藤掛氏
丸に三文字
(尾張織田氏庶流)

 藤掛氏は後世に藤懸と書く。尾張織田氏の一族であるが、永勝が幼にして父に分かれ、外祖父に養われて、その家名を称したという。
 永勝ははじめ織田信長の妹お市が浅井長政に嫁したとき随伴、長政の滅亡とともに織田家へ帰参した。ついで信長の子秀勝が秀吉の養子となると、その補佐役として秀勝に随がい、丹波のうちで六千石の所領を受けた。永勝は信長肉親の世話係であったわけである。
 天正十三年(1585)秀勝が病死すると、秀吉に仕えた。そして、たびたびの合戦に従軍し、文禄元年(1592)には朝鮮にも出動した。この間、所領も次第に加増され、関ヶ原合戦の直前には丹波何鹿郡上林で一万三千石を領していた。
 関ヶ原の役では西軍に属して、大坂高麗橋を服部正栄と協力して守備した。ついで、丹後田辺城攻撃軍に参加したが、細川幽斎とは旧知だったので、攻撃は形ばかりであったといわれる。戦後、所領は一たん没収された。『寛政重修諸家譜』は、上林移封を関ヶ原の戦いの翌年とし、また、家記では戦後旧領六千石を安堵されたとしている。このあたり、史料は不十分で明確さを欠いている。永勝は元和三年(1617)に没した。  子永重は家康に仕えて書院番に列し、子孫は徳川旗本として存続した。
 永勝を上林城主と呼ぶには、いささか問題が残るが、藤掛氏は江戸時代を通じて何鹿郡内に四千余石を維持した。上林城は生貫城などとも呼ばれ、中世以来、室町幕府の被官上林氏の居城で、その城地に藤掛氏の陣屋があった。
 ところで、系図によって永勝の父を永継、あるいは永政などとしている。下に記した藤掛氏系図は『古代氏族系譜集成』におさめられた「忌部氏系図」のなかにみえる藤掛氏の系図を転載したものである。

■参考略系図