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穴山氏
●三つ花菱
●清和源氏武田氏族  
 


 穴山氏は甲斐源氏武田氏の一族で、戦国期には河内地方を領して、国中の宗家武田氏・郡内の小山田氏と並んで甲斐国を三分するほどの力を持った有力国人領主であった。
 穴山氏が武田氏から分かれたのは十四世紀の中頃で、武田信武の五男義武が、巨摩郡逸見郷穴山村に所領を与えられ、その地の名をとって穴山を名字としたことに始まる。義武は父信武とともに足利尊氏に仕え、南北朝内乱期を北朝(=武家)方に属して戦った。しかし、義武が穴山氏を興したということは「系図」以外の確実な史料では確認できず、穴山氏は義武以前にすでに存在していた既成の豪族であったようだ。
 室町期の甲斐国は、ともに甲斐源氏の一族である逸見、武田の両氏が激しく対立した。武田信武はこの事態に対処するため、義武を穴山氏に養子として送り込み逸見氏に備えたとする説があり、傾聴に値するものといえよう。その後、応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」において禅秀方に加担した武田信満が敗死すると、鎌倉府を後楯とした逸見氏が台頭し穴山一族には内訌が勃発したとする記録がある。
 穴山氏初代の義武には子がなく、甥信春の子信元(満春)を嗣子となした。満春は上杉禅秀の乱に際して、兄信満とともに禅秀に一味して鎌倉公方足利持氏と戦った。しかし、禅秀方の敗北となり信満は自殺をとげ、満春も兄と行動をともにして没した。
 禅秀の乱に敗者となった武田氏は離散し、信満の弟信元と信満の嫡子信重は、持氏の討伐を恐れて高野山に逃れ、甲斐は公方方の国人逸見有直に押領されるところとなった。穴山満春には子がなかったため、あとを継いだのは信重の子信介で、この信介のとき本格的に河内領に入ったとされるが、その年代等は不詳である。
 他方、穴山氏が河内領に進出したのは、明徳三年(1392)の南北朝合一によって足利幕府体制が確立したとき、河内地方を長く支配していた南朝方の南部氏が甲州の旧領を捨てて奥州に去っていった。その結果、南部氏の跡が穴山氏に与えたとされ、それは満春のときであったという説もある。

武田宗家の干渉

 満春は禅秀の乱に兄信満に加担した結果、応永二十四年(1417)に敗死したことになっている。しかし、近年の研究によって、満春は兄信満には加担せず、乱後に出家して高野山に上ったことが明らかになった。そして、のちに室町将軍足利義持から呼び戻されて還俗し、武田信元と名乗り、武田氏の惣領職を継承して甲斐守護に任命された。穴山氏を離れた信元は、甲斐に帰国したが逸見氏と対立する事態を容易に収拾できなかった。そこで、信元は信満の子で甥にあたる武田信長の支援を得て逸見氏に対抗した。
 信元の嗣子は早世していたため、信長を養子にしようとしたが幕府はそれを許さず、信長の子伊豆千代丸が嗣子となった。しかし、逸見氏との抗争は武田氏に有利に展開せず、鎌倉公方の親征により武田信長は甲斐を去り鎌倉府に仕え、その後、伊豆千代丸ともども上総に移住していった。一方、信元も応永二十五年から二十八年の間に死去したようで、信元の後継者として信満の子信重が甲斐守護となった。ところが、宝徳二年(1450)武田信重は穴山伊豆守に襲われて戦死した。
 信重を殺害した穴山伊豆守は一説に満春の子といわれ、素行が修まらず満春から勘気を受けて逃亡した。そのため信重の子信介が養子となり家を継いだが、これを恨んだ伊豆守が信重を攻め殺したのだという。『甲斐国志』も穴山伊豆守が武田信重を暗殺したことを記録している。
 いずれにしろ、代々の穴山氏が武田氏宗家から養子を迎えて、家督を継承させている事態は尋常なものではなかった。穴山氏が実子によって家を継ぐようになるのは、ようやく穴山信介の代からである。このような穴山氏の家督相続に対する武田宗家の干渉に対して、穴山氏内部には快く思わない人物が存在していたとしても不思議ではない。そのひとつの事象が、先の伊豆守による武田信重の暗殺であったともいえよう。

