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葛西氏の出自を探る


 葛西氏は桓武平氏秩父氏の一族豊島氏の流れである。高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのがはじまりとさている。
 そもそも葛西というのは、下総国葛飾郡葛西庄より起った名前で、葛西庄はのち伊勢神宮領となって葛西御厨と呼ばれた土地である。一説によれば葛西庄を与えれたのは将恒ではなく、その子武常であるともいう。
 武常の孫が康家で、はじめて豊島氏を称し、豊島氏の祖となった。康家の子が清光、その子が清重で葛西三郎を名乗り、葛西氏の初代になった。
 清重は、治承四年(1180)源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房に逃れて以来、頼朝に属して戦功を挙げ、文治五年の奥州藤原氏攻めには、伊達郡阿津賀志山の合戦で先陣となるなど武功著しく、葛西五郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など、宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得た。さらに末裔のものがそれに隣接する登米・桃生郡をも併せ、領土は葛西七郡、三十万石と称せられた。
 また、清重は陸奥国在住の御家人奉行権「奥州総奉行」と平泉特別行政区の「検非違使職」に任命された。但し、「奥州総奉行」のことについては、実際はその職名はなかったとする説も出ている。建久元年(1190)、平泉における清重の任務も終わり、伊沢家景が陸奥留守職に補せられ、同年六月におきた大河兼任の乱もやんだので、同年十一月頃には伊沢氏と交替して鎌倉に帰った。
 頼朝の死後、清重は幕府の宿老として北条氏から重用され、建保元年の和田義盛の乱では北条義時を助けてこれを鎮圧、承久の乱に際しては大江広元とともに鎌倉の留守を守り、元仁元年伊賀光宗の叛乱にも小山結城氏と協力してこれを鎮圧した。源氏滅亡後も侍所の重臣として北条氏の軍政に重きをなした。
 葛西嫡流家の本格的奥州下向は、清重の曾孫清経のころからとされる。鎌倉幕府の内部事情とか、北条氏系の力関係に微して、年代的には正応〜正和年間(鎌倉末、1300年代)とするのが正しいと思われる。葛西嫡流家は本拠を牡鹿郡の石巻に置き、そこに居住して在地支配が開始されることになった。


■葛西氏初期-略系図
葛西氏は桓武平氏であることは間違いないが、初代清重に至る世系はさまざまに異説(朱線部分)がある。
後世のものもそうだが、葛西氏の系図にはかなりの混乱がみられる。




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