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原田氏
●三つ引両/軍配団扇
●大蔵氏嫡流
・九つ日足とする説もある。


 戦国時代、筑前国高祖城に拠った原田氏は九州の大族大蔵氏の嫡流である。大蔵氏は漢の高祖の後裔と伝え、大和朝廷の官物を納めた蔵である大蔵に仕えた漢氏の子孫といわれる。大蔵にちなんで大蔵を称したとも、播磨国大蔵谷に住んだことから大蔵を称するようになったともいう。
 大蔵氏が九州と関わりをもつようになったきっかけは、天慶四年(941)伊予の藤原純友が反乱を起したいわゆる天慶の乱にあった。大蔵春実は源経基・小野好古らとともに、乱の鎮定のために出陣した。乱の平定後、春実は戦功により征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となった。九州に下向した春実は、太宰府に近い筑前御笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守備にあたった。のちに山麓の原田に居館をつくり、地名をもって原田氏を名乗り土着したという。
 春実が九州に入って後、大蔵一族は原田氏を嫡流として秋月・江上・田尻・三原・高橋などの諸家を生じた。そのなかでも、とくに原田・秋月・高橋の三氏が大蔵氏三大豪族としてあげられる。

原田氏の台頭

 平安時代末期に起った保元の乱・平治の乱に際して、原田種雄と嫡子種直は平氏勢として活躍、平氏との関係を深めていった。永暦元年(1160)、種直は平重盛の養女を室に迎え、大宰少弐に任じられて平家のためにおおいに気を吐いた。
 治承三年(1179)、平清盛が後白河法王を幽閉した時、種直の次男種国が警護役をつとめている。しかし、平家が壇ノ浦で滅亡すると、原田氏は領地を没収され、種直は鎌倉に幽閉の身となった。その後、開放された種直は、源氏に味方して家を保っていた弟種成を頼って早良郡へ行き、のちに頼朝より怡土庄の地を与えられてささやかながら復活をとげた。
 建仁三年(1203)、怡土郡五郎丸に移り住み、伊勢ノ山(高祖山)に館を構えた。原田種直から四代目にあたる種継・種頼親子が高祖城を築き、麓に館を構えて原田氏代々の本拠とした。
 蒙古襲来に際しては、「文永の役(1274)」に原田種照・種之兄弟が出陣した、八幡宮裏手の深田で戦死した。つづく「弘安の役(1281)」では種之の弟種房が出陣、戦後、功により大宰大監に任じられた。
 元弘の変(1331)後の動乱で鎌倉幕府が滅亡して、建武の新政が発足したが、建武二年(1335)に足利尊氏が鎌倉において新政に叛旗を翻した。翌年、京都を征圧した足利尊氏は、北畠顕家を中心とする新政府軍に敗れて九州に逃れ去った。ときの原田氏の当主種時は尊氏に味方したが、嫡男の種宗は宮方の菊池氏に属した。やがて、多々良川合戦が起り、圧倒的に劣勢であった尊氏が勝利をえた。尊氏はただちに九州を征圧下におくと、京都をめざして東上の軍を起した。原田種時もこれに加わり、湊川合戦で奮戦、尊氏の京都奪回作戦に貢献した。
 尊氏によって京都を逐われた後醍醐天皇は吉野に奔り、尊氏は光明天皇を立てて幕府を開いた。かくして、半世紀にわたる南北朝の争乱が展開することになるのである。

大内氏麾下に属す

 南北朝の争乱は、明徳二年(1392)に将軍足利義満の尽力によって合一がなった。南北朝時代後期の九州で辣腕を振るって南朝方勢力を瓦解させたのは、今川了俊であったが、了俊は南北朝合一がなったのちの応永二年(1395)、探題職を解任されて京に帰還した。翌応永三年、義満が大内義弘を九州へ下向させると、原田氏は義弘に属した。その後、大内義弘の勢力が拡大することを嫌う義満の挑発によって、応永七年(1400)、義弘は応永の乱を起して敗死してしまった。
 義弘のあとは弟の盛見(もりはる)が継承し、渋川義俊を助けて筑前へ進攻、少弐氏を討ち、やがて幕府直轄領となった筑前の代官に任じられた。
 その後、永享年間(1429 〜)になると大内盛見は大友氏と対立するようになり、永享三年(1431)、盛見は大友方の立花山城を攻撃した。大内氏の猛攻により立花山城を逃れた大友持直が二丈岳城に立て籠ると、原田種泰は盛見からの援軍要請をいれて二丈岳城を攻撃した。ところが同年六月、糸島方面の戦いにおいて盛見は不慮の戦死を遂げてしまった。盛見のあとを継いだ持世は、永享五年八月、二丈岳城を攻め大友持直を豊後へ敗走させた。
 その後、筑前は大内氏の支配下となったが、応仁元年(1467)に応仁の乱が起ると、大内政弘は山名宗全に味方して上洛、積極的に乱に介入した。乱に際して原田種親は、大内政弘の要請に応じて上洛、西軍方として戦った。応仁の乱は十年にわたって続き、京都を焦土と化し、世の中は下剋上の横行する戦国時代へと移行していった。
 明応五年(1496)、大内氏に逐われて対馬に逃れていた少弐政資が筑前に上陸、高祖城を包囲、攻撃した。原田氏は大内義興に支援をたのみ、よく少弐氏の攻撃を防戦、義興の援軍をえてこれを撃退した。翌明応六年、大内氏によって少弐政資は自害し、原田興種は筑前守護代に任じられた。

