下総原氏
月星(九曜に半月)
(桓武平氏千葉氏族)

 原氏の出自に関して、「千葉大系図」には上総権介千葉常長の曾孫常途が原四郎を称したことが記されている。そして、常途は「上総国を分け与えられ、千葉生実城に居す」とある。しかし、常途以降の記載はなく、のちに千葉介満胤の子胤房が原氏を中興し生実城にいたと書かれ、常途から胤房に至る間のことは不明である。また「千学集」には、原氏は常長の子頼常から始まり、十一世続いて胤惟に至り最後は女子のみとなったと記されている。加えて「神代本千葉系図」には上総介忠常の子常宗が原四郎を称したとある。いずれにしろ、明確なことは不明というしかないものである。戦国時代に下総で活躍する原氏は、千葉介満胤の次男胤高が、応永年間に小弓城主となり原氏を称したことに始まり、胤高が応永二十五年に卒したあとは子の胤親が継いだ。
 他方、原氏は千葉氏の一族で、千葉介胤貞の四男四郎高胤が、下総国香取郡原郷を領して原を称したといわれ、千葉介兼胤の後見人となって以降は千葉宗家の筆頭家老として宗家を支えた。原四郎高胤が領したと思われる下総国千田庄・八幡庄・臼井庄はいずれも九州千葉氏の所領であり、九州千葉氏の流れというのが事実かと思われる。伝によれば、高胤の子胤親は千葉介貞胤に仕え、勅勘を蒙った貞胤が上京してこれが偽りであると訴え出たとき、胤親も貞胤に従って上洛した。ところがその上洛中に楠木氏らの挙兵があり貞胤は足利軍に属して奮戦、観応二年(1356)に至って勅勘を解かれた。しかし、ほどなく貞胤は病を得て病没してしまったため、胤親は下総に帰り貞胤の嫡男氏胤の補佐役となった。貞治元年(1362)、氏胤が没すると嫡男満胤の補佐人となり、円城寺氏とならんで千葉宗家の老臣となった。
 このように、下総の戦国時代に大きな足跡を残した原氏の出自には諸説があり、いずれが正しいのかはにわかに判断できないものである。しかし、高胤が原氏を称して原氏中興の祖となり、胤房に至って千葉氏の内訌の一方の主役となり、千葉宗家を滅亡させるに至ったことが原氏発展の端緒となったようだ。

■前の原氏--参考略系図
 
  
●千葉宗家の興亡

 胤房は、応永二十年(1413)に家督を継承し千葉介満胤の老臣となった。満胤亡きあとは兼胤、ついで胤直に仕え、円城寺尚任とならんで千葉家の両執権となった。
 そもそも南北朝の内乱以降の関東には、室町幕府から関東の政治を委嘱された鎌倉府が設けられ、その主である関東公方は足利尊氏の子基氏に始まる足利氏が世襲し、それを関東管領である上杉氏が補佐する体制が成立していた。ところが、関東公方と室町将軍家との間は必ずしも円満ではなく、対立関係となることが多かった。とくに持氏が関東公方になると、管領の上杉氏憲(禅秀)と対立し「禅秀の乱」が起った。
 乱は幕府の支援を受けた持氏が勝利したが、以後、持氏は禅秀に加担した諸将を討伐しはじめた。そのことは結果として公方持氏の専制体制を推進することにつながり、持氏の行動を幕府は危険視するようになった。その状況を察した管領上杉憲実は持氏に諫言を行ったが、持氏は憲実を幕府寄りとして敵視するようになり、ついに憲実討伐の兵を発したため「永享の乱」が起った。この乱に、幕府は管領上杉氏を支援して持氏討伐軍を送り、敗れた持氏は捕えられて自害、鎌倉府は断絶した。
 その後、「結城合戦」を経て。持氏の子成氏が赦されて鎌倉府が再興された。ところが新公方となった成氏は父や兄に味方して没落した結城氏らを再興させたため、それに反対する管領上杉憲忠と対立するようになった。そして、享徳三年(1455)、足利成氏は憲忠を殺害したため「享徳の乱」が勃発した。以後、関東は公方と管両上杉とに分かれて合戦が打ち続いた。
 この関東の争乱に対してに将軍義政は上杉氏を支援して介入、駿河守護職今川範忠を派遣した。このとき、千葉介胤直は成氏を諌め将軍に許しを請うように説得したが、成氏は聞かずかえって軍を集めたため、胤直は成氏を見限って幕府側に寝返った。そして、幕府の追討を受けた成氏は鎌倉を失って下総古河に逃れた。

