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跡部氏
丸に三階菱
(清和源氏小笠原流)


 応永二十四年(1417)、上杉禅秀の乱で敗れて自決した武田信満とその兄弟・息子・孫・女房たちの多くは戦死または自害した。生き残った武田一族は甲斐国を遂われて四散した。ここに甲斐武田家は存亡の危機に立たされたのであった。
 敗者があれば必ず勝者がいる。すなわち、同じ甲斐源氏の後裔逸見氏がそれであった。禅秀の乱に舅であるがゆえに謀叛に巻き込まれた武田信満、それに対抗して逸見一族は関東公方足利持氏と結び、禅秀の謀叛の失敗と信満の敗死を機に甲斐一国の主導権を掌握した。しかし、室町将軍足利義持は逸見氏の甲斐守護任命を渋った。関東公方持氏は再三、幕府に掛け合ったが、結局、任命不許可の理由書が持氏に送られ、逸見氏の甲斐守護への野望は挫折した。
 しかし、逸見有直は甲斐守護になりすまして、采配を振るっていた。面目を潰された幕府は、信満の弟の穴山満春を甲斐守護に任命することにした。満春は兄信満を助けて、禅秀の乱では甲斐の留守を守り、逸見一族の叛乱をしっかりと抑えていた。しかし、兄の敗死によって、高野山に上っていたのであった。幕府からの要請を受けた満春が、信元と名乗りを改めて、小笠原政康の信濃軍と穴山遺臣に守られて甲斐に入国したのは、応永二十五年三月のことであった。

甲斐守護代に任ず

 信元を支援するため政康は、代理として縁続きの跡部駿河守・上野介父子を甲斐へ派遣した。跡部一族は従卒をまとめて甲斐へ移住し、守護代として府中に根をおろすこととなった。やがて、跡部父子の不遜な態度が表面化し、信元との間にも険悪な空気が流れるようになる。跡部氏もまた、逸見一族同様甲斐一国を乗っ取ろうとする野望に燃えていたのである。こうした孤立状況のなか、信元は死去した。
 信元亡きあと、養子の伊豆千代丸はまだ幼く、跡部氏は後見役として露骨に本性をあらわしてきた。ここに、伊豆千代丸の実父で信元の甥にあたる武田信長が跡部父子に挑戦した。跡部氏は逸見一族と結んで、信長と対決する。応永二十八年(1421)、両軍は荒川河原で激突、戦況は一進一退、いずれも甲斐源氏の騎馬戦術で鍛えられた武士たちである。まさに血で血を洗う同族の戦いであった。その後九年にわたり、信長は跡部父子と争うことになる。しかし、跡部氏を倒すことはならず、信長は失意を抱いて甲斐を去った。最大の敵であった武田一門の信長をを駆逐した跡部父子は、実質的に甲斐守護を継いだも同然となった。
 甲斐国を去った信長は、関東公方足利成氏に仕えて、その重臣となり、房総武田氏の祖となった。
 空席となった甲斐守護は、信満の嫡男信重の消息が分かったことから、信重が継ぐことになった。信重は信濃勢二千の護衛を率い、小笠原政康とともに甲斐に入国した。じつに二十一年ぶりの帰国であった。守護代の跡部氏一族は、攻勢に出た幕府、武田信重の帰国を知るや、信重の入国を土下座して迎えた。
 信重の死後、信守が甲斐守護となるが在位五年で死去し、九歳の嫡男五郎が家督を継いだ。病弱なうえに幼い五郎に代わって政務を執ったのは、守護代の跡部上野介であった。いままで頭を抑えていた将軍義教、武田信重・信守父子、それに小笠原政康、さらに逸見有直もつぎつぎに世を去って、跡部を制する邪魔者はまったく姿を消していた。ここに、跡部氏は甲斐国乗っ取りの策謀を再び進めたのである。国守代行者の地位を利用して上野介は、武田譜代の豪族たちを手なずけ幕下に引き入れていった。
 よそ者の跡部が甲斐に地盤を築きあげたのは、武田一門が衰微していたこともあるが、跡部父子の荒々しさの反面、どこか人間的魅力もあったのだろうか。

武田氏の復活

 十四歳になった五郎は元服して信昌と改めた。信昌は、父の遺言でもある「跡部打倒」を胸の奥にしまい、病弱からの脱皮を志して、武芸、学問に身をいれ、甲斐国主となるための鍛練に励んだのである。信昌を支えたのは、叔父の穴山信介、今井信経・信慶父子らの親類筋であった。かれらにとっても信昌の成長をまって、跡部一族を壊滅させる肚を決めていたのであった。そして、ついに信昌は上野介景家の出入りを禁じ、親類衆で人脈を固めた。こうして、甲斐国を二分しての武田と跡部の抗争は年ごとに激しさを加え、寛正六年(1465)六月に至り、信昌は跡部方に宣戦布告した。一方、景家も夕狩沢に砦を築いて信昌勢を迎え撃った。
 そして、七月二日、信昌は跡部勢に総攻撃を敢行、跡部勢は武田方に寝返る一族も出て、優勢となった武田軍の猛攻を浴びて崩れた。負傷した景家は七人の重臣とともに捕えられて、小田ノ城下で潔く切腹して果てた。佐久から甲斐に移住して四十七年間、守護代として権勢を振るった跡部一族は幕を閉じたのである。
 時代が降って、武田氏に仕えて活躍した跡部氏に勝資が出た。先の跡部氏と同じく小笠原氏の一族だが、系譜は異なっているようである。勝資は信玄・勝頼の二代にわたって仕え、重職にあった。天正十年勝頼滅亡に際して殉死している。
 長男信業も信玄・勝頼に仕え、武田滅亡後は小田原北条氏に属した。二男昌勝は徳川家康に仕え、長久手の役に従軍し、のちに上総国望陀郡に采地を受けた。子孫は徳川旗本家として続いた。


■参考略系図


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