甲斐の混乱と穴山氏

 さて、穴山氏の家督を継承した信介は、信俊を称したとも伝えられている。信介の時代は禅秀の乱後の混乱が続いており、甲斐国内を統一しようとする守護信重が穴山氏に信介を送り込み、河内地方を征圧しようとしたものと考えられる。しかし、これは穴山氏との間で抗争を引き起こすことにもなり、先にも記したように、武田信重は穴山伊豆守に暗殺されるという事態になった。
 いずれにしろ、穴山氏はこの信介の代から、かなり明瞭に河内に足跡が見られるようになるのである。信介の跡は信懸だが、兄乙若丸が早世したので家督を継いだものである。このころの穴山氏はまだ河内領の一円支配ではなく、南部領主という限られた地位であったようだ。
 信懸が記録に現れるのは、これまで延徳二年(1490)の大井合戦が初見であるといわれてきたが、文明十六年(1484)掘越公方足利政知の家臣狩野道一に案内されて、武蔵国称名寺に参拝したことが、称名寺の記録である『鏡心日記』に見えている。そして、延徳四年に武田信縄と信昌父子が不和になり、これに信昌派として油川信恵(信縄の実弟)が加わって甲斐国内が争乱したとき、信懸は信昌派に加担したことが記録されている。その後、信懸は出家し、永正十年(1513)に息子穴山清五郎に暗殺された。
 信懸の跡は信綱が継いだが、この時期の穴山氏の記録は混乱をみせている。例えば、信懸を暗殺した清五郎は、穴山氏の系図にはまったく登場しないのである。また、このころは駿河今川氏が甲斐進攻を繰り返した時期で、穴山氏は初め今川氏に帰属していたようである。つまり、穴山氏が治める河内地方は富士川に沿った土地で、駿河から甲斐への交通路でもあり、甲斐侵攻を繰り返す今川氏からの働きかけが穴山氏に対してあったとみて間違いないだろう。そして、家中は武田派と今川派とに分裂し、そのような情勢下で信懸が殺害され、事態を収拾した信綱が家督を継承し武田信虎に従属したものと思われる。
 武田氏に従属したとはいえ穴山氏は河内の領主として独自の領域支配を行い、独自の家臣団も構成していた。ところが、穴山氏の家臣団のなかに、穴山を称する者は一人もいず、親族衆という存在も確認できない。これは、穴山信懸や信綱の兄弟を始め、穴山一族が甲斐の動乱期や信懸暗殺後の混乱、武田信虎との対決、今川・後北条氏と武田氏との合戦という過程ですべて絶えてしまったためと考えられている。信綱は享禄四年(1531)三月に没したが、それは武田信虎が諏訪頼満・反武田派国人衆連合と戦った「河原の合戦」と同年同月である。おそらく、信綱は信虎方として出陣し戦死したものと思われる。

穴山氏の勢力拡大

 信綱の子信友は天文年間(1532〜54)の初め頃に武田信虎の娘を妻に迎え、婚姻政策によって自己の所領の安泰を図り、河内領一帯に権力を及ぼしていった。そして、居館を南部から下山に移し、要害の地を築くとともに小規模ながら城下町を形づくった。この信友の代において注目されるのが金山の開発である。おそらく天文初年(1532)に、武田信虎と駿河の今川氏との間で同盟関係が結ばれたことで、穴山氏は今川氏の脅威から開放され、内政の充実に力を注ぐことが可能となったようだ。
 また、信友の発給した文書をみると、金山の統制、稼山としての竹薮・材木などの規制、そのための奉行の任命、山造りの奉公の督励などが目立ち、河内領の土地柄体質の特殊性が知られる。すなわち、河内領の郷村は渓頭集落や山腹の塊村が多く、山岳資源に生計を求める山岳民によって占められていた。したがって、穴山氏はこの山岳地帯の郷村一つ一つを的確に把握する手段として、郷村の名主層の掌握に務めるとともに、一つの谷筋の幾つかの郷村をまとめて、そこに何人かの有力役人を任命した。それら有力役人に棟別免許や諸役免許を与えて庇護するとともに、山造りの奉公を督励するといった方法で支配権を拡大していったのである。これらのことは、別の見方をすれば穴山氏が武田氏に属しながらも独自な戦国領主としての立場を築き上げつつあったことを示している。
 信友は晴信(信玄)より十六歳の年上で、晴信とは義兄弟の関係にあり、武田氏の親類衆として重きをなした。先述のように、穴山氏は初期のころから武田宗家より度々にわたって養子を迎えていたこともあって、武田一族としての意識が強く、信友は外交や神仏への文書には「武田伊豆守信友」と自署している。これは、子の信君も同様であった。
 こうして信友は武田氏の有力一族として、晴信が信濃侵攻作戦を進める武田氏の勢力拡大時代に、晴信のために外交官的役割を演じた。これは、信友の力量と年齢からくる老巧さを晴信が高く買っていたからであろう。かくして、信友は晴信が新しい統治体制を確立し、出家得度して信玄を称するまで仕えて、永禄三年(1560)に五十五歳をもって死去した。この信友とその子信君の時代が武田氏の後楯もあって、穴山氏は全盛期を現出したのである。
 信友は武人としてばかりではなく、文人としても秀でた人物であったようだ。天文十三年(1544)に冷泉為和が甲斐を訪問した際に、武田信玄は躑躅ケ崎館で歌会を催したが、その時、武田家中を代表して歌会の世話役を勤めたのが信友で、信友は当時の武田家中における第一の風流人であった。

