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安富(深江)
●竹 笹
●清和源氏頼光流
系図に「竹笹」紋と記されているが、意匠は不詳。掲載した竹笹紋は想定したものです。また、子孫の深江氏は「巴」を用いたという。


 安富氏は清和源氏を称している。系図によれば、源頼光流で頼綱の子仲政の流れとみえ、いわゆる西遷御家人である。遅くとも文永二年(1265)当時には、南高来郡深江村地頭職を得ていたようだ。元冦の役に際して深江村に移住、土着して戦国時代に及び、近世では深江氏を称した。深江氏は安富氏の九州下向以前、在地の有馬氏一族の深江氏がいたことが知られている。
 正応五年(1323)十二月、頼清は北条貞時より下文を賜り鎮西に下向して、肥前国高来郡東郷深江村の地頭職となった。その子頼泰のとき島原半島以外にも多くの地頭職を兼ね、泰長の代になると深江の外一所の地頭職を兼ね、その子泰重は深江の外加津佐の半分、郡外天草をはじめ数カ所の地頭職を兼ねていた。鎌倉後期、安富頼泰・貞泰父子は前後してともに鎮西引付衆に加わった。

鎮西の戦乱

 南北朝期、島原半島北部の島原・多比良・神代・西郷の諸武士は南朝方に属し、征西将軍宮懐良親王を中心とする菊池党であった。一方、半島の南部、安徳・深江・安富・有馬の諸武士は、元弘の動乱(1331〜33)当時は官軍に馳せ参じた。
 建武二年(1335)、足利尊氏が醍醐天皇に叛旗を翻し、京都に攻め上った尊氏は京都を征圧下においた。しかし、延元元年(1336)、北畠顕家らが新田義貞らとともに京都を攻め、敗れた尊氏は九州に落ちのびた。三月、筑前多々良浜において菊池氏・阿蘇氏ら九州宮方と戦ってこれを破った尊氏は、九州宮方の勢力を駆逐し勢力を回復した。これを契機として、安富氏は尊氏に帰服して武家方となった。かくして尊氏は、一色直氏を九州管領に任じて九州の留守をまかせると、上洛の軍を起し、京都を征圧すると足利幕府を開いた。
 かくして南北朝の争乱が開始されたが、やがて、尊氏・直義兄弟の不和が嵩じて観応の擾乱が起きた。尊氏の庶子で直義の養子となった足利直冬が、正平五年(貞和二年=1350)、鎮西に下向し肥後に入ってからは、河尻氏ら肥後の武士がこれに属して直冬(佐殿)方となった。このころ安富氏が受取った感状をみると、直冬もしくはその将小俣氏連より発せられたものである。
 ここに九州の情勢は武家方=北朝、南朝、そして佐殿方が鼎立する事態となった。一色氏と対立していた少弐頼尚は直冬を支援し、一色氏の軍を撃退した。擾乱は直義方の優勢に推移し、尊氏が南朝方に転じたことで、直冬の勢力は衰え、ついには身の置きどころがなくなった直冬は石見へと没落していった。その後、鎌倉において直義が殺害されると、擾乱は尊氏の勝利に帰し、ふたたび時代は南北朝の争乱へと推移していくことになる。
 一方、直冬が没落したことで、少弐頼尚は南朝方に降り、有馬・安富氏らも南朝方に帰属するにいたった。『深江文書』に、正平八年二月条で「安富民部允泰重申軍忠事」とした文書が伝わっているが、了承者は菊池武光で安富氏が南朝方=菊池党に属していたことが知られる。

安富氏の奮戦

 正平十三年(1358)四月、足利尊氏が死んで子義詮が将軍職を継ぐと、南朝方は幕府の喪に乗じて各地に蜂起した。九州では九州管領一色直氏が菊池武光と戦い敗れて、京都へ逃げ帰った。幕府は細川繁氏を九州探題に任じたが、繁氏は下向途中で死んでしまった。ところが、南朝方にあった少弐・大友氏らが足利方に転身し、菊池武光と戦うようになった。正平十四年、菊池武光は少弐・大友氏を殲滅せんとして筑後川で戦い、少弐・大友氏の軍を打ち破った。
 この戦に際して、島原半島の諸武士は菊池方として出陣、奮戦した。なかでも、深江の安富一族の勲功はもっとも著しいものであった。とくに安富孫三郎泰治は勲功によって得た所領の譲状を娘虎女に残して出陣しており、必死の覚悟をもって合戦に臨んだことがうかがわれる。はたして、泰治は宮方の第三陣にあって奮戦し、菊池武明・武信らとともに壮烈な討死を遂げたのであった。この泰治の功に対して、正平十七年、懐良親王は虎女に恩賞の沙汰を下している。
 筑後川の合戦は「大保原の合戦」とも称され、『北肥戦誌』によれば、両軍合わせて戦死者三万八千余人を数えたという。数字に誇張があるとはいえ、未曾有の大合戦であったことは間違いない。
 筑後川の合戦に勝利を得た宮方=菊池党(征西府)はいよいよ勢力を振るい、正平十六年八月、菊池武光は懐良親王を奉じて少弐・大友氏と香椎で戦い大勝利を挙げた。九州の宮方の盛んとなることを恐れた幕府は、斯波氏経を九州探題として派遣した。
 翌十七年、豊後に到着した氏経は少弐・大友の軍を率いて太宰府に向かった。これに対して菊池武光は、懐良親王を奉じて筑前長者原で幕府軍を迎え撃ち、壊滅的打撃を与える大勝利を得た。これらの合戦において島原半島の諸武士は征西府方として勇戦、『北肥戦誌』には安富民部大輔泰重が菊池武光に属して戦功を抽んでたことが記されている。以後、九州のほとんどが征西府に征圧されるにいたった。
 一方、九州の情勢に対して、幕府は九州探題に今川了俊を登用、了俊は幕府の重職にあり、その政治力と巧みな戦略と菊池武光の死によって、九州宮方は衰退を余儀なくされていった。やがて、明徳三年(1392)南北朝の合一がなり、安富氏も室町幕府体制に組み入れられていった。

