直景の後室
初代の江戸城代であった遠山直景の後室は、二代綱景の母で「まつくす」という名であった。天文二十一年の八月、武蔵国惣社である六所明神社(現在の大国魂神社)の釈迦像修造の際に、台座に銘を刻んだ。このとき、まつくすの夫直景は、すでに二十年近く前に死去しており、自身も老境にいたっていたまつくすは、子息である綱景と孫の弥六郎およびみずからの息災を願い、銘を刻んだのであった。
まつくすにとって、子孫繁栄を願うことは、残された人生のなかで最も切実ね願いであった。そのため、まつくすはまず子息綱景の「弓矢の冥加」があること、すなわち戦場において神仏の加護があることを願った。戦場における神仏の加護とは、命を長らえることもだが、それより手柄を立てることを指したものであった。そして、当時における遠山氏の主君であった北条氏康、その夫人、その叔父である北条幻庵の覚えがよいことを願っている。これは、まつくすから見た北条氏家中の実力者であったと見られる。氏康や幻庵が挙げられているのは当然だが、氏康夫人が挙げられているのは注目される。
戦国時代の女性は表に立つことが少ない存在であったと思われがちだが、実際は当主夫人の家中における発言権は意外と大きなものがあった。江戸遠山氏は北条氏家中では重臣の一人であったが、それでも当主夫人の覚えがよいことが、一族繁栄の秘訣であったことをまつくすの銘は語っている。
さらにまつくすは、さまざまな病気にかからないことを願っている。
このように直景の後室まつくすは、戦場においては手柄を立て、主君一族に気に入られるように身を処し、それらを無事に果たすため健康であることが一番であると、まつくすは考え、それを願ったのである。戦国時代の武士社会における現実の一面をまつくすの銘は素朴ながらよくうつし出したものといえよう。
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