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奥州仕置


 戦国末期の葛西氏は、その体質が老朽化する一方で家臣団の巨大化が進み、領内には主家葛西氏に対する家臣団の反抗、あるいは有力家臣同士の相剋が頻発した。葛西晴信治政の後半は、支族、有力家臣との間に相次ぐ抗争を調停、融和のために奔走したといっても過言ではない。


●風前の灯火

 天正十八年(1590)春、葛西氏にも豊臣秀吉の小田原陣に参候すべき運命の日が巡ってくる。しかし、結果的に参陣を果たすことができず、所領没収の憂き目に合う。これには、領内家臣の抗争を鎮圧するのに日時を要し、その機を逸したとされるが、中央政権へ通ずる先進的外交を欠き、大局を見切れなかった判断の甘さが最大の原因であろう。
 また、奥州では伊達家周辺の大名・国人衆が、上方情報を伊達氏という一つのフィルターを通して見ていたという側面もあった。すなわち、伊達氏がもたらす二次情報に依存するとか、あるいは伊達家の行動そのものに眩惑されることで、道を誤ったというのも一因ではなかったか。
 天正十八年七月、伊達政宗は葛西晴信に書を送り「奥州の義は申すに及ばず、出羽に至るまでも御仕置は当家へ仰付らる」と報じている。小田原にいたこの時の政宗は、まさに葛西家を足下に踏まえた代理人というより連合国統領の姿勢であった。
 『葛西真記録』によると、天正十八年七月。豊臣方仕置軍が奥州に入った。主力になったのは蒲生氏郷・木村弥一右衛門の軍で、伊達政宗は案内役をつとめた。葛西方は桃生郡深谷の神取山、栗原郡森原山に陣を構えて仕置軍と交戦。ついに本城の寺池城は重囲に陥って落城し、晴信は戦火のなかで自刃し葛西氏は滅亡したと記されている。葛西軍が配陣して戦闘態勢をとったのは充分に考えられるが、はたして領内で大激戦が展開したかどうかは疑問とされている。『大崎記』には「将軍の御勢いに向い一戦すべきようなく同八月おちうせにける」とあるように、天下の仕置軍の威容を目のあたりにして、戦意喪失、逃げ散ったというのが真相ではないだろうか。
 おそらく、翌十九年の葛西大崎一揆における佐沼城のナデ斬り事件、すなわち伊達氏の手によって行われた大事件を、十八年の豊臣仕置軍や木村伊勢守の手によって行われたように書き直されたものであろう。天正十八、十九年と両年にわたり同じ場所で同じような大事件が発生するだろうか。


●あえなく没落

 晴信は天正十八年八月、黒川郡大谷荘を賜り同地に住んだ。自刃はしなかったのである。そして、葛西氏再興の運動が持ち上がったことは『熊谷文書』などで知ることができるし、蒲生氏郷が政宗に宛てた同年十一月の書簡に「葛西身上の事」と書かれていることでも推測できる。しかし、同年秋におこった葛西大崎一揆の発生のため、葛西氏再興運動は沙汰止みとなり、晴信は加賀国へ流浪する身となり、慶長二年(1597)彼の地で没した。
 葛西大崎一揆は、奥州に新しく来住した領主木村伊勢守吉清・清久父子の暴政に対する旧武士団の反抗であるが、その背景には伊達政宗の扇動があったとされる。叛乱は政宗の目論見通りに運び、十九年には葛西大崎旧領が伊達家の所領に内定することで伊達軍団総動員による一揆討伐が行われる。昨日までの盟主が恐るべき敵に変貌したのである。春には大崎領の宮崎城攻略に続いて登米郡佐沼城が包囲され、一週間の攻防ののち陥落し、有名な佐沼城の"ナデ斬り"で二千五百余人が討ちとられた。さらに、同年八月には桃生郡江糠塚山で、多数の一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で、葛西氏は完全に息の根を止められるのである。  


■奥州仕置に対する葛西氏の配陣(伝)

●深谷荘和淵村出陣(800余騎)
和淵で木村伊勢守吉清の軍と激突し、大将・胤元はじめ諸将が討死して潰走。

大将 千葉左馬助胤元(登米郡西郡城主)
大将 千葉十郎五郎胤永(桃生郡女川城主)
及川紀伊守頼貞(登米郡鱒淵城主)、千葉修理亮胤則(登米郡狼河原城主)、岩淵遠江守経平(東山郷藤沢城主)、千葉新左衛門尉武虎(東山郷黄海城主)、及川美濃次郎頼兼(東山郷津谷川城主)、菅原左近将監重国(本吉郡山田城主) 、米倉右近行友(本吉郡津谷)、峯岸数馬有盛(本吉郡津谷)、三条小太夫近春(本吉郡小泉城主)、寺崎伊予守祐光(桃生郡寺崎城主)、飯野但馬守正秋(桃生郡飯野城主)、嵯峨舘左近、水戸部九郎、箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道