乱世を生きる

 十六世紀になった永正五年(1508)、大内義興は庇護していた前将軍足利義尹(義稙)を奉じて上洛、興種も九州諸氏とともにこれに従い足利義澄を近江に敗走させるのに功があった。原田興種は大内氏に属して厚い信頼を受け、興種の興は大内義興の偏諱をうけたものであった。一方で興種は、父弘種や一門の菩題を弔うために、高祖山麓に太祖山金龍寺を創建している。
 大内義興が上洛している間に大内氏の領国である中国地方は、出雲の尼子経久や安芸の武田氏らが自立の動きを示し、強力な大内氏体制にも動乱の波が押し寄せていた。そのような享禄元年(1529)、義興が死去すると義隆が大内氏の家督となった。享禄二年、義隆は原田興種と家臣の杉興連に命じて少弐資元を攻め、資元を肥前に追い払った。翌享禄三年、戦陣に明け暮れた興種は病をえたようで、原田隆種の名があらわれてくる。おそらく、興種は隆種に家督を譲って隠居したものであろう。
 原田氏の家督となった隆種は、大蔵一門の惣領として高祖城を本拠に筑前西部に勢力を築き、大内氏と結んでしばしば大友氏と戦いこれを撃破した。大蔵氏の第一期黄金時代を初代春実のときとすれば、第二期は源平時代の原田種直のときであり、第三期が隆種の時代であった。天文二年(1533)には志摩へ攻め込み柑子岳城を攻略し、ついで大内氏の重臣陶道麒に属して肥前国神崎郡へ侵攻し少弐勢と戦っている。
 隆種の隆は大内義隆の一字を拝領したものであり、隆種は義隆に従って大内氏の筑前支配を支えた。しかし、天文二十年(1551)大内義隆が陶晴賢の謀叛で滅びると、にわかに原田氏を取巻く状況は厳しいものとなった。隆種は永年の大内氏との関係から陶晴賢に服さなかったことから、陶氏と結んだ大友氏の攻撃にさらさえるようになる。天文二十二年には陶・大友連合軍により高祖城を攻略され、隆種は蟄居という憂き目となった。
 弘治元年(1555)、安芸の毛利元就が厳島において陶氏と戦ったとき、原田隆種は毛利軍に参加して毛利氏の勝利に貢献した。かくして高祖城に復活した原田隆種であったが、ほどなく出家して了栄と号した。

大友氏との抗争

 弘治三年、老臣の本木道哲が隆種の四男親種に原田氏の家督を継がせようと策謀をめぐらせ、嫡男種門と三男繁種に謀反の罪を負わせて岐志で謀殺するという暴挙を行った。その後、謀略があらわれた本木道哲は、原田了栄に討たれたが、了栄にすれば二人の男子を失う痛恨事となった。ところで、種門と繁種の一件は、毛利元就の九州進出に味方した同族秋月文種が大友氏の攻撃によって没落、原田氏も大友勢に攻められ了栄はやむなく降伏したが、長男の種門、三男の繁種兄弟は父に反して大友勢に徹底好戦した。しかし、衆寡敵せず、中国に逃れんとしたところを志摩郡岐志浦で大友氏の手で討ちとられたとする説が有力である。
 その後、西一族が原田氏に対抗するようになり、永禄十年(1567)、筒城の西重国を攻め、続いて宝珠岳城・旗振山城と落城させて西氏を滅ぼした。西重国は龍造寺隆信に支援を求めていたため、龍造寺軍が長野峠を越えて怡土庄に進攻してきたが、草野氏の養子となっていた次男種吉(草野鎮永)の子五郎を人質に差し出して和睦が成立した。
 隆種のあとは四男の親種が継ぎ、惣領となり大友氏を仇敵として徹底好戦した。元亀三年(1572)、臼杵鎮氏と池田川原で戦いこれを討ち取った。ところが天正二年(1574)、立花道雪より了栄が池田川原の戦いの責任を追求されると、親種が父了栄に代わって詰腹を切った。親種の子秀種は、永禄十一年(1568)の毛利氏による立花城攻略戦に従軍して戦死していたため、原田氏は後嗣を失った。断絶に直面した原田氏は、龍造寺氏のもとに人質となっていた草野鎮永の子五郎が迎えられ、五郎は信種を名乗って原田氏の当主となった。
 天正六年(1578)、大友宗麟は日向で島津氏と戦い、耳川の合戦で大敗を喫した。以後、大友氏は衰退の一途をたどるようになり、肥前の龍造寺隆信の勢力が筑前におよんできた。原田氏は秋月氏、筑紫氏らとともに龍造寺氏に通じて大友氏から離叛した。天正七年、柑子岳城に兵糧を運び込もうとする立花道雪軍と戦いになり、原田勢はよく道雪軍を打ち破った。ついで同年八月、柑子岳城を攻め坂付近で激戦を展開、柑子岳城を攻略して城将木付鑑実を立花山城に走らせ志摩地方を支配下においた。

