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赤井氏
●丸に結び雁金
●清和源氏満快流


 戦国時代、丹波国氷上郡に威勢を振るった赤井氏は清和源氏頼季流と伝えられる。赤井氏の系図によれば、源頼季の子満実が信濃にあって井上姓を名乗った。井上満実には四人の男子があったが、保元三年(1158)故あって長男遠光は隠岐国へ、三男家光に丹波芦田庄(今の兵庫県氷上郡青垣町芦田)へ流され、同庄に住した。かくして、家光は芦田を称するようになったのだという。とはいうものの、井上氏は信濃国佐久郡葦田村から出ており、丹波へ流された家光は家郷の名をとり芦田としたという説と、芦田庄にはもともと葦田氏がいて、家光は葦田党の栗栖野岑用の娘を妻として葦田姓を名乗るようになったという説がある。
 家光が芦田庄へ移ったころは、保元の乱(1156)の直後であり、遠光・家光らの配流は乱に関係があったものと思われる。ついで平治の乱(1159)が起き、敗れた源義朝は尾張で平氏に殺され、その子頼朝は伊豆に流されて、世は平家全盛時代になった。源氏の流れに連なる家光が、忍従を余儀なくされたことはいうまでもない。
 やがて、治承四年(1180)、伊豆に流されていた頼朝が源氏再興の兵を挙げ、文治元年(1185)平家一族が壇ノ浦に滅ぼした頼朝が鎌倉幕府を開くと、芦田一党にもわが世の春がめぐってきた。家光の子道家は政治的・軍事的才能に恵まれた人物であったようで、勢力を丹波氷上郡から天田・何鹿・船井郡へ伸ばすと、丹波半国の押領使に任じられた。以後、。芦田家は道家・忠家・政家の三代にわたって丹波半国の押領使となり、丹波に一定の勢力を確立していったのである。
 政家の孫為家は、建保三年(1215)に父朝家から赤井野を分けられ、赤井野の南山ふもとの後屋に城を築くと地名をとって赤井を名乗った。為家の跡は嫡男の家義が継いで後屋城主となり、朝日村に移り住んだ弟重家は一家を興して荻野姓を名乗った。




後屋城は為家より九代の赤井伊賀守忠家から、時家・家清・五郎忠家へと四代続いた赤井一族の本拠となった。城址には伊賀守忠家が天文二年(1533)に建立した白山神社が鎮座し、空掘・石垣・高さ三メートルを超える土塁等が残っている。明智光秀の丹波攻めで黒井城と共に落城したが、遺構がよく残った城址だ。

→ 後屋城界隈を歩く
 

丹波の有力国人に成長

 赤井氏系図によれば、南北朝時代の赤井基家は足利尊氏に仕え、軍功により二つ引両の紋を与えられたという。たしかに、『太平記』には氷上郡の久下氏をはじめ、長沢・志宇知・葦田・山内・余田・波々伯部、そして酒井氏ら十名ばかりの丹波武士の名がみえ、その活動ぶりも記されているが赤井の名はみえない。また、基家は九州多々良浜の合戦において、敵に奪われた尊氏の旗を取り返したとある。ところが、北畠・新田軍に敗れ九州へ下った尊氏は、備前児島で兵を帰し「武蔵・相模の勢の外は相随う兵も無かりけり」と『太平記』は記している。赤井基家が、尊氏に従って九州に下ったとは考えられないのである。
 他方、南北朝期の軍記『梅松論』にも赤井の名は出ず、洞院公賢の日記『園太暦』にも、さらに、当時の諸文書にも赤井の名はまったく現われない。はたして、南北朝期前後の丹波赤井に赤井氏が居たとする説は正しいのか、まことに疑わしいものであるというしかない。
 赤井の名が初めて史書に現われるのは、戦国時代の大永六年(1526)七月のことである。当時、幕府管領として幕政の実権を握り丹波守護でもあった細川高国の内衆として、柳本賢治・波多野秀忠・香西元盛の三兄弟が在京して高国に近侍していた。ところが、同じ近臣の細川政賢の子尹賢の讒言を信じた高国によって元盛は自殺させられた。これを怒った兄秀忠と弟の賢治は丹波へ帰り、高国の対立者であった細川澄元の子晴元に通じた。
 高国(道永)はこれを討伐するため、同年十一月尹賢を総大将として諸将を進め、賢治の拠る神尾寺、秀忠の拠る八上の両城を攻撃させた。このとき、新郷の赤井五郎(伊賀守忠家らしい)が二千の兵を率いて会戦し、神尾寺城の包囲軍を背後から攻めた。激戦となり赤井方は二百、尹賢方は三百人が討死し、尹賢方は敗れて京都へ退却した。このことを『細川両家記』が、また、山科言継の日記『言継卿記』が記している。これが、丹波の赤井氏のことが最初に書かれた記録である。

