前波(桂田)氏
藤の丸*
(藤原姓?/朝倉氏一族?)
*前波氏の後裔とされる
 前場氏の家紋

   
 前波氏は一乗谷の北、足羽川北岸の前波村の地侍として早くから朝倉氏の被官であったものと考えられている。一説に、朝倉氏景の子景直が前波を称したとする系図もあるが不祥。そして、朝倉家の重臣の一人であった。一方、河口・坪江庄の本所南都興福寺にとっては、北国所々給人の一人であった。従って、年貢確保のため朝倉氏とともに前波氏へも応分の進物をしばしば送っていた。
 前波氏は、朝倉氏が越前に覇権を確立した当初からの有力譜代家臣であった。代々、藤右衛門尉を称している。「藤」を名乗っているところから推察して、藤原氏の後裔であったのだろうか。藤右衛門尉は、『大乗院寺社雑事記』の文明十一年(1479)から延徳元年(1489)までの間に散見している。文明十六年九月の条には、実名吉熙が記されている。その後、前波豊前守の名が『雑事記』にみえる。下って『朝倉始末記』によれば永正三年(1506)一向一揆迎撃の朝倉武将中にもその名がみえている。おそらく、吉熙の孫とされる景定であろう。
 一族の吉連は、加賀一向一揆を迎撃した朝倉宗滴の内衆の一人としてその名がみえ、宗滴の被官となって敦賀に移ったようだ。そして、上田則種とともに敦賀郡奉行に任じられており、奉行職は子の吉長に継承されている。ここにも、前波氏が朝倉家中屈指の勢力を誇っていたことが伺われる。
 景定も、一乗谷四奉行の一人として政務をとっていたことが知られている。景定の嫡子は景当で、父の死後藤右衛門尉を襲名し、一乗谷三奉行の一人として政務を継承している。元亀元年(1570)十一月、近江に出陣して、堅田合戦で戦死した。家督は弟の吉継が継いだ。『朝倉始末記』では永禄四年四月の三里浜犬追物興行の際、随臣中に、また、翌五年中秋の曲水宴の人数のなかにも吉継の名がみえている。

●運命の転変

 元亀三年(1572)、朝倉義景の江北出陣中の九月、吉継父子は義景を裏切って織田信長の陣中へ駆けこんだ。これは、前年以来、義景から勘当を受けていたことは、裏切りの原因だと『朝倉始末記』は伝える。天正元年(1573)八月、朝倉義景の滅亡後、吉継らは織田信長の上洛に従って在京し、桂田播磨守長俊と改名した。おそらく、信長の長の字を拝領したものであろう。同時に信長は、長俊の忠節を賞して越前国守護代職を与えた。これによって長俊の勢威は一躍にして越前国内を風靡した。
 ここに、長俊に比して恩賞が薄いと考えた富田弥六長繁が長俊をねたみ、同心の者を集めて密かに長俊を討つべき画策をめぐらした。そして、桂田と富田の対立は日毎に高まっていった。天正元年末、京都より越前へ下向する途次、にわかに目を煩ってたちまち両眼ともに失明した。人々は「神前の御罰なり」と評したと伝える。
 翌天正二年正月、越前国内に一向一揆が蜂起し、富田長繁はこれに乗じて一揆勢とともに桂田の立て篭る一乗谷を襲撃した。桂田長俊はこれに抗し切れず、正月二十日の朝、ついに戦死した。長俊の子・女房・母らも落ちていく途中、三万谷において一揆に捕えられて刺し殺された。こうして、前波氏改め桂田氏は滅亡した。ただ、『信長公記』には天正十年五月、信長最後の上洛のとき、安土城二の丸番衆の一人として前波弥五郎の名がみえる。桂田長俊の子とされている人物だが、その後のことは不明である。

■参考略系図