる。為邦は文安三年(1446)から文正元年(1466)まで肥後守護職にあり、豊後の大友氏と筑後国守護職を争っていた。寛正六年(1465)、菊池氏と大友氏は高良山で戦ったが、菊池軍の敗北となり、守護代城兵部大夫が為邦の命で山鹿まで出陣したようだ。
 兵部大夫は系図から見つけだすことはできないが、城氏が十五世紀後半において菊池氏の守護領国体制において、隈部・赤星氏らと並ぶ存在であったことは疑いない。その後、文明八年(1476)に至って、城為冬が阿蘇大宮司と交わした「城為冬書状」によって、はじめて城氏の実名が知られる。
 為冬は城冬時のあとを継ぎ、右京亮を称して菊池重朝・能運に仕えた。有名な文明十三年(1481)の「万句連歌発句」では第二亭の席主をつとめ、第三亭の席主をつとめた隈部忠直とともに重朝の重臣の双璧であった。その威勢のほどは、「沙弥洞然長状」に肥後の有力国人のひとりである相良為続が、特別な礼を以て為冬に接したとあることからうかがわれる。

肥後国の争乱

 肥後守護菊池氏は重朝治世の後期から、一族・重臣の叛乱に悩まされるようになる。文明十三年(1481)、重朝の叔父宇土為光が守護職を望んで重朝に叛旗を翻した。これに相良為続が加担して、一大争乱となったが、重朝は為光を追放した。その後、重朝は阿蘇氏の内訌に介入し、文明十七年、幕の平において敗北、菊池宗家の権威はいちじるしく低下した。
 重朝の死後、武運(のち能運)が家督を継承したが若年であり、文亀元年(1501)、隈部忠直が叛乱を起し、武運は肥前に逃れた。その後、肥後に復帰したものの文亀二年に、宇土為光がふたたび兵を挙げ隈府城を占領、武運はふたたび肥前島原に逃れた。城重峯は隈部重治とともに能運(武運改め)を助けて、文亀三年、為光を自害に追いみ能運の守護職復帰に尽力した。城為冬も宇土為光討伐に協力し、乱後宇土城を預かり宇土の戦後処理につとめている。
 こうして、一族、家臣の叛乱を征圧した能運であったが、宇土為光との戦いで負った傷が癒えず、永正元年(1504)、二十三歳の若さで死去してしまった。菊池氏の家督は、一族から政朝が入って継いだが、城頼岑・隈部重治らの老臣は政朝の支持に積極的ではなかったようだ。
 ところで、戦国時代はじめにおける城氏は、為冬系の城氏と、重岑系の城氏とに分かれていたようだ。そして、系図上で重岑の子とみえる越前守親冬によって、二流の城氏が統合されたようだ。そして、大友義鑑が書状を送った肥後国中老者とある九人の有力国人のなかにみえる城越前守は親冬とみられる。