●原氏の台頭

 このころ、千葉家中では老臣の原胤房と円城寺尚任との不和から内紛が生じていた。原氏と円城寺氏との内訌の背景には、鎌倉時代以来の惣領制の崩壊があった。すなわち、惣領を中心とする一族の結合形態に破綻がきたし、庶子・一族、被官らが台頭、宗家・主家に対して自立の気概を見せるようになっていたのである。そして、そのような動きが下剋上の風潮をよび、群雄割拠、戦国大名の登場へと時代を突き動かしていったのである。
 千葉氏の双璧である原氏と円城寺氏との対立も惣領制の崩壊に根ざしたものであり、胤房が古河公方成氏に、尚任が上杉=幕府方に加担するという図式であった。そして、互いに主家の千葉介胤直を自分の陣営に引き入れようとして暗躍し、胤直は幕府軍の介入もあって円城寺氏に与して成氏方から上杉方に属することに決したのである。
 ここに至って胤房は千葉宗家と対立、成氏の支援を恃んで千葉一族の馬加康胤を擁立すると胤直の拠る千葉郷亥鼻城に攻め寄せた。胤直・胤宣父子は敗れて、香取郡千田庄志摩城へと逃がれた。胤房らは追撃の手をゆるめず、胤直らが逃げ込んだ多古城・志摩城を取り囲んだ。進退窮まった胤直と胤宣は自害し、千葉氏の嫡流は滅亡した。その結果、馬加康胤が足利成氏から「千葉介」に任じられ家督を継承し千葉宗家となった。まさに、下剋上の先がけと呼ぶにふさわしい胤房の行動であった。
 胤房は千葉宗家追討の功績によって康胤の家宰となったが、康胤・胤房の天下は続かなかった。滅ぼされた胤直のあとは弟の賢胤の子実胤と自胤が管領上杉氏の支援を得て市川におり、京都の将軍足利義政は実胤と自胤を助けて康胤を討たせるため、千葉一族で美濃国郡上郡の東常縁を下総に下したのである。下総に着到した常縁は一族を集めて印旛郡佐倉城に攻め寄せ、敗れた康胤・胤房らは千葉城に逃がれた。
 翌年、常縁は千葉城を総攻撃し千葉城はあえなく陥落。胤房は逃亡し、康胤は上総・下総の国境である村田川で自刃して果てた。康胤のあとは孝胤が継ぎ、成氏は実胤・自胤の拠る市川を攻め、実胤を石浜に自胤を赤塚に追った。以後、実胤は武蔵千葉氏となり、千葉氏は二流に分かれて対立することになった。

●関東の戦乱

 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起った。以後、日本は一世紀にわたって戦国時代が続くことになる。一方、関東は「享徳の乱」をきっかけとしてすでに戦国時代といえる状況にあった。そして、古河公方成氏と新たに幕府から下された掘越公方=上杉方との争いは激しさをましていた。
 文明三年(1471)成氏は掘越公方を打倒するため、兵を率いて伊豆に入ったが三島において大敗を喫し古河に逃げ帰った。これに対し、上杉方の長尾景信が古河城を攻撃し古河城は陥落、公方成氏は千葉介孝胤の居城である寺崎城に逃れた。
 この事態に、孝胤は房総の諸将に激を飛ばし、安房の里見義実、上総の武田、小金の原氏らが馳せ集まって成氏を守護した。それに、関宿城の簗田氏、騎西城の佐々木氏、下野の那須・宇都宮氏らも加わったことで、翌年、成氏は上杉方の守兵を追って古河を回復することができた。対する上杉方は、文明十年十二月、太田道灌が千葉介孝胤を討つため国府台に出陣し要害を構えた。これに対し、千葉介孝胤は原景弘・円城寺図書之助・木内兵部太郎らを従えて出陣、東葛飾郡の境根原で合戦となり、敗れて原・木内ら多くの兵が討死し千葉方は臼井城に敗退した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠、武蔵千葉自胤をして臼井城を攻撃させたが、臼井城は容易に落ちなかった。そこで自胤は上総武田氏を攻撃し武田氏らを降すと、太田資忠も臼井城を攻め落としたが自身は討死したと伝えられている。その後、自胤は臼井城に城代をおいて武蔵に帰り、敗れた孝胤は寺崎城に帰った。その後間もなく臼井城を攻めて、守兵を追い払い同城を回復した。
 臼井城の攻防戦から間もなくの文明十四年、将軍足利義政と公方成氏との間に「都鄙の合体」と呼ばれる和睦が成った。そして、文明十六年(1484)ごろ、常縁の子で下総上杉方の中心人物であった縁数は常縁の死を契機として美濃国郡上郡へ帰国した。これにより、下総の上杉勢力は後退し原氏は小弓城を回復した。
 それから四年後の文明十八年、一連の関東の戦乱において扇谷上杉氏を援けて活躍した太田道灌が主君である扇谷上杉定正によって謀殺された。そして、その翌長享元年(1487)より、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との対立が武力衝突へと発展していった。さらに、延徳三年(1491)に掘越公方政知が死去すると後継問題から内紛が起り、それに乗じた伊勢長氏が掘越を攻撃し伊豆を奪い取ると伊豆韮山に移った。そして、明応四年(1495)、小田原城主の大森氏を追い払うと小田原を本拠とし、両上杉氏の内紛に乗じて相模・武蔵に進出、たちまちのうちに後北条氏五代の基礎を築き上げたのである。