戦国時代の終焉

 信種は父草野鎮永を恃むところが強く、政事向きの相談も鎮永に相談することが多かった。その結果、原田家の重臣から不満の声が上がるようになった。これに乗じたのが肥前岸岳城城主波多親で、親は信種を廃して原田勢に草野鎮永を討たせようとした。しかし、親の謀略は事前に露見したため、天正十二年、親は武力をもって原田氏領に攻め込んだ。信種はみずから大将となって出陣、鹿家で波多勢を迎撃すると激戦のすえにこれを撃ち破った。
 原田氏が波多氏の侵攻を斥けた同じ月、龍造寺隆信は沖田畷において島津軍と戦い、まさかの戦死をとげ、一気に島津氏の勢力が北九州に伸びてきた。原田信種は島津氏に誼を通じ、勢力の維持を図ろうとした。ところが、天正十五年になると豊臣秀吉の九州征伐が始まった。信種は島津との同盟から秀吉軍への抗戦を主張したが、偵察に出かけた重臣らは秀吉軍の装備を見て驚き、浅野長政に降伏を申し入れてしまった。
 それを知った信種は怒るとともに秀吉軍への抗戦を決意したが、みずから秀吉軍の陣容を見て戦意を失い、黒田家家臣の久野四兵衛をたのんで高祖城を明渡すと秀吉に助命を嘆願した。秀吉は反旗を翻した事に怒りはしたものの、負けると知りながら抵抗した事は誉めるに値するとして、直に信種に会ってのちに裁断を決める事にしたという。
 信種に対面した秀吉は、所領のほどを尋ねた。信種はありのままに答えると所領没収の処分を受けると考え、過小に報告した。原田氏の所領のことをすでに調べて知っていた秀吉は、信種の返答に気分を害し、一命は助けるが所領は没収処分とした。その後、あらためて筑後にわずかに三百町歩を与えられ、佐々成政の与力として肥後へ転封となった。こうして、高祖城は破壊され、家臣らは帰農したり他家へ仕官して原田氏は没落の運命となった。

その後の原田氏

 佐々成政が肥後国衆一揆で滅亡すると、原田信種は肥後熊本城主となった加藤清正の与力とされ、朝鮮出兵が始まると清正に従って出陣した。そして、慶長三年(1598)の蔚山城の戦いで戦死した。信種の死後、嘉種が家督を継ぎ清正に仕えた。しかし、清正と不和となり領地没収のうえ追放処分を受け、嘉種・種房兄弟は唐津城主寺沢広高に食客として遇され二千石を与えられた。
 ところが、寺沢家は島原の乱によって改易処分となり、ふたたび浪人となった原田嘉種は江戸に上り、天海僧正と出会い、慶安四年(1651)天海の紹介で会津藩主保科正之に二千石で仕えるようになった。このとき、嘉種はすでに六十七歳の高齢であったが、保科正之に手厚く遇されたという。嘉種のあとは種長が継ぎ、子孫は会津藩士として続いた。
 戦国時代の末期まで、筑前の有力国衆として勢力を維持した原田氏であったが、もっとも奮発すべきところで、しくじったといえよう。信種が快活に秀吉に接していれば、おそらく、その後の原田氏の運命は大きく変わっていただろう。まことに惜しいことであったが、それが原田氏の限界であったというべきか。・2005年3月15日

参考資料:糸島郡誌/二丈町史 ほか】


■参考略系図


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