穴山信君の活躍

 信友の死後、穴山家を統率した信君は、武田信玄の次女(のちの見性院)を正室に迎え、武田一族としての繋がりを強化し二人の間には嫡男勝千代が生まれた。政治家としての信君は、父と同じように在家衆である郷村の掌握に力をつくした。信君が発給した文書はおびただしい数にのぼるが、永禄五年(1562)にいたり、書式に変化が見られるようになる。すなわち、角印判の登場と奉行執行の形式で、信君は河内領を大名領国として意識しはじめたことがうかがえるのである。
 穴山氏の領国意識が顕著にあらわれるのは、武田信玄の駿河侵攻作戦と関係がありそうだ。永禄十年(1567)、信玄の駿河侵攻に反対する嫡男義信が自殺を遂げたことで、義兄にあたる今川氏真は甲斐への塩留めを行った。ここに信玄は完全に今川氏と断絶し、以後、信玄は徳川家康との連携を深めていくのである。
 信玄は信君を三河吉田城の酒井忠次のもとに派遣し、家康との間に誓詞を交わした。かくして、信玄は駿河侵攻の軍事行動を推進し、穴山信君が駿河侵攻作戦にはたした外交上の役割は大きかった。それは、小田原北条氏に対して郡内小山田氏が果たした外交上の責務と同じ様な意味があり、甲斐武田氏にとって河内領・郡内領はいざというときに隣国諸大名との緩衝地帯としての意味合いも有していたのである。永禄十一年二月、信玄は駿河へ侵攻を開始し、武田軍の猛攻によって今川氏累代の居城であった駿府城は一夜で陥落した。
 駿河制圧後、信玄は安倍・庵原二郡を穴山信君に任せた。これは、二郡が河内から地続きであったためで、信君は安倍郡内の入江荘江尻に城を構えてその統治に当たった。信君による占領地経営は信玄が信濃や西上野などに派遣した城将の在り方とは異なり、河内領の延長として信君が発給する文書をもって統治が進められた。信玄が信君にそれを認めたのは、駿河侵攻作戦の第一功労者であり、何よりも駿河への進路はすべて河内領を通らねばならず、その交通の要衝も郷村体制もすべて穴山氏の把握するところであったため、必然的にそのようになったものと考えられる。加えて、信君の外交手腕は父ゆずりで、彼以上の人材はなく、いきおい徳川家康などとの交渉は、信君の手腕に頼らざるをえない面が強かった結果でもあろう。
 こうして、穴山氏が治める河内領の独自性は、穴山氏の確固とした地盤となり、穴山氏の大名領国として一歩も二歩も動き始めたのである。さらに、江尻に移った信君は霊泉寺を興し、天正七年(1579)には江尻城に天守閣を築いた。このような信君の行為は、明らかに新領地の統治政策というだけではなく、駿河をむしろ穴山氏の本拠地として意識するようになった現れとみられる。
 また、穴山氏の支配する駿河国は、織田氏に代表される新しい体質を持つ権力圏と、古い封建的体質をもつ戦国大名武田氏の権力圏との接触地帯ともなった。そのような地にあって、信君の若さと聡明は新しい織・豊時代の夜明けを機敏に感じ取った。そのことは、のちに信玄のあとの武田家督を継いだ勝頼が武田氏の旧い体質を御しきれず内部矛盾に突き上げられてしまったとき、武田氏を早い段階で見放してしまう宿命を有することになったのである。