●原氏の勢力拡大

 ところで、原胤房がいつどこで死去したのかは不明だが、胤房のあとを継いだのは胤隆で、胤隆の史料上の初見は、文明十一年(1476)の「香取庄青根村」を香取社に寄進した『胤隆寄進状』である。紆余曲折はあったものの原氏は胤房・胤隆の代に、強大な勢力を築き上げるにいたった。
 文亀三年(1503)、小田原の北条早雲が葛飾郡まで攻め寄せてきたときには胤隆の嫡男胤清が総大将として出陣し早雲勢を追い払っている。
 永正年中(1504〜1520)になると、原氏は上総武田氏と争うようになり、戦いのたびに原勢は武田勢を撃退した。永正七年(1510)八月には里見氏が上総に侵攻してきたが、原氏は千葉勢を率いてこれを撃退し、永正十年(1513)には北条氏綱・氏康の下総侵攻を迎え撃ち、葛飾の戦いで氏綱の軍と数回に及ぶ合戦を展開、後北条勢に壊滅的打撃を与え氏綱・氏康の野望を退けた。一方、合戦のたびに敗戦を喫していた武田氏は、原氏攻略は自力では無理と判断して、奥州を放浪していた足利義明を上総に招いて厚い保護を加え、永正十四年(1517)、義明を大将に据えると里見義堯を誘い小弓城に攻め寄せた。義明を大将とする武田・里見らの上総連合軍の攻撃にさすがの小弓城も落城、胤隆は討死し城代の原友幸は高城胤吉の根木内城に逃走した。このとき、一族の原友胤父子は甲斐国に逃れて守護・武田信昌に仕えた。翌年、足利義明は小弓城に入り「小弓御所」と称され、里見・武田氏らの支援をえて勢力を拡大するようになった。
 大永元年(1521)、勝胤が千葉介を継ぐと胤清はその執権職に就いた。そして、勝胤とともに小田原の北条氏綱と結び小弓城奪還を計ったが、このときは北条氏綱に時期尚早として退けられた。
 天文七年(1538)十月六日に起こった「国府台の合戦」で、千葉介昌胤・原胤清らは足利晴氏=後北条側として出陣した。翌七日、氏綱は相模台を攻略しあわてて北上してきた足利義明の軍勢と矢作台で激戦となり、「小弓衆打負、御曹司様、上様、御舎弟基頼御討死」とあるように、足利義明・基頼・頼純はすべて討死した。こうして小弓城は十月九日、北条氏綱の手によって落とされ原胤清に返還された。しかし、小弓城は義明方の手によって廃墟と化しており、胤清は北方の岡に新たに城を築いて嫡男胤貞を入れ、自らは小弓城を修復して居城とした。