有馬氏の麾下に属す

 室町時代における島原半島は、探題方と良成親王を奉じる菊池氏らの宮方に分かれたが、安富氏は探題方に属したようだ。そして、安富一族の要となっていたのは、筑後川の戦いで壮烈な戦死を遂げた泰治の弟直安であった。直安は安富深江下総入道とも呼ばれて、早くから探題今川了俊に味方していたため、宮方の衰退とともに勢力を強めていった。
 直安のあとは泰行が継ぎ、探題渋川満頼に従って活躍している。以後、直安─泰行の流れが安富氏の嫡流となり、泰行の子泰清も探題渋川氏に属した。やがて渋川氏は勢力を衰退させ、島原半島では有馬氏がにわかに勢力を拡大した。泰清の孫但馬守貞直は、有馬氏と縁を結び、その麾下に属するようになったようだ。そして、この貞直の代から安富氏は戦国の荒波に翻弄されることになるのである
 勢力強大となった有馬氏は、少弐氏麾下の千葉氏が領する小城郡に進出するようになった。これに危機感をつのらせたのが同じく少弐氏に属する龍造寺氏で、龍造寺氏は千葉氏を支援して有馬氏と対立するようになった。天文三年(1534)、有馬晴純(義貞・仙岩)は少弐資元の留守をついて、多久を攻撃した。しかし、龍造寺氏の活躍で多久を攻略することができなかった。
 有馬晴純は肥前全域の支配を目論んで、天文十年、同十二年、同十三年、同二十一年と、小城・佐賀・神埼郡に兵を進めたが、そのたびに千葉・少弐・龍造寺氏らの防戦にあって、思うように作戦は進まなかった。そのようななかで、龍造寺隆信が著しい台頭振りをみせ、永禄二年(1559)には少弐冬尚を討ち取り、東肥前を支配下におくに至った。
 永禄五年(1562)、有馬氏は大友氏と結んで、小城に龍造寺氏を攻めた。この陣には、但馬守貞直をはじめ、安徳・神代・島原氏らが有馬氏に従って参戦したが、この戦いも有馬軍の敗戦となった。勝ちに乗じた龍造寺軍は、杵島に討ち入り、有馬氏はこれを迎え撃ったが、隆信の勢いにはかなわなかった。かくして、有馬氏は龍造寺隆信の前に劣勢へと追い込まれていった。

戦国乱世に翻弄される

 天正五年(1577)、大村純忠・西郷純堯らが龍造寺氏に降り、ついで神代貴茂が帰服した。翌天正六年正月、隆信は大軍を率いて島原半島に押し寄せた。このとき、安富貞直の嫡子純治、その子純泰、一族の安徳純俊らは隆信に降参した。ここに至って、ついに有馬晴信も隆信に和睦を乞い、人質を出して和議が成立した。この人質のなかには、純泰の嫡男助四郎も含まれていた。
 肥前を征圧した龍造寺隆信の威勢は隆々たるものとなったが、天正八年、筑後柳川城主の蒲池鎮並が隆信に叛旗を翻した。隆信はただちに嫡男政家を大将とする討伐軍を発し、その軍には安富純泰・安徳純俊・島原純豊・神代貴茂らが従った。蒲池氏は果敢な抵抗を示し、攻めあぐねた龍造寺隆信は謀略をもって鎮並を討つと、残った一族も幼児に至るまでことごとく殺害した。この容赦のない隆信の処置が、のちに有馬晴信をして龍造寺氏から島津氏に走らせる遠因となった。
 天正十年(1582)ごろになると、島津氏の北上作戦が活発化し、龍造寺氏との間で戦いが繰り返すようになった。隆信は島津氏に備えるため、有馬氏に加番を派遣するように命じ、安富純泰らは肥後国玉名郡横島城に在番として入った。また、父純治は島原城の在番を命じられて、二男の新七郎とともに島原城に入った。
 ところが、翌天正十一年の夏、有馬晴信(仙岩)が島津氏に通じて純泰らが出払っている深江領に侵攻、深江・布津両村を焼き払い深江城を包囲した。この戦いが、やがて龍造寺軍と有馬・島津連合軍との決戦に連鎖していくことになる。
 安富氏は有馬氏の重臣であり、一族に近い関係でもあった。有馬晴信は隆信が蒲池氏を容赦なく滅ぼしたことが、いつか我が身にもふりかかてくるのではないかと危惧するようになった。ついには二者択一の心境に追い込まれ、龍造寺隆信と対立する島津氏と結び、隆信に叛旗を翻すに至ったのである。純泰らは思い直すように諌めたが、晴信は聞き入れなかったため、ついに安富氏は有馬氏と袂を分かったのである。
 有馬氏の変心を知った安富純泰は嫡男を人質に出していること、隆信に従って諸所の合戦における龍造寺軍の強勢をまのあたりにしていたことなどから、たとえ有馬氏が島津氏の援軍をえても、隆信に勝てないとみた。それだけに、晴信を再三にわたって諌め、龍造寺氏から離れる不利を説いたのであった。一説に安富氏は有馬氏がキリシタンを信仰していることを嫌い、有馬氏を離れて隆信に属したとするものもある。

