赤罫 甲斐武田氏



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 南北朝合一がなった応永後期(1416年)、関東の地で上杉禅秀の乱が起こった。武田信満は禅秀の舅であった関係からそれに与し、結果討死して甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕する。その後、守護不在となった甲斐国では、国人層が自立の方向へと向かい、その勢力を拡大していった。
 やがて、足利将軍は武田信元を新守護に任じるが、国内で成長した国人層によって信元は入国を拒まれた。やっと、信濃国守護小笠原政康の援助によって信元は入国できたが、守護武田氏の権力はまったく地に落ちていた。
 信元の跡を継いだ信重の時代には、反守護勢力であった逸見一族および輪宝一揆の抵抗があり、信重は甲斐に入国することができず、弟信長の子伊豆千代丸が、信長の組織した日一揆とともに反守護勢力と対立した。
 永亨の頃になると、反守護勢力の旗頭は、守護代の跡部氏となった。跡部氏は信元の甲斐入国に際して支援を得た小笠原氏の一族で、守護代として甲斐に入部した一族であった。永亨五年には、守護方勢力の武田信長を追い、実質的な甲斐の支配者の地位を得ていた。しかし、一転して跡部氏は信重への服属の意を示した。このことによって、信重は甲斐入国を果たせたのである。
 信重のもとに服属したとはいえ、守護代跡部氏の国内での影響力は大きく、下剋上の様相を呈していた。信守・信昌と続く武田氏は、寛正五年(1464)跡部明海の死を機に、反跡部氏の国人らを糾合して、翌六年跡部しを討伐することに成功した。これを機会に守護武田氏は、甲斐国での支配力を伸張していった。
 しかし、守護権力を確立しつつあった武田氏に、信昌の跡目をめぐる家督争いが生じた。すなわち、嫡男信縄と弟油川信恵の争いである。「油川氏の乱」といわれるこの家督争いは、信恵に加担した国内最大勢力の国人小山田氏と武田惣領家との対立でもあった。この争いは、国内の国人層を二分し、甲斐国を一気に戦国時代に突入させた。
 明応七年(1498)、両者の和睦はなるが、永正四年(1507)信縄が死去すると再び対立抗争が始まった。しかし、信虎は翌五年には油川氏・小山田氏を討滅し、他の国人層を掌握し、主従関係をもって甲斐国内を平定していった。ここに武田氏の戦国大名化が始まる。
 信虎は、本拠を甲府の躑躅ケ崎へ移転し、武田氏の新たな体制を築いてゆく。しかし、その強引な性格を危惧した家臣団と嫡子晴信のクーデターによって駿河に追われる。そして、武田の惣領として晴信(信玄)が登場し、分国法(「甲州法度之次第」)の制定・検地など、さらに強固な体制がとられ、甲斐国を本拠とした武田信玄は、戦国最強といわれた軍隊をもって近隣諸国を侵食していった。

■図:武田信玄画像(雲峰寺蔵)


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