●打ち続く戦国時代

 弘治三年(1557)、同じ千葉一族で臼井城主の臼井景胤が死去した。景胤は死に際しまだ幼い嫡男久胤に「小弓城の原胤貞をここに招いて土地を守れ」と遺言した。久胤はこれを守って胤貞を臼井城に招き、家政を委嘱した。胤貞は臼井をよく治めたため、人々から慕われるようになり、逆に臼井久胤は家臣たちからないがしろにされるようになってしまった。この事態を久胤が快く思うはずはない。やがて、永禄四年(1561)上総の正木時茂の軍勢が臼井城に攻め寄せ城が落ちると、久胤は千葉氏の麾下を去って結城晴朝の元に奔り結城氏に臣従してしまった。
 一方、生実城に逃れた胤貞は、千葉介胤富の軍勢とともに臼井城に猛攻をかけて、正木時茂から城を奪還した。ところが、その前年に初めて関東に出陣してきた長尾景虎(上杉謙信)が小田原城に向かって出陣したため原氏は下総の守備のために軍勢を戻さねばならなくなった。これを好機とした正木時茂は北上して上総を制圧し、下総へと侵入してきた。時茂は佐倉城を攻略、臼井城も激戦のすえに攻め落とし生実城までも攻略した。その後、小田原城の包囲を解いた景虎は、鎌倉に入り、上杉憲政から「関東管領職」と「上杉の家督」「家紋」「系図」を譲られて「上杉政虎」と改めた。さらに政虎は足利晴氏の病死をうけて、晴氏の嫡男藤氏を新たな古河公方として擁立し、上杉憲政・近衛前久を古河城に入れて自らは越後へと帰国していった。
 謙信が越後に帰ると北条氏康が攻勢に転じ、古河城に猛攻をかけた。このため、古河公方・足利藤氏らは里見氏を頼って上総へ逃れ、上杉憲政・近衛前久も越後の上杉政虎を頼って落ちていった。この結果、古河を逃れていた藤氏の弟義氏が後北条氏により古河公方に擁立され、原胤貞も生実城に猛攻をかけて奪還に成功した。さらに、翌年には正木時茂の手にあった臼井城を攻め落とし失っていた旧領を奪還した。
 そして永禄七年、北条氏康と里見義堯・義弘父子、太田資正連合軍との間で第二次国府台合戦が行われ、里見勢は大敗を喫した。原胤貞は千葉介胤富・高城胤辰らとともに北条氏康に味方して勝利に貢献した。そして、勝ちに乗じた氏康・氏政らは里見軍を追撃し後北条氏の勢力は下総から上総にまで及ぶようになった。この合戦で里見氏が敗退したことは、下総の千葉一族にとって勢力挽回の機会を与えられたことになり、臼井城主原氏は次第に自立性を強め千葉氏を凌ぐようになっていった。

●謙信との戦い

 翌永禄八年には東金城主酒井胤敏を率いて、上杉輝虎に内応した土気城主酒井胤治を攻撃したが成果はなかったようだ。一方、胤治方は胤敏に反撃し百余人を討ち取る戦果を挙げ、さらに胤治は上杉輝虎に支援を頼み、これに応えた輝虎は再び関東に出陣してきたのである。
 翌年、謙信は下総に兵を入れ、高城氏の居城である小金大谷口城を落し、臼井城に攻め寄せた。城を落された高城氏をはじめ、根古谷城にいた千葉介富胤らが臼井城主の原胤貞を援け、後北条氏の兵も臼井城を支援した。臼井城をめぐる戦いは激戦であった思われるが、どのような戦いが行われたのかは軍記物に記された合戦談から知られるばかりである。とはいえ、謙信勢の猛攻の前に臼井城は落城寸前にまで追い込まれ、堀一重を残すばかりとなったようだ。しかし、謙信勢に対する援軍を後北条勢に阻まれて里見氏が送れなかったこと、また、後北条氏が後詰めにおり長陣を嫌った謙信は包囲を解いて越後に引き揚げたことで臼井城の危機は去った。形はともあれ、この攻防戦において上杉謙信を退けた原胤貞の武名がおおいに揚がったことは言うまでもないだろう。
 以後、胤貞は臼井城にあり、嫡子の胤清は生実城主として原氏の勢力維持・拡大に努めた。その後、胤清のあとを胤栄がついで原一族の惣領になり臼井・生実の両城を支配して千葉宗家と肩を並べる存在にまで勢力を拡大した。さらに、臼井衆を従属下に置き、その影響力は下総を越えて西上総にまで及ぶようになった。『関八州古戦禄』には「千葉百騎、原千騎」とあり、千葉氏に代わって原氏が下総の有力者となっていたことがうかがわれる。こかくして戦国末期になると原氏は後北条氏の「御旗本他国衆」として把握され、下総・上総の国境地帯において強大な在地領主制を展開するに至っていたようだ。

●下総原氏の終焉

 天正十八年(1900)、豊臣秀吉の小田原征伐が起こると千葉氏とともに小田原城に籠城、その最中の六月に胤栄は没し、子の胤義が継いだが居城の臼井城は秀吉勢に攻められて陥落した。そして七月、小田原落城とともに所領を没収され流浪の身となり、下総に勢力を振るった原氏も没落した。
 その後、胤信が徳川家に召出されて旗本に列し鉄砲組頭となった。しかし、キリスト教に入信して洗礼を受けジョアンを名乗るキリシタンであったことから役を辞して江戸を出奔、ついに元和九年(1623)芝高輪において火あぶりの刑となった。

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