岩手/松尾氏
割菱/花菱
(清和源氏武田氏流)
   
 武田信玄の祖父信縄は不幸な生い立ちを背負っていた。信縄は生来病弱だったことから父信昌に見放され、国守の座をめぐって親兄弟と血みどろの争いを繰り返した薄幸の武田氏当主であった。さらに信縄の母は、父信昌の宿敵跡部氏の養女で、信昌の父信守が病没してから幼少の信昌の正室として跡部氏が一方的に押し付けてきた、いわゆる政略的な花嫁であった。
 跡部氏は甲斐守護代として、守護武田氏をしのぐ権力をもち、国政を牛耳っていたが、やがて武田氏譜代の重臣らの間に跡部打倒の声が高まり、寛正六年(1465)兵を挙げた武田勢は跡部一族と戦って同年七月宿敵跡部氏を攻め滅ぼした。そして十月に生まれたのが信縄であった。信昌にとっては憎い跡部の血をひく子であり、素直にその誕生を喜べなかったようだ。しかも、未熟児。信昌は五郎と名付けた未熟児の死を願ったが、信縄の母跡部氏の必死の養育で五郎は平常の赤子に成長した。
 そのころ信昌は側室をはらませ、五郎より半年のちに丈夫な男子が生まれた。のちの油川信恵である。『武田系図』によると、信昌は五人の父である。長男信縄、次男信恵のほかに三男の岩手縄美、四男の松尾信賢、五男の帰雲軒宗存の五人であった。信恵には笛吹川ぞいの油川周辺の領地を与え、縄美には東郡の岩手村周辺の領地を与え独立させ、信賢は信恵の属将松尾氏を継がせた。五男の宗存は出家した。
 信昌は長男の五郎より信恵に守護職を継がせたかった。しかし、惣領を出し抜いて二男が守護職になった例はない。このことは、信昌も信恵もわきまえていたが、たとえ五郎を殺しても信恵に国守のあとを継がせたいと一途に思い、五郎には無理難題をつきつけて辛く当たった。文明十二年(1480)、五郎が信縄と改めて元服したときも父信昌は姿を見せなかった。
 やがて明応元年(1492)信縄を擁立する勢力と、信昌・信恵父子とが激突、八代郡市河の河原であった。この戦いで双方とも多くの部下を失った。が、以後も信縄と信恵の争いは繰り返された。このころ、信縄に長男が生まれている。のちの信玄の父信虎である。
 兄弟同士が争う甲斐国の内戦に目をつけたのが相模の伊勢新九郎(のちの北条早雲)であった。明応四年(1495)新九郎は、二万の大軍を率い都留郡の鎌山に布陣した。これに対して、信縄・信恵兄弟は、お互い鉾をおさめて相模勢の侵攻に当たっている。新九郎も信縄・信恵が兄弟げんかをやめて結束して戦いを挑んでくれば勝つ自信はない、和議を結んで兵を引き揚げた。その後、大地震などもあって信縄・信恵も休戦せざるを得なくなった。そして、兄弟喧嘩をしている場合ではないとして、荒れた領土の復興に汗を流した。
 文亀元年(1501)再び北条早雲が甲斐へ侵入した。信縄はただちに全軍を召集し、休戦中の信恵、縄美、信賢らにも援軍を求め、勢ぞろいして北条軍と対峙した。そして十月三日、梨ケ原から剣丸尾の富士北麓の原野で両軍は激突した。武田の猛攻に屈した相模の将兵は敗走した。この合戦のあと、信縄は病を得たようである。労咳であったという。
 信縄といがみ合った父信昌が永正二年(1505)に病没し、信縄が甲斐守護職となった。しかし、このとき信縄の病はかなり悪化していた。このころ富士浅間神社に病気平癒を願った祈願文を納めている。「生きたい」と願う信縄の真情がにじむ願文である。それもかなわず父信昌の死から二年後の永正四年二月、信縄は四十二歳(三十六歳とも)で没した。
 信縄の病死後、嫡男信虎が甲斐国守護職に就任した。十四歳であった。油川信恵は甥の信虎を頭から子供扱いにして守護職に就いたことを非難した。そして油川の攻勢が始まり、勢力は日毎に拡がっていった。信恵は副将に弟の縄美を据え、約五千の兵を募っていまにも信虎の居館川田へ攻め寄せてくる気配を示していた。信虎はこの情勢に耐えながら出撃の機会を狙っていた。
 永正五年十月、甲斐は嵐に見舞われた。信虎は荒れ狂う暴風雨をみて。重臣らを呼びつけて出撃の命令を下した。奇襲作戦である。敵に気付かれぬように徒歩で敵の勝山城に忍び込んで信恵の寝所を襲い、首級をあげるのが目的だった。この作戦に対して、信恵方は安心しきって不寝番もおかない不用心ぶりであった。信虎は内藤・秋山・板垣といった武田譜代の猛者たちとともに敵陣へ突っ込んだ。信恵ら敵方の名だたる武将が枕を並べる寝所に乱入した信虎らは、片っ端から斬り伏せた。城内は大混乱となり、ついに油川信恵・信貞父子は討死、縄美は自刃、生き残った将兵は伊勢新九郎を頼って落ちていった。
 勝山城の奇襲作戦は大勝利に終わり、以後、甲斐国守護職武田氏の覇権が確立されるのである。
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 『寛政重修諸家譜』をみると、縄美の子孫とする岩手(岩出)氏がみえる。信盛は武田信玄に仕えて旗奉行をつとめ、信景は勝頼に仕えて、天正十年、武田家滅亡のときに織田信長の命によって自殺している。信景の弟一信(信敬、信景の子とも)が徳川家康に召されて、旗本に名を列ねたものである。嫡流はその後改易されたが、庶流が旗本家として存続した。


■略系図