深江城の戦い

 有馬氏が龍造寺氏から離反したことで、安富氏領の深江は龍造寺方の最前線をになう地となったのである。
 有馬氏の攻撃に対して深江城中は兵も少なく防護しがたく見えたが、純泰の妻女は留守の兵とともに防戦につとめ、領内三ケ村の百姓牛馬等を城内に入れて有馬氏の攻撃をよくしのいだ。ところが、純泰の祖父但馬入道(貞直)は老耄して有馬方に心惹かれ危機に陥った。妻女はただちに但馬入道を捕らえてこれを押し籠め、なお城兵を督戦して城を守った。
 深江城の危機を知った純泰は、馳せ帰って叔父安徳純俊、島原式部大輔の応援を得て城を守り通した。しかし、叔父純俊がにわかに変心して有馬方に通じ、島津氏からの援軍を自らの城に引き入れ、佐嘉への通路を塞いだ。島津氏からは伊集院肥前守・新納武蔵守・同刑部大輔・河上左京亮ら七千余騎が加勢として安徳城に入り、一斉に深江城を攻め、激戦は昼夜十八日間にわたって続いた。
 隆信は深江城からの急進を受け、急ぎ安武家教・横岳家実らを派遣し、藤津・彼杵両軍にも下知し、かつ兵糧用として多比良村で五十町歩の田地を渡した。対して島津方の新納刑部大輔・河上左京亮・蓑田平右馬助以下数十名が打って出て、激戦が展開され刑部大輔・蓑田平右馬助は戦死した。
 一方、龍造寺隆信はみずから三万の兵を率いて、深江城を救援するとともに有馬氏の本城を攻撃するため島原半島を南下した。対する有馬・島津連合軍は六千で、圧倒的に龍造寺軍が優勢であった。両軍の決戦は島原沖田畷で行われ、島津方の入念な作戦の前に、龍造寺軍はまさかの敗戦を被り隆信も戦死を遂げてしまった。

安富氏、近世へ

 総大将を失った龍造寺軍は、兵をまとめほうほうの体で退却していった。龍造寺隆信の勝利を確信して悪戦苦闘を続けてきた深江城の安富純泰と一族、島原城の島原純豊・安富純治らは島津軍の包囲のなかで万事窮してしまった。
 島津方からの矢文で隆信戦死の報を得た純泰は、ついに城を捨て、一族家人ことごとくを伴って神代より船を出し、あるいは温泉山、鞍懸山等を越えて藤津郡に逃れた。一方、島原城の安富純治・新七郎らは城を出たものの、島津軍と戦って壮烈な戦死をとげた。ここに、島原半島における龍造寺方の勢力はまったく潰えた。
 龍造寺氏を頼った純泰らは、政家、鍋島信生から厚遇を受け、藤津郡で少知を賜り、龍造寺、次いで鍋島氏に仕えた。純泰のあとは龍造寺氏に人質としてあった助四郎が継ぎ、のち安富橘右衛門尉と名乗って鍋島氏に仕えた。そして、橘右衛門尉の子昌武の代に深江と改め、子孫は鍋島氏の家臣として明治維新に至った。
 安富改め深江氏が伝えた『深江家文書』は、総数百四通が三巻の巻物に仕立てられていまに伝わっている。同文書には鎌倉から戦国時代における肥前の動向や、当時の政情が記され、肥前の中世史を研究する上で重要な資料となっている。・2004年11月25日→・2005年4月8日

参考資料:深江町郷土史/家系研究の基礎知識ほか】


【関西在住の安富さまからの情報】

安富家の菩提寺源昌寺の墓地には深江家の「巴」紋を中心にして、巴・竹笹・蔦紋を刻んだ安富家の墓があるとのこと。安富さまの御家の家紋は「蔦」とのことで、御尊父や従兄の御家の御墓が敷地内にあり、昔は巴紋だったということで、十数年前に蔦紋から巴紋に変更して法名塔を建てられたとの情報をいただきました。
●右写真:安富さまからお寄せいただいた「丸に蔦」の紋。

■参考略系図
・「深江町郷土史」所収系図から作成。


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