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有馬氏
五瓜に唐花
(藤原北家純友流)


 有馬氏の祖は、天慶の乱の藤原純友とされている。つまり、純友の子直澄が有馬氏の祖になったとするものだ。また純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったという所伝もある。
 しかし、純友後裔説を裏付けるものはまったくなく、むしろ、平安時代の末期に平正盛に捕えられた平直澄が藤原に付階されたものと考える方が妥当なようだ。直澄のことは「百練抄」にもみえ、元永二年(1119)の十二月二十二日の条に、正盛が直澄の首を持って帰洛したとあるのがこれである。
 『姓氏家系大辞典』では、有馬氏初期の系譜を「直澄─永澄─清澄─遠澄─幸澄─経澄」というように推定し、 経澄のときはじめて、鎌倉幕府から肥前国高来郡有馬庄地頭に任じられたという。経澄の子が友澄で、 これは『吾妻鑑』にみえる朝澄と土井いつ人物であろう。しかし、経澄が鎌倉幕府から有馬庄の地頭に任じられた という以外、室待ち時代まで目だった動きは見られない。
原城址  室町時代になって、氏澄の子貴澄に至って四囲に兵を進め、在地領主として国人領主に成長していったようだ。貴澄は松浦氏、波多氏、草野氏、志佐氏・田比良(田平)氏らと戦い、あるいは幸福させ、次第にその領地を拡大し、その後の有馬氏発展の基礎を築いた。
 貴澄の孫賢純(晴純)は、松浦氏をはじめ、大村氏、平井氏、多久氏、後藤氏、西郷氏、伊福氏などを討ち従え、ついに本拠高来郡を中心に、彼杵、杵島、松浦、藤津の五郡を領国にすることに成功している。この頃から戦国大名化の動きが顕著となり、賢純は将軍足利義晴の偏諱を受けて賢澄の名を改め、晴純と名を改めている。
 ところが、竜造寺氏の勃興とともに一時衰退し、義純の弟晴信が義純の跡を継いで有馬氏の全盛時代を現出するに至った。晴信は、十六歳のとき、天正十二年(1584)薩摩島津氏の加勢を得て、龍造寺氏と戦い、これを滅ぼした。
 その後三年して、秀吉の九州征伐の軍が九州にいたると、晴信は秀吉に従って本領を安堵され、その後の朝鮮の役にも従軍している。なお、天正十年(1582)大友宗麟・大村純忠らと少年使節をローマ法皇のもとに遣わしたことは有名である。
 関ヶ原の合戦では初め西軍に属したが、思い返して東軍に属し、子直純を西軍小西行長の宇土城攻めに参加させて、戦後本領を家康から安堵されている。しかし、その後、ポルトガル船を撃沈して家康から咎められたが、岡本大八の上書で甲斐国へ流され、同地で自殺した。しかし、子の直純は連座をまぬがれ家康の曾孫が室だった関係もあって無事に本領を継ぎ、慶長十九年(1614)日向高鍋で五万石を領した。
 その後、有馬氏は、元禄年間の清純のときに越後へ転封され、さらに越前の丸岡に移り、五万石を世襲して明治維新を迎えた。
………
写真:貴澄が築いた原城址(撮影/あきらさん)


■参考略系図
 


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