武田氏の没落

 元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の軍を発した。武田軍は破竹の進軍を重ね、十二月、遠江国三方ケ原で織田・徳川連合軍と戦い壊滅的打撃を与え、敗走する徳川軍を追って犀ヶ崖まで追撃した。命からがら浜松城に逃げ込んだ徳川家康の部将天野康景は、奇襲隊を募って犀ヶ崖の武田軍の後方に回って一斉射撃を行った。この天野隊の奇襲によって武田軍は混乱を来したが、穴山信君の勢が奇襲隊を捕捉して一人残らず討ちとった。信君は日頃から鉄砲を重視し、甲州金を使って買い集めていたのである。それが、思いがけない徳川氏の奇襲に威力を発揮したのであった。
 翌年四月、病が重くなった信玄は上洛を断念して軍を甲斐に返すことを決意した。信玄の病は持病が悪化したためとも、敵の鉄砲に当たった戦傷のためともいわれる。いずれにしろ、ここに武田信玄の西上作戦は頓挫し、信玄は甲斐に帰国する途中の信州駒場において死去した。
 信玄のあとは勝頼が家督を継承したが、天正三年(1575)、織田・徳川連合軍と長篠で戦い敗れ、信玄が手塩にかけて育てた武田騎馬軍団は潰滅した。この「長篠の合戦」に出陣した信君は、織田方の三千挺の鉄砲を前にして到底勝ち目がない、徒に将兵を失うばかりと予感して最後まで突撃をためらった。その間に、山県・馬場・内藤ら武田軍の諸将士は突撃を繰り返し、織田方の鉄砲によって次々と討ち倒されていった。いよいよ、織田方の突撃が始まるとき、穴山隊は撤退をはじめた。この信君の行動は、戦後、武田氏の家中の諸士から「臆病風に吹かれた」と侮られた。いかに信君の合理性による無駄死からの回避とはいえ、中世の武士観念からいえば「卑怯未練」な意気地なしといわれても仕方のない信君の行動ではあった。
 信君は甲斐に向かって敗走した勝頼とは別行動をとって、駿河の江尻城に逃げ帰ると徳川軍の来襲に備えた。以後、同城を守って徳川氏と対峙した。そして、出家して梅雪斎不白と号し隠居をしようとしたが、緊迫する武田氏の前途を案じて、勝頼を補佐して戦場に出た。しかし、次第に武田氏の没落の気配は濃くなり、織田信長も甲斐侵攻計画を着々と進めていた。
 天正十年(1582)三月、織田信長は信濃・甲斐に侵攻を開始し、勝頼は郡内の小山田信茂を頼って落ちたが、信茂の裏切りにあい天目山で自刃して果てた。ここに、平安期以来、甲斐に勢力を振るった武田氏の嫡流は滅亡したのである。一方、穴山梅雪は武田氏に関係した重臣、将兵、領民にいたる者たちの存命と武田家の再興を図るため、江尻城にいて徳川・織田両氏との外交に務め、二月ごろ、織田信長に黄金二千枚を贈り助命嘆願の裏工作を進めていた。そして、織田氏の甲斐侵攻に際しては、家康に随行して富士川沿いに甲斐へ侵攻し、勝頼が自刃ののち織田信忠に謁して家康とともに府中の治安にあたった。その後、諏訪において信長と謁見した梅雪は、旧領を安堵されるとともに甲斐武田氏の惣領の地位を認められたのである。

信君の死と穴山氏の滅亡

 かくして、武田氏旧領の仕置が定まると梅雪は河内領の下山城に帰り、五月、家康に従って安土城へ向かった。信長の恩義に感謝するための旅であった。安土城では信長からの歓待を受け、さらに家康とともに上洛し京都見物ののち堺へ向かった。ところが六月二日「本能寺の変」が勃発、信長は明智光秀の手によって殺害された。
 急変に接した梅雪と家康は驚き急遽帰国することにした。ところが、梅雪は途中で家康と別行動をとったために、山城国宇治田原で野盗の襲撃を受けて殺されてしまった。こうして、信長、家康から認められた甲斐武田氏惣領の地位はわずか八十日余で梅雪の手からこぼれ落ちた。あまりにも短い栄光の日々であり、梅雪による甲斐武田氏再興の挫折であった。享年四十二歳、いまだ壮年の身であった。
 梅雪には、嫡男勝千代がいた。勝千代は甲府の穴山氏館で実質的な人質として過ごしていたが、天正十年の武田氏滅亡に際しては穴山衆に守られて甲府を退去した。同年六月、父梅雪が横死すると、有泉・万沢・佐野氏らの家臣に支えられて幼少ながら家督を相続した。
 天正十年八月に家康は穴山勝千代に判物を与え、武田氏の後継者と認定し、さらに徳川領になっていた駿河での知行地を家康が安堵するという形をとることで、事実上穴山氏を従属下においたのである。いずれにしろ、勝千代は父梅雪が武田氏から与えられていた駿河での知行地を確保し、梅雪が穴山家臣へ配分していた知行地をも維持できたのである。しかし、勝千代が武田(穴山)家当主としての領国支配、穴山衆を率いて合戦の指揮をとったという記録は見られない。とはいえ、穴山衆は「甲州先鋒之衆」に組込まれ、徳川軍の最前線での戦闘に従事し、天正十二年の真田昌幸との合戦や小牧・長久手の合戦に参加している。
 武田勝千代は天正十五年に元服し、武田信治を名乗ったが、その直後の六月に天然痘に罹り十六歳の若さで病没した。ここに穴山氏は断絶し、家康が認めた穴山氏による武田家の中興も潰え去ったたのである。・2006年2月14日


■参考略系図


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