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謙信の存在
・謙信は北越という不利な地にあって、上洛制覇と関東経営という両様の大望を抱いた。



 
 上杉謙信は越後に生を受け、その一生を合戦に明け暮れた。関東管領上杉憲政を受け入れたあと、関東への連年に渡る出陣。また、甲斐の戦国大名武田信玄と戦った川中島の合戦は、前後五回を数えた。そして、そのいずれにも、謙信は遅れをとっていない。まさに、戦国時代随一の名将であった。
 かれは、戦国武将の誰よりも早く、上洛も遂げているのである。そんな、かれははたして天下統一を目指していたのだろうか。もちろん、戦国武将の誰もが中央を目指したように、謙信もまた、天下統一をめざしていたことは疑いない。しかし、かれの天下構想は、おそらく将軍家を支えるというものであったろう。尾張の織田信長のごとく、革命を意識するには至っていなかったと思われる。それは、武田信玄にも通じることだが、戦国武将としては一流ではあっても、時代を創造するという発想はなかった。いわば、旧世代の武将(政治家)であったと結論せざるをえない。
 それは、戦国末期、足利将軍家の権威は失墜し、関東公方や関東管領といった守護制度は崩れて、下剋上による新しい支配層が領国を経営拡大しつつある時代に、謙信は上杉憲政から上杉の家と関東管領職を譲られた。そして、謙信は過去の遺物になりつつある制度の秩序回復に血眼になったことにもうかがわれる。それは、あまりにもアナクロニズムに身を置いた武将というほかはないのである。


ライバルたちの評価

 謙信の宿敵であった武田信玄が、謙信の小田原猛攻を聞き、謙信の武勇はいちおう賛えながら、「されども、ただ一刻の雌雄を計り後度の手段なし。北条はたやすく責めほさるまじ」と語った。その言葉どおり結局、謙信は小田原城を攻め落とすまでには至らなかった。
 謙信に居城を攻められた北条氏康もまた、謙信の包囲軍を前にして、「血気盛んな若者で、短気の勇者であるが、時がたつとその勇気はさめて、万事思慮深くなる」と評して、謙信の猛攻に少しも動じるところがなかった。
 謙信の生涯をながめると、家督を継いでからは、毎年のように諸所に出陣している。しかし、それほどの出陣をしながらも、領土はそれほどに増えていないことに気がつく。これは、信玄や氏康が評したように、戦争の天才ではあったが、治世の達人とはいえなかったことの表われであろう。そして、あまりにも旧体制の回復に固執しすぎたのではなかったか。もっとも、それは、謙信が持って生れた律儀で純真な精神がなさしめたことであったのかも知れないが。
 謙信の律儀な性格には同時代の武将も信頼を寄せていたことが知られる。謙信の宿敵であった武田信玄は、「謙信は手づよい弓取りだが、決して、片頬破りの偏頗な気性などはもたない」といってほめている。また、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、かれと戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と、その子勝頼に遺言したという。
 やはり、謙信の好敵手であった相模の北条氏康もまた、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。 ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。 だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、 後事を託す人は謙信だけである」と、語ったという。
 長年のあいだ、戦いを交えた敵将からも、このように信頼されている謙信は、よほど律儀で義理がたい好人物であったよううだ。  とはいえ、謙信に戦国時代を生きた武将として、領土的野心が全くなかったかといえば、必ずしもそうではなかった。 天正元年(1573)信玄が上洛の壮途半ばに倒れるや、謙信は小躍りして加賀・能登へ兵を進めている。以後、 北は出羽、南は上野、西は加賀と勢力圏を拡大した。そして、やがて北上してきた織田信長の勢力とぶつかり、 これを撃破した。ここに、謙信はにわかに天下人の有力候補となったのである。
・左から:北条氏康、武田信玄

奇妙なり!謙信

 ところが、謙信は信長軍を破ると、そのまま上洛して天下統一という好機にありながら、それをあとまわしにして関東平定に乗り出すのである。まだ、謙信は関東管領という虚名に忠実たらんとして、みすみす上洛への絶好のチャンスを逸してしまった。そして、かれにはもう機会はまわってこなかった。天正六年、関東への陣触れをした直後、不帰の人となってしまったのである。
 おそらく、このような謙信の生涯は、天が謙信による天下統一を望んでいなかった結果なのかも知れない。もっといえば、天は、新世代の天下人を待っていたのであろう。
 いずれにしろ、謙信は、戦国動乱の武将として、珍しく正義感に徹した人物であったいうことができよう。したがって、信玄や信長、秀吉・家康などと比較すれば、現実味に乏しい、空想的な、あまいところがある、戦国随一のセンチメンタリストであったといわざるをえない。結局、中世末期の北越の英雄というほかはない存在であった。
  

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