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足利氏(将軍家)
●足利二つ引/五七の桐
●清和源氏義家流
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足利氏は清和源氏で、前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎義家の孫義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まる。名字としての足利は、平将門の乱に活躍した藤原秀郷の後裔淵名兼行の子成行が下野国足利を開発して足利を称したのが先になる。
●足利氏の発祥
八幡太郎義家の三男義国は、義家が足利氏の女(成行の孫娘とする説が有力)との間にもうけた男子と伝えられる。成長した義国は都にのぼり加賀介に補されたが、康和二年(1100)、一族の佐竹冠者昌義の起した乱の鎮圧を命じられ、常陸に下った義国は昌義を討ち取った。その間、父義家が死去したことで、本来なら源氏嫡流の家督を継ぐ身にありながら、弟の義忠が義家のあとを継いで源氏の惣領となった。一方、義国は昌義の祖父で叔父にあたる源義光との間で小競合いが起り、さらには勅勘を蒙る身となり、ついには下野に土着するに至ったのである。
義国の嫡男義重は新田荘を開墾して新田義重と称して新田氏の祖になり、二男の義康が足利荘を譲られて足利義康と称した。その後、義康は上洛して鳥羽法皇に北面の武士として仕え、蔵人や検非違使に任官し、陸奥守にも補任されて「陸奥判官」とも呼ばれた。保元元年(1156年)の保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方として参陣した。戦後、論功行賞として昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官するなど将来を嘱望されたが、翌年病を得て三十歳の若さで歿した。
平治元年(1159)に起こった平治の乱に源義朝が敗れると、足利荘は平重盛の所領となり、藤姓足利俊綱が管理するところとなった。以後、平家全盛の時代を迎えると源氏一門は雌伏を余儀なくされ、源姓足利氏の動向には不明な点が多い。やがて、治承四年(1180)、以仁王が挙兵すると義康の長男足利矢田判官代義清は、以仁王に味方したが敗れて京から逃げ落ちた。その後、義清は木曽義仲の挙兵に加わり、寿永二年(1183)、備中水島の合戦において弟義長と共に討死した。
一方、足利荘にあった義康の三男義兼は、早い時期から源頼朝の麾下に加わっていて、兄たちの死後、源姓足利氏の嫡流を継ぐことになった。義兼の母親は熱田大宮司季範の娘で頼朝の母の妹にあたり、 頼朝とは従兄弟であったことが家督相続に有利に働いたものと考えられる。
一時期、平家に属して勢力を振るった藤姓足利氏は、頼朝に攻められた足利俊綱が家臣の桐生六郎に殺害され、俊綱の子忠綱は壇ノ浦で敗れて没落した。その後、忠綱は足利に帰ってきたが、足利荘はすでに足利義兼の領地となっており、追い詰められた忠綱は飛駒山中で自殺して藤姓藤原氏は滅亡した。
■足利氏--初期閨閥系図
●足利氏の勢力伸張
義兼は文治五年(1189)の奥州合戦にも従軍し、頼朝の「御門葉」として敬われ、鎌倉幕府が開かれると、 将軍への随行などの序列では常に最上位におかれた。頼朝が死去したのち執権北条氏が権力を確立していくと、足利氏は北条氏に協力することで自らの地位を発展保持していった。
鎌倉時代は北条氏と縁戚関係を結び、義兼のあとを継いだ義氏は三河守護となり、その子泰氏は上総守護をも兼ねて、所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。かくして、各地の所領に一族を配したことで足利一族は大いに発展していった。しかし、北条得宗家の専制強化によって多くの御家人が失脚、あるいは滅亡し、足利氏も鎌倉末期には「百姓のごとき」生活を送っていたと記している記録もある。
たしかに、北条体制が確立されていくにつれ、幕府創業以来の御家人の多くが没落していった。足利氏も北条氏の下風に立つようになったが、源家将軍家断絶後は武門源氏の嫡流とみなされて外様御家人中第一の地位を有し、赤橋・金沢など執権・連署を勤めた北条氏一門から正室を迎えていた。
鎌倉時代の足利氏代々のなかで特筆されるのは家時であろう。『難太平記』によれば、足利氏には源義家の「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置文が伝わっており、家時が丁度七代目に当たっていた。未だもってその時ではないことを嘆いた家時は八幡大菩薩に祈って、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」 と語って腹を切ったと書かれている。
家時の死後、家督を継いだ貞氏は鎌倉幕府が崩壊する直前の元弘元年(1331)九月に没した。貞氏の嫡男高義は死去していたため、高氏が足利氏の家督を継いだ。高氏は元応元年(1319)に十五歳で元服したが、その前年の文保二年(1318)に後醍醐天皇が即位している。尊氏と後醍醐天皇が同時期に歴史に登場したことは、何ともいえない歴史の符合を感じさせる。ちなみに、高氏の「高」は北条高時から一字を拝領したもので、のちの尊氏は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を拝領したものである。
●足利幕府を開
後醍醐天皇の討幕運動に端を発した「元弘の役」が起ると、幕府は北条氏一門の名越高家と足利高氏を大将として大軍を上洛させた。このとき、高氏は幕府の要求にしたがい、起請文を書き、妻登子と嫡子千寿王(のちの義詮)を人質に置いて、一族・被官以下三千余騎を率いて鎌倉を出発した。
入京した尊氏は六波羅の軍議にしたがい、四月二十七日、山陰道を伯耆船上山に向けて出京した。この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家は赤松則村と戦って敗死した。これを聞いた高氏は、ついに討幕の決意を固め、そのまま丹波国に入ると篠村に陣した。篠村八幡宮の社前に旗を揚げ、願文を奉納して所願の成就を祈った高氏は、しばらく近国の武士たちの参集を待った。五月七日、大挙して京都に攻め入り、六波羅を陥落させた。その翌日、東国では新田義貞が旗揚げし、二十一日に鎌倉幕府を滅亡させた。
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