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有浦氏
●三つ星
●嵯峨源氏渡辺氏流


 有浦氏は松浦党の一である佐志氏の分かれで、佐志氏は源久の六男調が佐志に分封したことにはじまる。そして、佐志調の後裔である佐志源二郎勤の子披が、南北朝期の康永元年(1342)に有浦一帯を譲り受けた。のちに披は波多村の波多巧の女を室に迎えて波多村を取得し、所領名をもって松浦波多佐志有浦源蔵人披と名乗ったのが、有浦氏のはじめである。とはいえ『有浦文書』によれば、有浦氏は源久の三男石志勝から分流したとなっている。
 南北朝の争乱期を生きた披は、有浦郷を離れて波多氏を継いだことが知られる。それに対して、巧の弟下野守広は反発し、松浦党のほとんどが北朝方に味方するなかで南朝方に加担した。延文四年(1359)の大保原の合戦に際して、松浦党は少弐氏に属したが、下野守広は菊池氏に味方して活躍している。この南北朝の争乱のなかで、披は嫡子の強とともに九州探題斯波氏に従い、筑前長者原の合戦で父子ともに戦死した。
 披のあとは祝が継ぎ、祝の孫勇は三人の子らに所領を分封した。嫡男は松浦波多大和守応、二男は松浦有浦越後守勝、三男は呼子兵庫頭胤を称している。

波多氏の忠臣、有浦氏

 有浦氏が確実な史料に登場してくるのは、戦国時代の大永六年(1526)で、『有浦文書』の有浦藤九郎左の「宛行状」である。ちなみに、藤九郎左は波多氏(晴純の子というが疑問)から出て勝の子志摩守威を継いだ人物である。また、永禄年間(1558〜69)に有浦大和守高が、波多盛の後室真芳の怒りを受けて所領を没収された。そのとき、波多氏の重臣鶴田越前守は、大和守高の功績を惜しんでその旧領回復につとめている。
 その後、波多氏では盛の跡目をめぐって内紛が生じ、未亡人は重臣の意見を無視して島原の有馬義貞の次男藤童丸を迎えたため、重臣の日高・鶴田氏らと対立した。ほどなく、日高資・鶴田直が謀殺されたことで、日高・鶴田一族は武力で波多母子を岸岳城から追放するに至った。
 『松浦拾風土記』によれば、後室真芳の勘気を受けた大和守高は小城の真名子に閑居した。そこへ、鶴田氏から誘いがあり、味方になれば有浦を安堵するといってきた。高にしてみれば鶴田氏に恩義はあるものの、有浦と鶴田は同格であり誘いにのることは有浦の面目を保つうえからもできなかった、むしろ、波多氏の再興こそがとるべき道と考え、藤童丸の岸岳城復帰をめざした。高は後室真芳の信頼回復につとめ、値賀伊勢守・青山采女正らの諸将に呼びかけた。
 この大和守高の呼びかけに対して、日高・鶴田らの行状を快く思っていなかった上松浦一族はぞくぞく高に応じた。さらに、高は有力な後ろ楯として龍造寺隆信に協力を求め、藤童丸の実家有馬氏にも援助を依頼するなど岸岳城の回復を図った。そして、永禄十二年(1569)、龍造寺氏の援助を得て、岸岳城を占拠していた日高喜を壱岐に追い出すことに成功したのである。
 親(藤童丸)が波多氏の当主になったが、波多氏の内紛は収まらず、壱岐に逃れた日高氏は平戸松浦氏を頼んで名護屋に上陸してきた。この合戦において、有浦大和守高の弟中務少輔鎮は日高方の将中尾主計と刺し違えて戦死している。その後、波多氏は龍造寺氏に属して各地に出陣、有浦氏もまたそれに従った。天正八年(1580)、隆信の肥後攻めに出陣した高の嫡子至は山鹿の戦いで戦死し、家督は二男の治が継承した。

有浦氏、近世へ続く

 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐があり、波多氏も秀吉に款を通じた。そして、翌天正十六年親は上洛し、翌年従五位下三河守となり、豊臣大名としての地位を確立した。
 天下統一を果たした秀吉は、朝鮮出兵を企て文禄元年(1592)諸大名に陣ぶれを行うと、前線基地として肥前名護屋に城を築き朝鮮出兵を開始したのである。波多氏も渡海を命じられ、有浦大和守高は留守居を兼ねて、名護屋城への駐在を命じられた。高は秀吉のために茶室を建て、留守居としての職責を果たしている。その後、波多三河守が朝鮮における不首尾によって所領没収となり、波多氏はにわかに没落となった。
 そのとき、高は名護屋城の茶室の一件を持って、弟の正とともに旧領を安堵された。のち、唐津を与えられた寺沢志摩守の与力となり、高の嗣子治は天草に転封となった。しかし、寺沢氏ものちに改易となり、新たに入部してきた大久保忠職に仕え、大久保氏の小田原転封に従って肥前から去って行った。・2005年4月13日

参考資料:鎮西町史/佐賀の戦国人名志/松浦史 ほか】

●松浦氏の家紋─考察


■参考略系図
 
  


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