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上杉謙信の生涯
・謙信の一生は東奔西走、まさに合戦に明け、暮れた一生であった。


元号 年(西暦) 出来事
享禄三年(1530) 一月、越後守護代長尾為景の末子として、春日山城で誕生。
天文 五年(1536) 春日山城下林泉寺に入り、天室光育に学ぶ。八月、為景家督を晴景に譲る。
十二年 兄晴景に代り、中部の長尾家領を統治するために栃尾城に入る。
十七年 十二月、栃尾城から春日山城に入り、守護代長尾家の家督を相続する。
十九年 二月、足利将軍義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の使用(国主大名の待遇)を許される。
二十一年 一月、関東管領上杉憲政、北条氏に敗れて越後に逃れる。謙信、館を築いて憲政を迎える。
八月、従五位下弾正少弼に叙任。
二十二年 六月、信濃衆村上義清、高梨政頼らが武田信玄に領地を奪われ、越後に敗走、謙信に援助を頼む。
八月、川中島に出陣(第一回川中島の合戦)
九月、初めて上洛、後奈良天皇に拝謁。
弘治 元年(1555) 四月、川中島に出陣(第二回川中島の合戦)
二年 六月、出家の志を天室光育に告げ、高野山へ向かう。その後、出家を断念。
八月、大熊朝秀が謀叛、駒返で討伐、朝秀は甲斐に出奔。
三年 四月、川中島に出陣(第三回川中島の合戦)
八月、信玄と上野原で戦う。
永禄 二年(1559) 四月、二回目の上洛、正親町天皇に拝謁。
十月、諸将、太刀を贈って謙信の帰国を祝賀(「侍衆御太刀之次第」)。
三年 三月、初めて越中に出陣、椎名康胤を援け、神保氏を討つ。
五月、居多神社に制札を掲げる。初めて関東に出陣、厩橋城で越年。
四年 三月、小田原城を包囲。
閏三月、鶴岡八幡宮で関東管領上杉家を相続、名を政虎と改める。
八月、川中島に出陣(第四回川中島の合戦)
十一月、関東に出陣、武蔵生山で北条氏康と戦う。厩橋城で越年。
十二月、将軍義輝の一字を賜り、名を輝虎と改める。
五年 二月、館林城、三月、唐沢山城を攻略。
十一月、関東に出陣、沼田城で越年。
六年 三月、騎西城、四月、小田城を攻略。
十月、関東に出陣、厩橋城で越年。
七年 一月、小田城・唐沢山城を攻略。
六月、武田信玄撃滅の祈願文を弥彦神社と春日山城看経所に納める。
七月、長尾政景と宇佐美定満、野尻池で溺死。
八月、川中島に出陣(第五回川中島の合戦)
十月、関東に出陣し唐沢山城を攻略。
八年 一条院覚慶(足利義昭)、居多神社神主花ケ前宮内大輔に書状を出し、謝す。
十一月、関東に出陣、越年。
九年 小田城、臼井城を攻略。
五月、北条氏康と和し武田信玄を撃滅し、上洛することを神仏に祈る。
六月、越中に出陣、増山城を攻略。
十一月、関東に出陣、沼田城で越年。
十年 二月、唐沢山城を攻略。厩橋城主北条高広、北条氏政に応じ謙信に背く。
十一年 三月、椎名康胤、謙信に背く。越中に出陣し金山城を攻略。生母病死。
五月、本庄城主本庄繁長謀叛の報を受け、帰国。
十月、繁長討滅のため本庄城へ向かい、十一月、本庄城攻撃。
十二月、甲・相・駿の三国同盟が破れ、今川氏真、謙信に救国を頼む。
十二年 二月、足利義昭、智光院頼慶(居多神社神主花ケ前盛貞の子家盛)を謙信に遣わし、織田信長とともに越・甲の和睦を斡旋する。
三月、越相同盟成立。閏五月、国内に棟別銭を課し、伊勢大神宮の遷宮費とする。
八月、越中の椎名康胤が背き、越中に出陣。
十一月、魚津城主河田長親、居多神社神主花ケ前盛貞に宮津八幡宮の社職を与える。謙信、関東に出陣し沼田城に入り、関東諸将の参陣を促す。関東で越年。
元亀 元年(1570) 三月、北条氏康の子氏秀を養子とし、代りに柿崎景家の子晴家を人質として小田原城へ送ることにする。
四月、沼田城で氏秀と対面し、春日山城へ帰り、氏秀に謙信の幼名「景虎」を授ける。そして、長尾政景の娘を景虎の室とし、春日山城二の郭に置く。景虎十七歳。
十二月、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納める。これより法号「謙信」を称す
二年 二月、徳川家康が新春を賀して、謙信に太刀を贈る。
二月、越中に出陣し、椎名康胤の富山城をはじめ諸城を攻略。
十二月、武田信玄の属城石倉城を攻略し、厩橋城に入る。関東で越年。
三年 一月、北条氏政、謙信と国交を断って武田信玄と和す。
閏一月、石倉城を攻略して厩橋城に入る。ついで、武田信玄・北条氏政軍と利根川を挟んで対陣。
八月、越中に入って富山城を攻撃し、一向宗徒と戦う。
十月、富山城を攻略。
十一月、織田信長、武田信玄と国交を断ち、謙信と結ぶ。信長、子息一人を養子に出すことを誓約。
天正 元年(1573) 一月、越中に入り、一向一揆を攻撃。
八月、越中に出陣、一向宗徒と戦う。ついで、和賀に出陣し、朝日山城を攻略する。
二年 一月、関東出陣令を出す。
二月、北条氏政攻略のため、沼田城に入る。
三月、織田信長、謙信に狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」を贈る。
四月、北条氏政と利根川を挟んで対陣、由良成繁の金山城を攻撃。
九月、北条氏政軍と上野黒川谷・御覧田で戦う。
十一月、金山城を攻め、武蔵鉢形城下、忍・騎西領内に放火。
十二月、剃髪、法印大和尚に任じられる。
三年 一月、養子顕景に加冠し、景勝と改めさせ、上杉弾正少弼を称させる。
二月、諸将の軍役を定めた「上杉家軍役帳」を作成。
四月、北条氏政討滅を多聞天に祈る。
六月、本願寺光佐、謙信に援を求める。
四年 三月、日の宮城主神保長職の要請に応じて越中に出陣。
五月、本願寺光佐と和睦。
九月、越中に出陣し、栂尾城と増山城を攻略、湯山城を包囲。
十二月、能登の石動山城を築き、直江景綱らに守備を命じる。
五年 加賀国に出陣しようとして諸将を召集、ついで能登国を平定しようとして越中国に出陣、魚津城に入る。
閏七月、七尾城を攻撃、長綱連、援けを織田信長に乞う。
九月、七尾城、末森城を攻略、ついで湊川(手取川)で織田信長軍と戦い、撃破する。その後、初めて七尾城に登る。そして、七尾城を修理し鯵坂長実・遊佐続光に守備を命じる。
十二月、領国内諸将八十余人の名前を列記した動員名簿「上杉家中名字尽手本」を書く。
六年(1578) 一月、関東出陣令を出す。
二月、寿像と辞世の詩「四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒」を作る。
三月、発病、十三日、春日山城で卒。享年四十九歳。法号「不識院殿心光謙信」。
  


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