丹波の争乱

 神尾寺城で戦勝した丹波軍は、阿波から上陸してきた晴元の臣三好政長らの軍と合して翌年一月、京都桂川で戦い、高国と将軍足利義晴を近江に追い落し、初めて京都を制圧した。
 これより後、赤井の名が多く現われてくるが、正式の文書には芦田となっていることが多い。たとえば、赤井直家の柏原八幡宮への寄進状には芦田源太兵衛直家と署名し、織田信長が市郎兵衛忠家に与えた安堵状および徳川家康が赤井時直に送った書状にはともに宛名が芦田と書かれており、時家の京都宝鏡寺宛の書状にも芦田兵衛大夫時家と署名している。これらのことから、赤井は芦田を名乗っていたことが知られる。しかし、それが系図の通りに分家した結果なのか、それとも何らかの理由で芦田を継承したことによるのかは分からない。
 赤井氏は、先の五郎が神尾寺城の柳本賢治を救援した前後に何鹿郡を席巻し、これを手中に収めたらしい。そして、氷上郡の大部分を支配するようになったと考えられる。

●丹波守護-細川氏系図


■ 細川氏の内訌年表にリンク

 天文元年(1532)、流浪中の細川高国(道永)の養子晴国(高国の弟)が丹波に入り多紀郡の波多野稙通を頼った。これは高国が享禄四年(1531)六月、細川晴元軍の三好元長と天王寺および尼崎で戦って敗れ、自殺させられたため、その後継者として晴元を討つためであった。波多野稙通はこれに応じて、晴元側から寝返って同年十月、晴国を奉じて兵を挙げた。
 丹波守護職の細川氏は丹波・摂津・四国など数ケ国の守護職も兼ね、一族一致して惣領家に従って、他の管領家(畠山・斯波氏)が内紛などで衰退するなかで最も権勢を保っていた。しかし、細川政元の死後、その養子である澄之と澄元の二人と、それを取り巻く家臣らの勢力争いから二派に分かれて争うようになった。そして、丹波の武士たちは細川氏の内訌を利用して自己の勢力拡大を目論み、互いに争うようになったのである。

細川氏の内紛に翻弄される

 さて、晴国を奉じた波多野稙通は晴元方の赤井忠家を攻略して氷上郡を制圧しようとし、天文二年五月、穂坪(母坪)城に兵を進めた。このとき、城を守っていたのは晴元の臣赤沢蔵人景盛であった。城兵は波多野氏の攻撃をよく守ってこれを退けた。このときの戦で赤井忠家は館の大手で戦死したと伝えられている。退却した波多野氏は同年十月、ふたたび穂坪城を攻撃、死守する赤沢景盛兄弟との間で激戦となり、兄弟はじめ多くの兵が討死して城は落ちた。このとき、救援に来ていた船井郡八木城主で丹波守護代の内藤国貞も敗れたという。戦いの結果、丹波のほとんどが波多野氏の支配下に入った。
 城を占領された忠家の子時家は、子の家清とともに播州へ落ち三木の別所氏を頼った。その後、時家は丹波に帰ると烏帽子岳に城を築いき、天田郡進出の拠点としたのである。そして、所領をぼつぼつと回復し、諸荘園の侵略などを行って勢力の拡大につとめている。時家父子が丹波に帰還できたのは、細川晴元が将軍義晴と和解し晴元政権が安定したこと、波多野氏が奉じていた晴国が自殺したことなどにより波多野氏が晴元方に帰参したことによる。
 その後、晴元政権の安泰も続かず、細川尹賢の子氏綱が高国の跡目と称し、天文十二年晴元に対立、細川二流の対立は激しくなった。晴元側であった三好長慶が寝返って氏綱方となったため、晴元は引退し、細川の惣領は氏綱となった。しかし、晴元は所々に出没して策謀し、ついには波多野氏を頼ってきた。そして、天文二十一年(1552)四月より八上城は三好軍の攻撃を受けることになった。
 弘治元年(1555)晴元側の赤井一族と氏綱方の芦田・足立連合軍が香良で大決戦を行った。赤井方は時家の子家清が弟直正ら一族を率いて南から、芦田・足立連合軍は北から対陣したのである。戦は激戦で、芦田・足立方は一族三十六人ことごとく戦死し、赤井方も家清が負傷し、直正も十二ケ所の傷を負い家来に負われて帰ったという。家清は傷がいえず、二年後の弘治三年二月に三十三歳で死去した。しかし、この戦いによって赤井氏は氷上郡をほぼ完全に支配下におくことに成功した。家清の死後はその子五郎が家督を相続したが、幼少のため叔父直正が後見役として諸政を執り行った。