菊池氏の没落

 さて、菊池氏の家督を継いだ政朝は重臣たちの支援が得られず、菊池氏家中は動揺した。これをみた阿蘇大宮司惟長は、菊池の家督と守護職をねらって大友氏の支援を受け、重臣に種々の働きかけをした。その結果、政朝追放に成功した惟長が、名を菊池武経と改めて守護職を襲った。
 しかし、武経も菊池氏重臣の反抗に悩まされ、永正八年、阿蘇に帰ると阿蘇氏に復帰した。重臣らは菊池一族の武包を迎えて家督としたが、永正十五年(1518)、大友義鑑の干渉で武包も菊池氏重臣によって追放された。かくして、義鑑は弟の重治を菊池に入れ肥後守護とし、肥後を大友氏の支配下におくことに成功した。
 重治は義宗、ついで義武と名乗り菊池隈部城に入ったが、城・赤星・隈部ら菊池氏老臣の力が強い菊池を嫌い、鹿子木親員、田島一族の支持を得て、隈本に本拠を据えると「国中」ににらみをきかせた。以後、隈部の地は赤星氏が守り、城・隈部氏らは政治の中枢から遠ざけられることとなる。
 やがて、義武は大友宗家から自立する動きを見せはじめ、義鑑と争うようになった。そして、天文五年(1536)守護職を追われ、八代の相良氏に身を寄せた。ここに菊池氏による肥後支配は、実質的に終焉をむかえ、大友義鑑みずからが肥後守護職となった。
 ところが、天文十九年(1550)二月、「二階崩れの変」で大友義鑑が横死すると、菊池義武は鹿子木氏・田島氏の支持を得て隈本城に入った。義鑑のあとを継承した義鎮は肥後に侵攻して義武を討つと、越前守親冬はこれに協力した。義武は相良氏を頼って逃れ去り、肥後中・北部を平定した義鎮は、隈府城に赤星親家を入れ、隈本城に城越前守親冬を配した。こうして親冬は、隈本城主として飽田・託麻二郡を支配することになったのである。
 永禄期(1558〜70)、戦乱に疲れた親冬は息子越前守親賢に家督を譲り、上京して仏照寺に入り、出家して行西と名乗り、のち霜野の地に隠居したと伝えられている。親冬が仏門に入った時期は明確ではないが、『肥後国誌』によれば天文五年(1536)に西本願寺より寺号免許があったと記されている。また霜野に隠棲ののち、大坂石山合戦に参加、顕如上人によりその戦功を賞されたとの話も伝わっている。

戦国時代の終焉

 北九州に勢力を振るった大友氏は、天正六年(1578)、薩摩の島津氏と戦った日向国耳川の合戦で敗北を喫し、その勢いは衰えていくこととなる。これにより、隈部氏は肥前龍造寺氏との結びつきを深めていった。一方、大友氏に代わって勢を振るい出した龍造寺氏に脅威を感じた親賢は、名和氏らとともに島津氏に誼を通じるようになった。やがて、北上作戦を開始した島津氏に協力し、天正八年(1580)には阿蘇氏臣甲斐宗運と白川旦過ノ瀬に戦ったが敗退。翌天正九年、赤星氏や隈部氏らの要請を入れた龍造寺隆信が肥後に侵攻してくるとこれに降り、同年末に死去した。
 親賢は天正期に岳林寺を再建し、荒れ果てた領地を回復するため領民に植樹を勧め、京都の楽市を真似て庭師を招いて植木市を興行し産業育成を図ったと伝えられる。いまも岳林寺には親賢の墓があり、現在の岳林寺植木市は親賢の起源によるもの伝えられている。
 親賢が病死すると嫡男の十郎太郎久基が家督を継承したが、幼少のため叔父で出田氏を継いでいた親基(出田一要)が久基を後見した。親基は島津氏と結んで、天正十年、龍造寺勢を肥後玉名安楽寺に撃破した。久基の久は島津義久の偏諱を受けたものである。しかし、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると島津氏と袂を分かち、天正十五年(1587)、久基は隈本城を開城、四月十四日、秀吉が隈本城に入城した。島津氏が降伏したのち、久基は秀吉から八百町を安堵されたが、隈本城は収公され大坂に召し出されて上方にのぼった。
 その後、国元肥後では新国守となった佐々成政に隈部親永ら国衆が抵抗して、肥後国衆一揆が起こった。一揆は成政が責任をとって自刃、隈部氏ら国衆は厳しい処分を受け、滅亡、あるいは没落の運命となった。久基は大坂にいたため国衆一揆に関与することなく所領安堵を得たが、のち筑後国石垣山に所替えとなり同地で享年十七歳にて死去した。
 久基には子が無かったため、出田一要が城氏に復姓して家督を継いだ。しかし、一要も文禄元年(1593)に死去してしまったため、城氏は断絶となった。その後、久基の弟で出田氏を継いだ武房が細川氏に仕えて、傍流ながら城氏の血脈を後世に伝えた。・2005年1月19日

参考資料:新熊本市史/図説・熊本県の歴史 ほか】

●菊地氏の家紋─考察


■参考略系図
 
  


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