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東根氏
五三の桐/丸に剣花角
(最上氏流天童氏一族)


 東根氏は最上氏の一族天童氏の分かれである。すなわち天童頼直の四男頼高が、東根城に入部して東根を称したことに始まる。頼高が入った東根城は、南北朝期に南朝方の小田島長義が築いたものである。
 天童氏は最上氏の一族とはいえ、そもそもは里見氏の地盤を受け継いだもので、最上氏に対して自立した姿勢を示していた。そして、戦国時代に至ると勢力拡大を目指す最上氏に対して、天童氏を中心として、成生・東根・六田・長瀞・飯田・尾花沢・延岡・楯岡の八氏で「天童八楯」を形成した。
 東根氏は天童氏から頼高が分かれたのち、頼在−頼厚−頼舜−頼宗−頼息、ついで頼景と続いたことが系図から知られる。そして、東根城主は二代頼在以降、源右衛門尉を名乗り、のち里見薩摩守を称することが慣例であった。
 戦国時代、最上義光は領国支配を拡大し、戦国大名への道をひた走った。そのような義光に対して、最上一族をはじめ国人衆らは抵抗姿勢を示した。なかでも、もっとも強力に最上義光と対立したのが天童氏であった。天童氏もまた戦国大名を目指していたのである。天正十二年(1584)、最上義光は天童氏を攻撃した。この「天童合戦」に際して、最上八楯は天童氏を支援して最上軍を迎えうった。このときの東根氏の当主は頼景であった。頼景は天童頼澄の弟で、東根氏を継いだ人物であった。
 最上義光は天童氏と天童八楯の反撃に手を焼き、ついに和睦して兵を引いた。義光は天童八楯がそれぞれ自立した国人領主であることに着目し、内部切り崩しの工作を開始した。まず、天童八楯のなかでもっとも豪勇を誇る延沢満延を婚姻策をもって懐柔した。一方、東根氏に対しては重臣の里見源右衛門(景佐か)を調略し、東根城を攻撃した。東根頼景は最上軍を迎えうったが、源右衛門の裏切りによって城は陥落し、頼景も非業の死を遂げたのである。

最後の東根城主、景佐

 とはいえ、『最上・天童・東根氏系譜』によれば、頼景は天正九年の最上氏による庄内酒田攻めのときに討死したとあり、そのあとを弟の源右衛門景佐が相続して、里見薩摩を名乗ったことになっている。しかし、これは景佐が頼景を裏切ったことを隠し、景佐が正しく東根氏の家督を継いだことにしようとした結果が見え隠れするものである。
 『最上義光分限状』『最上家中分限状』には、東根領一万二千石は東根源右衛門が知行とあり、『最上源五郎様御時代御家中ならび寺社方在町分限帳』によれば、里見薩摩が一万二千石を知行している。ここにみえる東根源右衛門・里見薩摩はいずれも景佐のことである。景佐は最上氏に仕えて、一万二千石を知行する大身であった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に活躍し「今度の奉公、比類なきに依り」として、東根の地などを知行いたすべき宛行状を最上義光から与えられている。このころは里見薩摩を称していたようで、慶長七年ごろに東根を姓とするようになったようだ。そして、景佐の子源右衛門尉は最上家親から親の一字を賜り、親宜と名乗った。東根氏が最上氏の重臣として報いられていたことがうかがわれる。
 景佐は元和六年(1620)に死去したが、子の親宜に残した遺言状に「最上氏は三年ともたない」と書いていることが注目される。このころ、最上氏は重臣間の内紛に揺れており、景佐の目には最上氏の没落の姿が見えていたようだ。事実、それから二年後の元和八年、最上氏は家中取締不十分をもって改易という処分に見舞われた。景佐の見抜いた通りの末路となったのである。
 東根源右衛門尉親宜は、四国の蜂須賀氏に預けられたが、その後、蜂須賀氏に乞われて家臣となり、徳島城下に屋敷を拝領、子孫は徳島藩士として続いた。

【参考資料:東根市史 ほか】



■参考略系図



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