戦国丹波の梟雄-赤井直正

 こうして、丹波には船井郡に本拠を置く内藤一族と、氷上郡を支配する赤井一族、多紀郡を本拠とする波多野一族とが割拠することになり、この三家が戦国期の丹波国における最大の旗頭であり、そのなかで赤井一族を統帥したのが荻野悪右衛門直正であった。


●赤井氏の居城、黒井城祉
南北朝時代の建武二年に赤松貞範が、猪ノ口山山頂に城を築いた。戦国時代に萩野悪右衛門直正が城主となり、全面的に城郭の大改修を行った。その縄張りは、猪ノ口山全域におよび、丹波国内では、八上城、八木城と並んで三大城郭のひとつといわれる。

 直正は赤井時家の次男として生まれ、荻野氏に養子として迎えられて荻野姓を名乗った。直正は青年期に、実家赤井氏と国人武士の後押しを得て、養父であり叔父にあたる荻野伊予守を殺し黒井城主となった。
 永禄八年(1565)八月、赤井一族は丹波守護代内藤宗勝と「和久郷」において合戦におよんだ。戦いは赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。しかし、雪崩をうって赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏らの「天田郡馬廻衆」が鬼ケ城を攻めたて、ついに貞勝を討ち取った。
 「和久郷の決戦」と呼ばれるこの戦いは、守護代内藤宗勝と新興の赤井(荻野)直正とが、丹波の覇権を争った大きな合戦で、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった。以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、内藤氏の勢力は大きく後退することになり、丹波は三好氏の分国を離脱した。かくして、赤井直正は丹波黒井城にあって武威を隣国に振るうようになった。
 天正年間(1573~)にいたり、全国制覇を目指す織田信長の勢力が丹波にも伸びてきた。天正三年(1575)、信長は部将の明智光秀に命じて丹波経略を開始した。そもそも丹波の国衆たちは、永禄十一年(1568)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、旗頭の波多野氏をはじめとして信長の軍門に降った。ところが、その後信長と将軍義昭とが対立するようになると、丹波国衆は義昭に味方したのであった。丹波国衆の姿勢に怒った信長は、明智光秀に丹波経略を命じたのであった。

織田軍との戦い、赤井氏の終焉

 丹波国は山陰・西国の喉元にあたる要地であり、信長にしても丹波を平定することは急を要した。その野望の前に立ちはだかる赤井一族、波多野一統らの丹波の諸勢力を降すために、明智光秀を主将とし細川藤孝を副将とする織田軍は、ぞくぞくと丹波へと出撃してきた。
 かくして、天正三年(1575)から七年にかけて、物量にものをいわせる織田方と、がっちりと手を結んで反織田に燃える丹波勢との間で、いくたびかの激戦が繰り広げられた。しかし、丹波の諸城は相次いで潰え、天正六年、赤井氏の大黒柱である直正が病死してしまった。直正死後は弟の幸家が直正の子直義を後見して城を固め、織田軍と対峙した。  波多野氏の拠る八上城を包囲した光秀は、兵糧攻めにすると摂津方面へと転戦していった。翌天正七年、丹波に入った光秀は多紀郡と氷上郡の境にある鐘が坂の金山に城を築き、多紀・氷上の連絡を断った。そして、六月、飢餓状態に陥った八上城が落城、波多野氏は滅亡した。こうして八上城包囲軍が赤井氏攻撃軍と合流、赤井方の高見・稲継城が攻略され、織田勢は黒井城に殺到した。すでに孤立無縁となっていた黒井城は、天正七年八月九日、ついに落城した。
 その後の赤井氏は直正の兄家清の子、弟幸家、末弟時直らは旧知の縁をたどって徳川旗本となり、直正の子孫は藤堂氏の重臣となっている。落城を最後に断絶、あるいは没落する家が多かった当時にあっては珍しい家系といえそうだ。・2004年10月20日→2007年11月10日


黒井城址に登る、城下町を歩く  


・三の丸跡から北方を見る。・本丸跡の石垣・二の丸前の堀切り・本丸跡に立つ「保月城址」の碑
・本丸跡から篠山方面を見る、赤井城からの眺望は素晴らしいものがあった。
 


・千丈寺に残る、室町時代の赤井一族の石碑・興禅寺の後方に聳える赤井城址・赤井氏の下館跡という興禅寺、春日局の生誕地とも伝えられている。・興禅寺の瓦に刻まれた下り藤紋・興禅寺境内に祀られた赤井一族の供養碑群。 

→ さらに、黒井城址に登る → 刑部幸家の三尾城址へ → 本家忠家の高見城址へ
【参考資料:丹波戦国史:歴史図書社刊/兵庫県史/氷上町史 ほか】

●赤井氏の家紋─考察 ●井上氏の家紋─考察

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■参考略系図
・「系図綜覧」所収の赤井氏系図を底本に、「丹波戦国史」「寛政重修諸家譜」の系図を併せて作成した。
 

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