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青方氏
八つ藤/揚羽蝶/三つ星
(藤原道長流)


 青方氏は肥前国松浦郡青方郷(五島上五島町)を本拠とした土豪で、「青方氏系図」によれば関白藤原道長の後裔という南都東大寺の阿闍梨尋覚が祖となっている。尋覚は元暦元年(1184)、母方の伯父で肥前国小値賀島に住していた清原八郎是包の養子となり、是包から所領を譲られた。
 ところで、是包のもうひとりの妹三子は、御厨執行松浦源四郎直に嫁いで山代源六囲をもうけていた。是包は三子に対して、両島を譲る下文を与えていたことからのちに問題が生じた。すなわち、直は三子を離別して、平戸の女性を妻とし松浦十郎連を生んだ(連れ子ともいう)。そして、直は三子が譲られた両島は連のものだとして鎌倉に訴え出たのである。
 その後、是包は何者かによって殺害され、さらに是包の後妻が生んだ松法師も殺害されてしまったため、両島譲渡のことを知る人物がいなくなり、訴訟のことは尋覚の勝訴となった。そして、尋覚は建久七年(1196)、幕府から地頭職に任命され青方を領する鎌倉御家人となったのである。

青方一族の相論

  尋覚には通高と家高の二子があり、家督は家高が継いだ。弘安四年(1281)の元寇に際して、家高と嫡子能高の二人は家子郎党を従え奮戦し、勲功として青方家高に肥前神崎庄、筑後国三潴庄是友名の田畑及び地頭職を賜っている。そして、この家高がはじめて青方氏を名乗ったのである。しかし、青方家の成立が最初から所領争いから始まったように、青方家は宿命的に同族の所領争いに終始している。
 能高の弟弘高の子、時高は白魚に住んで白魚九郎入道行覚と称し、永仁六年(1298)肥前の要害所補修を命じられ、肥前姪浜にあった。帰国後、青方孫四郎高直より領内の祝言島、折島を横奪せりと鎌倉に訴えられ白魚入道は敗訴している。
  嘉元三年(1305)、青方高家の子八郎(高継)・又次郎、親類曽根与一父子以下十余人は、峰貞(松浦肥前守定)の所領、青方の住人宗次郎の住宅と塩屋を焼き払い、銭貨財物をかすめ取る乱妨に及んだ。ついで正和四年(1315)、浦部(中通)島地頭職について、白魚時高と峰貞(平戸松浦)との間に争いがあり、これを鎌倉に訴え出た。訴訟は係争十四年におよび、判決は貞を地頭職とし青方氏を下沙汰職とした。
  このようにして、中通島は紛争の絶え間がなく、つにには豪族らが任意に土地人民を私有し、平戸、青方、宇久氏らの分有するところとなった。そして浜ノ浦、飯の瀬戸、続、道土井の四ケ郷は平戸に属し、今里、三ケ浦の二ケ郷は若松村の荒川、宿の浦と共に平戸、志佐の二方領となり、船隠、築地、米の山、大らいかわち、古里、桐、里は平戸、宇久、志佐の三方領となった。


戦乱のなかの青方氏

 南北朝の争乱期になると、青方氏は孫四郎直高・重・固の三代にわたって、北朝方として出陣した。すなわち、建武三年(1336)、菊池城の合戦、筑後鳥飼・津留・北野原の合戦、宇治川の合戦に出陣、翌四年には肥後犬塚原の合戦に出陣した。この戦いに、宇久孫二郎、志佐三郎らも青方氏とともに参戦している。戦後、孫四郎は肥前国安富庄の田地の配分、筑前国夜須庄内今里村地頭職十五分の一を恩賞地として得ている。
 その後、重は貞和六年(1350)に肥前国塚原庄・萩尾原・於多久・小城牛尾城の戦いに出陣、正平十七年(1362)には筑前国長者原合戦に軍忠をあらわし、ついで、同年筑前国於怡土の陣に参加して活躍している。
 そのような打ち続く戦乱のなかの応安六年(1373)、宇久・有河・多尾、そして青方の五島住人らは一揆契諾を結んでいる。また、永徳二年(1384)には、下松浦党三十四名の領主たちが一揆契諾を結んだが、青方固が宇久伊豆守、有河石見守らとともに名を連ねている。その後、嘉慶二年(1388)の一揆状に青方固、明徳三年(1392)の一揆状に青方重、応永二十一年(1414)の五島住人一揆状には青方近が署名している。このように、青方氏は松浦一族に加わって一揆を結んでおり、次第に松浦一族化していったのである。

宇久氏の五島統一

 五島は宇久氏が祖家盛以来統一していたというが、小値賀には松浦氏、浦部島以南においては青方・白魚・奈留らの青方一族がいて、統一は有名無実なものであった。応永二十年(1413)、宇久・有河・青方住人らによって一味同心して宇久松熊丸を取り立てることを契諾した。松熊丸は宇久覚の養子で、のちの伊豆守勝である。ついで、同年のうちに宇久松熊丸を名代として取り立てる云々の契諾を結び、宇久党の党首として宇久勝を立て、宇久氏は五島統一への一歩を踏み出している。翌二十一年には、青方党として、青方浦の内一円、一族の一揆契諾を結んでいる。
 応永二十九年(1422)、青方氏と平戸松浦氏との間で祝言島・尾礼島の所領争いがあり、宇久勝の調停により、祝言島は青方、尾礼島は浜の浦領となった。五島は宇久伊豆守勝の登場によって、名実ともに宇久氏による統一がなされたのである。
 青方氏では進の代のことであった。青方氏は進の代より、中野・重願田方面の開発を行い、寺社の復興に尽くし、勘合船の寄港地となしその警固に当たっている。青方氏が国人領主として活動していたことがうかがわれる。青方進のあとは鬼法師丸が継いだが早世したため、青方一族の奈摩氏から頼が入った。
 頼のつぎの堯正の代の明応二年(1493)、志佐直谷城主の志佐純昌(純勝)が、大内氏の命を受けた大村・龍造寺氏の兵に城を包囲され、敗れた純昌は青方氏を頼り二子を連れて五島に逃れてきた。青方氏は志佐氏先祖ゆかりの地である西領を分与して、純昌を迎え入れた。その後、純昌が没すると家老の末竹が悪心を起こし、青方氏から譲られた西領を押領した。しかし、領民は末竹に帰服せず不穏な動きを見せたため、末竹はいずこかへ逃亡してしまった。一方、残された純昌の子らは縁戚にあたる有馬氏を頼って五島を離れ、有馬氏の扶助を受けたがその後の消息は不詳である。
 堯正には嗣子がなかったため、宇久氏より覚の三男続を迎えて青方氏の家督とした。以後、宇久氏に属して、玄重は宇土の陣に参戦し、つぎの玄種は平戸・相浦の戦いに出陣した。玄種の子雅盛に至って、宇久氏の家老となり、四百年間にわたって統治してきた青方の地を離れ、福江に移住していった。青方氏が伝えた中世文書は『青方文書』として、貴重なものである。

【主な参考文献:青方文書/日本史大辞典 など】


■参考略系図


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