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奥州の戦国大名


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伊達氏

 稙宗の陸奥国守護職就任により、東北政治史は一代転回をみせ、大名間のちから関係が大きく変わることになった。稙宗は天文五年、分国法である「塵芥集」を制定した。いうまでもなく、戦国大名として力強い一歩を踏み出したのである。また、稙宗は、大崎・葛西・相馬・葦名・二階堂・田村といった近隣の大名に婿入り、あるいは嫁入りさせ政略結婚でも勢力を伸長いた。
 伊達政宗は、天文十三年佐竹・芦名氏の連合軍と戦い、ついだ天文十六年には大崎氏、翌年は芦名義広、続いて二階堂氏・石川氏・岩城氏などを攻めて平らげた。しかし、奥州をほぼ平定した天文十七年の翌年、秀吉の命を受けて小田原に参陣。危ういところで、本領を安堵された。
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南部氏

 23代安信が、大永四年、津軽地方の反乱を平定して頭角を現わし、浪岡に居住していた北畠顕家の子孫浪岡氏を滅ぼしたあたりが、戦国大名化していく起点にあたるようだ。安信の後を継いだのが晴政で、かれは天文九年に南下して戸沢氏を攻め、岩手郡を攻略し、さらに永禄に入ると秋田氏と鹿角郡を争うようになった。
 晴政は天正十年に没した。その後は晴継が継いだが、晴継もすぐに死に。晴政の養子となっていた南部氏一族石川高信の子信直が家督を継いだ。信直は天正十八年の秀吉の小田原攻めに参陣し本領を安堵され、翌年の葛西・大崎一揆に乗じて反乱を起こした九戸政実討伐に軍功を挙げ、新領をも加増されて、近世大名として生き抜いていくことになったのである。
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大崎氏

 大崎氏は代々探題職を受け継ぎながら、大崎・名生を本拠に強大化していったのである。奥州探題という職は近隣の国人領主や土豪層の在地領主を掌握することができ、たとえば、伊達氏・葛西氏、あるいは葦名氏といたような、のちに大崎氏に対抗する戦国大名の家々は、みな大崎氏に参候していたのである。
 しかし、そのような権威的な支配も実力がものをいう戦国時代には通用はしなかった。やがて、伊達氏の台頭が目だってき、ついに伊達稙宗が奥州守護に任目されることになったのである。
 天文五年(1536)、大崎領内に反乱が起き、大崎義直は自らの力で鎮圧することができず、伊達稙宗の救援をあおいで、乱にあったったのである。その結果、伊達氏の武力が大崎領にも誇示され、義直は稙宗の次男義宣を嗣子とすることとなったのである。そして、天正十六年(1588)の内乱で衰退してしまっった。  
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葦名氏

 芦名盛氏が出て、内部の統制もとれるようになり、また、伊達氏とか結城氏などと婚姻を結び、芦名氏の全盛時代を現出した。遠く甲斐の武田、あるいは相模の後北条と結び、常陸の佐竹氏と戦うようになり、伊達とならぶ東北の大大名に成長したのである。
 盛氏のあとは当主の早折が続き、二歳で死んだ亀王丸の後を、佐竹義重の二男義広が継ぐ か、伊達政宗の弟竺丸が継ぐかで家臣間の争いがあり、結局義広が養子に入り家名を保った。しかし、このことが伊達氏と摺上原の合戦を引き起こし、葦名氏は敗れ、ついに滅亡した。   




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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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