●桃生郡中津山香取(1700余騎)
千葉左馬助胤元を和淵で破った木村伊勢守吉清の軍を背後から攻撃。蒲生氏郷の軍に攻撃されて潰走。及川掃部頭は佐沼城の晴信に合流し、落城時に乱軍のなか一人奮戦したが衆寡敵せず、自害した。

大将 千葉飛騨守胤重(東山郡大原城主)
大将 及川掃部頭重綱(気仙郡蛇ヶ崎城主)
【脇頭】 千葉九郎三郎胤時(東山郷奥玉城主)
鳥海美濃守頼勝(東山郷鳥海城主)、千葉右馬助吉胤(東山郷上折壁城主)、千葉遠江守胤宗(東山郷下折壁城主) 、千葉修理亮家胤(東山郷清水馬場城主)、熊谷主馬亮為安(本吉郡気仙沼城主)、 安部四郎左衛門重時(本吉郡唐桑城主)、横田佐渡守常冬(気仙郡横田城主)、人首権太夫(江刺郡人首) 伊手隼人(江刺郡伊手)、摺沢将監、寺沢丹後、岩淵対馬、矢作内膳、上有住左近


●栗原郡高清水森原山出陣(1500余騎)
蒲生氏郷に攻められ潰走。大将・胤勝は逃亡した。

大将 千葉甲斐守胤勝(東山郷薄衣城主)
【脇頭】千葉大膳亮胤村(東山郷長坂城主)
昆野小次郎定住(東山郷千厩城主)、柴股大学義武(東山郷釘子城主)、笹町新九郎経尚(東山郷西釘子城主)、 岩淵壱岐守経道(西磐井郡赤萩城主)、千葉左門胤連(流郷日形城主)、千葉彦九郎久胤(流郷富沢城主) 、及川主計正頼通(流郷男沢城主)、蝦島蔵人盛永(流郷蝦島城主)、砂小田帯刀、升沢滝口太郎、金成右近大夫 、畑村対馬


●寺崎城から佐沼城に居城を移して篭城。
大将 葛西左京大夫晴信
【一門】葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
【宿老】及川越後守、青梅尾張守
【家老】赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、末永筑後守
【侍大将】千葉三河守胤虎(岩谷堂城主)、千葉兵庫助胤元(岩谷堂嫡子)、柏山摂津守胤道(百岡城主) 柏山千葉若狭守胤衡(百岡嫡子)、本吉千葉大蔵少輔胤政(清水川城主)、本吉千葉常陸介胤遠(清水川嫡子) 、高田壱岐守胤冬(高田城主)、長部藤右衛門正行(長部城主)、及川掃部頭重綱(蛇ヶ崎城主)
【近習】富沢日向守、寺崎石見守
【武将】浜田彈正、摺澤出雲、築館筑前、上沼備中、武鑓典膳、金田豊後、柳津三河、馬込四郎兵衛、小山九郎、今泉左門、赤崎右近、安倍四郎兵衛、手塚庄蔵、二関平蔵、及川淡路、菅原左近、大貫丹藏、千田要人、佐藤重見、小野寺藤三、須藤弥兵衛、可野助市、矢崎又太郎、下河原丹治、白石求馬

天正十八年(1590)大崎葛西陣割

●大崎氏陣立
【先陣】志田数馬義時、玉造石見義晴
【二陣】伊具大学時近、遠田時春
【三陣】名取時光、宮城義国
【右陣】宇田少輔道国、上野蔵人兼光
【左陣】宮崎時光、平 義盛
【一門】大崎右兵衛尉義政、大崎左兵衛佐義繩、大崎右衛門尉義為 、
    大崎家成、大崎義時、大崎義宗
【大将】大崎左衛門尉義隆→【家臣】新田刑部少輔義時、新田義清
・義隆子大崎右京進義満 →【家臣】松田左平治義秀
・義隆子大崎次郎義道  →【家臣】亘理国満
・義隆子大崎三郎満隆  →【家臣】熊谷実時、熊谷実光
大崎右京大夫義光、大崎左京大夫光時、大崎左馬助義仲




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